2021/10/03

別火・別婚論と宗門改め

別火・別婚論と宗門改め(黒川の「触書」解釈批判3・1)


「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」

三重県「平民籍編入についての触書」の前文を解釈する際、黒川みどりは、昨今の部落研究・部落問題研究・部落史研究の一般説・通説になっている民衆の差別意識(けがれ意識)から解釈しようとします。水で身をきよめ、火を改める・・・、それを、単なる神道の宗教儀式として理解し、それ以上に、その本質を追究しようとはしません。政治学・宗教学・民俗学的背景についての追究は一切しないのです。

しかし、三重県「平民籍編入についての触書」は、「けがれ意識」の表出として一蹴に付してしまうには、その背景に多くのことがらを包含しているように思われます。

この「触書」が実施される場合、「旧穢多」は、どこに出かけていったのでしょうか。「川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め・・・」という言葉の通りに実行したのであれば、「身を清める」ために出かけたのは「川筋等」ということになります。「川筋等」というのは、「川」に限定されず、「川」以外の場所をも含む表現ではないかと思います。海でも湖でも泉でも、身体を洗うことができる場所であればどこでもよかったということになります。しかも、この「身体を清める」という所作は、「旧穢多」が自ら行ない、そこには神社の神主等は関与していません。つまり、「川筋等」で「身を清める」というのは、「みそぎ」という神道の宗教儀式とは異なるものであった可能性があります。

三重県「平民籍編入についての触書」前文において、神主が関与するのは、「神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」という言葉にみられるように、近世幕藩体制下の「宗門改め」制度に代わる「氏子調べ」制度の手続きを済ませたあと、旧「火」に代えて新「火」を受け取る「火を改める」所作においてです。

「火を改める・・・」、それはどのような意味があったのでしょうか。

この『部落学序説』は、近代に入ってから、「歴史学」からの文献の引用が増えてきました。「史料」を中心に説明してきましたが、明治4年の太政官布告第488号と第489号は、明治政府による重要な政策として実施されましたので、その背景と影響を考察するに際しては、「史料」の分析は欠かすことができないものでした。しかし、学際的研究である『部落学序説』は、「史料」だけでなく「伝承」も考察の対象にしなければなりません。

今、「火」について考察してみましょう。

人間の歴史は火の使い方を覚えたときにはじまる・・・、と昔、なにかの本で読んだことがありますが、「火」は人間が生活をする上で避けて通ることができないものです。

今では、ほとんど見かけなくなりましたが、昔は、地方の農村にいくと、必ずといってもいいほど、「いろり」がありました。「いろり」は、家族が揃って話をしたり、食事をしたりするときの極めて重要な場所です。家族は、その「いろり」の火をみながら、話をしたり食事をしたりするのです。つまり、「家」の中心には、家族が共に見つめることができる「火」が存在していたのです。その神秘的な「火」は、いわば、家族の絆を強める働きをしていたのです。

民俗学の書をひもとけば、民俗学でいう「むら」には、北海道(アイヌの村)に至るまで、この「いろり」があったことを確認できます。日本だけでなく、欧米諸国においても、「いろり」に代わる「暖炉」があって、その「暖炉」の「火」は家族が共に見つめることができる「火」であったのです。北の国々だけとは限りません。南の国においても、祭りの際の「火」は村民全体が、また部族全体が見つめることができる共通の「火」であったのです。

昔、日本の家庭には、家族みんなが、父母を中心に、祖父母・子供・孫などが一同に介して話をしたり食事をしたりするときの「いろり」があったのです。その「いろり」を取り囲みながら、どの席からも平等に見える「火」を見つめて話をしたり食事をしたりしていたのです。「火」は、家族を家族としてたばねる象徴だったのです。

ところが、高度経済成長で、「電化製品」が各家庭に入ってくることで、徐々にこの「いろり」は姿を消してしまいました。そして、「いろり」と共に、家族を家族として束ねる象徴としての「火」も姿を消してしまったのです。「火」の喪失と共に、日本の高度経済成長の社会には、「核家族化」と「家族離散」、「世代間の断絶」、「親殺し」、「子殺し」、「家庭内暴力」、「離婚」、「家庭崩壊」、「青少年犯罪の激増」、「テレビによる教育環境の変化」、「校内暴力」、「学級崩壊」・・・等のさまざまな現象が生じるようになりました。

筆者は、現在社会の青少年問題の背景に、家族が共に見つめることができる「火」が失われてしまったことが大きく原因しているのではないかと思っています。家族が共に見つめることができる「火」を取り戻すことで、高度経済成長以降に顕著になったさまざまな社会問題を縮小・解消へと導くことができるのではないかと思っています。

「火」は、ひとが生きていく上でかけがえのないものです。

三重県「平民籍編入についての触書」の前文にでてくる「火を改める」という所作は、「旧穢多」にとって、非常に大きなできごとであったと思うのです。明治の近代中央集権国家が、国家に組み込まれた「神社」という機関を通じて、各家庭の「火を改める」施策をとったのですから・・・。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、明治政府とその地方行政が、「旧穢多」に対して「火を改める」ことを法律で定め、それを遵守させた・・・ということについて、あまり関心を持ちません。なにか、同然のごとく受け止めているふしがあります。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に身をゆだねていると、こういうことが視野に入ってこなくなります。近世幕藩体制下の「賤民」であった「穢多」が「平民」になるための当然の所作・・・として認識するようになります。

水で身をきよめ、火を改める・・・、それは、三重県「平民籍編入についての触書」前文によると、「男女人別子共に至るまで」適用されることになります。

『部落学序説』では、「けがれ」について、その多重定義に注目してきました。近世幕藩体制下を生きる人々は、「常」と「非・常」という生活の二極面をもっており、「常」の世界においては、「ケ・ケガレ・ハレ」の循環を、「非・常」の世界においては、「ケ・ケガレ・キヨメ」の循環を説いてきました。「常」の世界の「ケガレ」を「気枯れ」、「非・常」の世界の「ケガレ」を「穢れ」と定義して、『部落学序説』全般に渡って解釈してきました。「穢れ」は、「御法度」に対する法的逸脱のことで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多」は、その職務上、その「穢れ」に関与・対処していたのであって、「穢多」そのものが「穢れた」存在ではないことを力説してきました。その観点からしますと、三重県「平民籍編入についての触書」前文が、水で身をきよめ、火を改める所作を「男女人別子共に至るまで」適用しているのは、近世の「気枯れ」・「穢れ」と異質なものであることに気付かされます。

司法・警察の職務を担っていた「成人」だけでなく、「女・子供」をも含んでいたことは、三重県「平民籍編入についての触書」でいう「穢多」にとっては、それ以降深刻な事態を引き起こします。「女・子供」の中には、ちいさな乳呑み子や幼子、そして、年老いた祖母・曾祖母を含んでいたであろうことは想像に難くありません。「穢多」の職務に携わったものだけでなく、「穢多」役に従事していたものの家族全部を対象にこの、水できよめ、火を改めるという「触書」が出されていたのです。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」の「元服」(子供が大人になるための儀式)を追跡していて思うのですが、その他の社会層の例にもれず、「穢多・非人」にとっての「元服」も15歳の時に実施されます。「穢多・非人」のこどもは、15歳になるまでは、武士・百姓・町人のこどもたちと一緒に遊ぶことが許されていたのです。その当時の親は、自分のこどもが「穢多・非人」のこどもと一緒に遊ぶことをとめることはしなかったのでしょう。しかし、15歳になると、それぞれ家業をついで、その職務に携わるようになります。武士は武士、穢多は穢多、百姓は百姓、町人は町人・・・、それぞれの「役務」と「家職」に生きるようになります。「穢多・非人」は、近世の司法・警察官として、羽織を着て、十手を持ち、町や村の治安の維持と犯罪の取締りに従事するようになります。15歳を過ぎた「穢多・非人」のこどもは、一人前の「穢多・非人」として、その「役務」に忠実に生きることを要請されます。幼馴染みとの間にも、「常民」・「非常・民」という関係とその節操を守ることが要求されるのです。そして、当時の「御法度」に対する法的逸脱である「穢れ」に関与することになります。

ところが、三重県「平民籍編入についての触書」前文によると、「男女人別子共に至るまで」適用されることになっているのです。「穢多」の家族全体に、水で身をきよめ、火をあらためる所作が要求されているのです。

筆者は、この地方行政から出された条例は、近世幕藩体制下の「宗門改め」制度から「氏子調べ」制度への変更に伴う通達以外の何ものでもないと思うのです。三重県「平民籍編入についての触書」を今日の部落研究・部落問題研究・部落史研究で一般的に言われる「差別意識」・「けがれ意識」からのみ解釈することは、その本質を見失うことに結果することになると思うのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、近世・近代・現代の「穢多・非人」に関する史料や伝承を「解釈」によって、歴史の事実とは異なる「幻想」を作り上げていくのです。「みんなで同じ幻想を持てば、その幻想は幻想でなく歴史の事実になる・・・」とでもいわんばかりに、近世・近代・現代の歴史を改竄・捏造していくのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究において、「被差別部落の人々」が差別されていた証拠として、「別火」・「別婚」があげられます。

「別火」・「別婚」は、同和対策審議会答申でいう「心理的差別」として、今日の社会においても受け継がれていると思われます。被差別部落の人々とのまじわりを避け、その間の結婚を忌避する・・・、そのような事例は、33年間15兆円という膨大な時間と税金を投入した同和対策事業・同和教育事業終了後においても、多々みられます。

「別火」・「別婚」とは何だったのでしょうか。少しく検証してみましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...