2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その4 既存の部落史研究批判に課せられる「要件」

賤民史観と「解放令」 その4 既存の部落史研究批判に課せられる「要件」 

『「部落史」論争を読み解く』の著者・沖浦和光は、「1948(昭和23)年10月・・・京都を中心に「部落問題研究所」が創立され、戦後における部落史研究の口火がきられた。」といいます。沖浦がいう部落史研究の「戦後第1期」は、1948年(昭和23年)から、「戦後第1期」の「総決算」とみなされる『新版・部落の歴史と解放運動』が出版された1965(昭和40)年までをさしています。

1948(昭和23)年は、『部落学序説』である筆者がうまれた年、1965(昭和40)年は筆者が高校3年生のときです。沖浦和光が「戦後第1期」と呼ぶ期間は、ひとりの人間がこの世に生まれて普通教育を修了する期間に相当しますし、また、そのあとに続く、同和対策審議会答申の時代の前史をなす期間であるといえます。

その第1期を最初から担った5人のメンバーの中に、井上清がいます。その研究テーマは、「穢多・非人の呼称によって制度化された近世賤民制の形成」、「明治維新以降における近代の部落差別の実相の究明」、「戦後における部落解放運動の展望」であるといわれます。その根底に流れているのは、「天皇制国家のもとでの賤民差別の歴史を、通史的に描き出すこと・・・」という基本方針です。沖浦は、この時期、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定された・・・」といいます。

「賤民差別の歴史を、通史的に描き出す・・・」、つまり、戦後再開された部落史の研究は、戦前の部落史研究の踏襲を前提とした「賤民史観」による部落史研究以外のなにものでもなかった・・・ということです。

戦前から戦後への過渡期に、戦前の「部落史研究」と「部落解放理論」が徹底的に批判検証されていたとしたら、戦後の「部落史研究」と「部落解放理論」はもっと別な流れになっていったのではないかと思います。

この「賤民史観」による部落史研究の枠組みが設定されたあとで、「共産党が理事会を完全に牛耳っている部落問題研究所・・・」(井上清著『部落の歴史と解放理論』)から、研究者の「造反」・「離脱」が相次ぎますが、残念なことに、「部落問題研究所」に残った研究者も、そこをあとにした研究者も、その分裂の争点が「賤民史観」そのものに向かうことはありませんでした。その結果、「部落問題研究所」も「部落解放研究所」も、戦前の「賤民史観」の継承者になっていったのです。

井上清は、その著『部落の歴史と解放理論』の中で、「私はとくに部落史をくわしく研究したわけでもなければ、解放運動に豐富な経験があるものでもない。私はただ部落を含む日本の歴史を研究し、人民解放のたたかいに献身する一学徒にすぎない。」と記していますが、「一学徒にすぎない」という井上は、部落史研究・部落解放理論において、「敵」・「味方」という色分けを鮮明にしていきます。

井上は、「部落の当面する主要な敵や敵の同盟者は何者であるか、それにたいする部落自身の味方はどんなものであり、その味方と部落民はどんなふうに結合するか・・・」という「部落解放の根本」戦略を明らかにするために、「部落史の現在の緊急の大きな課題」として次の4点をとりあげます。

「第1は部落が封建身分として現在まで残されているのはなぜかということの、具体的な、それゆえ、いつでも宣伝啓蒙にも利用できる事実及び明快な論理による証明」

「第2は部落内部における階級分化と、対立の発生・発展の追究およびその将来の進行方向と速度の歴史的推定」

「第3は部落民と他の被圧迫民・被搾取人民-労働者・農民・勤労市民-との関係」

「第4は部落民自身の現在もっている革新性と反動性の分析」

井上清が指摘する「課題」が充分に認識されていれば、今日、部落解放運動や同和対策事業が直面している「公金不正流用事件」や「似非同和行為事件」などは、未然に防ぐことができた、ないしは、たとえ事件が発生しても、その内部で適切に排除・処断することができたと考えられます。

しかし、この項でそのことを問題にするのは留保して、井上清の4点の「部落史の現在の緊急の大きな課題」についての言及の前に付加された短い言葉をとりあげたいと思います。

井上は、「部落史の現在の緊急の大きな課題は四つあると私は思う。それは部落の起源や「えた」の語源のせんぎなどではなく、第1は部落が封建身分における階級分化・・・」と語っていますが、『部落序説』の筆者としては、「それは部落の起源や「えた」の語源のせんぎなどではなく」という言葉に注目せざるをえません。

井上は、部落史研究・部落解放理論の構築に際して、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、部落史研究・部落解放理論の構築の動機であり目的である「部落」概念をあいまいにしたまま、「部落」と「部落民」が直面している「緊急」事態に対処していくのです。

その結果、井上の「部落」概念は、戦前の、一般的・通俗的「部落」概念の踏襲に終わるのですが、井上が当初からもっている「部落」概念のあいまいさは、「特殊部落」から「未解放部落」、「被差別部落」として、概念の外延と内包が徐々に拡大され、「部落」概念をあいまいなものにしていきます。

井上の「だれが、部落民の敵であり、だれが味方であるか、を見分ける最も正確な目安は、部落出身者であろうとなかろうと・・・」という表現にもみられるように、「部落」概念のあいまいさは、部落史研究だけでなく、部落解放運動にたいしても「あいまいさ」を付与するようになってしまいます。

井上は、高桑末秀(「部落解放理論の停滞と混乱」の著者)の北原泰作(『屈辱と解放の歴史』の著者)に対する批判を逆批判して、部落史研究・部落解放理論への批判は、批判のための批判でしかないと酷評しているようです。井上によると、すくなくとも、既存の部落史研究・部落解放研究に対する批判は、「積極的に、躍進的な明快な理論」を提示する必要があるといいます。より具体的には、「部落という日本の具体的な差別起源・・・性格」(部落史研究上の革新)を明らかにし、「(部落)を解放する具体的な戦略戦術」(部落解放理論上の革新)を提示する必要があるというのです。

井上は、高桑末秀による北原泰作に対する批判は、「不幸にしてそんなものは一つもない。」と「力説強調」しています。

『部落学序説』の筆者である私は、『部落学序説』において、戦前・戦後を通じて、「被差別部落」のひとびとを差別につなぎ止めることになった、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を批判するために、井上清の、「部落という日本の具体的な差別起源・・・性格」を明らかにし、「(部落)を解放する具体的な戦略戦術」を提示する必要があるとの指摘を念頭におかざるをえませんでした。そして、時間と労力をかけて、「常民・非常民論」や「新けがれ論」を構築していきました。

「賤民史観」の二の丸・三の丸を批判攻撃するのではなく、本丸を直接批判攻撃することにしました。「賤民史観」の本丸(今日的意味では、部落問題研究所・部落解放研究所)に対する批判攻撃を貫徹するためには、歴史学・社会学・宗教学・民俗学などの既存の枠組みをさへ乗りこえなければなりませんでした。

筆者の『部落学序説』への批判は、これまでの部落史研究に内在する「賤民史観」の肯定・否定、受容・排除に対して、明確な姿勢をあきらかにして展開していただく必要があるのではないかと思います。筆者を「部落史研究」・「部落解放理論」の「敵」とみなして無視・排除することはいたって簡単なことがらでしょう。筆者が所属している日本基督教団の中にあっても、その無視・排除は徹底したものであったことを考えますと、当然推定されることです。

『部落学序説』の筆者が指摘する「賤民史観」に立脚していない希有な学者・研究者のひとりに、上野千鶴子がいます。上野は、『ナショナリズムとジェンダー』の中でこのように記しています。

「「さまざまな歴史」を認めるということは、あれこれの解釈パラダイムのなかから、ただひとつの「真実」を選ぶということを意味しない。歴史が、自分の目に見えるものとはまったく違う姿をとりうる可能性を認める、ということだ。歴史が同時に複数のものであることを受け容れるということである。歴史はいつでも複合的・多元的でありうる。ここではただひとつの「正史」という考えが放棄されなければならない。歴史の中で少数者、弱者、抑圧されたもの、見捨てられたものたち・・・それがたったひとりであっても、「もうひとつの歴史」は書かれうる」。

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