2021/10/03

部落解放運動への奉仕の学としての黒川学

部落解放運動への奉仕の学としての黒川学(旧:黒川の「触書」解釈批判2)


まず、三重県「平民籍編入についての触書」の前文をとりあげてみましょう。

「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」

戦前・戦後を通じて、部落研究・部落問題研究・部落史研究に共通している傾向は、それらの研究が、純粋に学問的(科学的)研究に徹底することができなかったということです。

「歴史学」というのは、一般的に客観的な歴史の事実を研究する学問(科学)のように思われていますが、いかなる予見や偏見をも打破した客観的な歴史の記述・・・というようなものはほとんど存在しないように思われます。

多くの場合は、その研究者・教育者の帰属する社会層の価値概念・価値判断が色濃く反映されます。

筆者は、高校生のときに、「思想」ではなく「哲学」に関心を持ちました。この世の中の多くの人々が賛同している思想を受け入れその信奉者になり活動家になる・・・ということに、何か、疑問を持っていました。大切なことがらについての判断を棚上げにして、偉大な思想家や政治家の思想の追従者になることには、内心穏やかならざるものがあったのです。彼らの思想は本当に追従する価値があるのかどうか・・・。

戦前には、「皇国史観」が歴史解釈の主要な潮流でした。ほとんどの国民はその「皇国史観」を受け入れ、それを信じて戦前・戦中の時代を生き抜いてきました。「三つ子の魂百まで・・・」ということわざではありませんが、子供の頃、学校の教師から植えつけられた価値概念は、終生消えることがないように思われます。

戦後は、「皇国史観」に代えて、民主化と学問の自由・・・の名のもとに「唯物史観」・「マルクス史観」が歴史学の重要な精神的な背景になっていきましたが、筆者は、高校生のときすでに、戦後の「唯物史観」・「マルクス史観」も、戦前の「皇国史観」と同じ「史観」でしかない・・・と考えていました。

「歴史」は、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等から自由になって、純粋に学問的(科学的)動機に基づいて研究されなければならない、と。だから、「思想」ではなく「哲学」を学ぶことによって、何が真実であるのか、自分で納得のいく真実に依拠して、ものごとを見たり考えたりしていこいうとしたのです。

その傾向はいまだに続いています。

二十数年前、山口の地に赴任してきて以来、所属する教団の教区に設置された同和問題担当部門の委員にさせられたことをきっかけに、部落差別問題に関与するようになりましたが、「部落問題」や「同和問題」の一般的な理念や思想・運動に自らを同調させることができなかったのは、筆者固有の上述のような精神的な背景があるからです。

部落問題に少しく深くかかわるようになって、戦前の「皇国史観」と戦後の「唯物史観」の両者に共通している「史観」の存在に気付くようになりました。そして、その「史観」からも自由になろうとしました。その「史観」は、著しく人間性を疎外する差別思想であると思われたからです。戦前の「皇国史観」と戦後の「唯物史観」の両者に共通している「史観」というのが、この『部落学序説』で繰り返し登場してくる「賤民史観」のことです。

戦前の「皇国史観」に依拠しようと、戦後の「唯物史観」に依拠しようと、両者に共通して存在している「賤民史観」は、「皇国史観」のみならず、「唯物史観」にとっても致命的な欠陥になると判断するようになったのです。

筆者が、多くを学んだ歴史学というのは、それらの「史観」に依拠しない、依拠したとしても依拠する度合いを常に自覚して遂行される実証主義的な歴史学でした。できるかぎり、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等の要請を排して、歴史の事実を史料・資料をもとに実証しようとする研究者の言葉には、すなおに耳を傾けてきました。

『部落学序説』の筆者には、バランス感覚というものはありません。ある立場ではないということを明らかにするためにその反対の立場を鮮明にするということもありませんし、ある立場を評価するために、その反対の立場をただそれだけの理由で否定するということもありません。筆者は、その歴史学者がどのように史料・資料を解釈し結論を出しているのか、個々の論文において、その批判の過程と結論の出し方、そしてその研究を研究足らしめている歴史学者の前理解に強い関心を持っているのです。

この節でとりあげている静岡大学教育学部の教授・黒川みどりについても同じことがいえます。筆者は、特定の、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等から見て、彼の論文を批判しているわけではありません。あくまで、彼の書いた論文において、彼が、史料・資料をどのように整理・批判・解釈していっているか、解釈学的観点から論じているのです。

黒川みどりは、高学歴・高地位で学者・研究者・教育者としての論述を展開しているのに反して、筆者は、無学歴・無資格で、歴史学・社会学・民俗学等においてはただの素人でしかありません。巨大な「象」に戦争をしかける一匹の「アリ」のような存在でしかありませんから、「見物人」は、その勝負は最初から目に見えている・・・と考えられるのではないかと思います。最初から勝負にならない勝負をしかけているのですから、黒川みどりの三重県「平民籍編入についての触書」についての解釈についても、筆者は、持っている知識と技術を総動員して批判することになります。

筆者は、黒川みどりの部落史に関する研究は、部落解放運動からの要請と影響を受けていると思っています。そのため、黒川は、部落解放運動からの要請と影響を大前提とし、歴史学研究に関する知識・技術を小前提として、そこから、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈を紡ぎだしているのです。

そのため、黒川は、他の多くの「賤民史観」を無批判的に受容する学者・研究者・教育者同様、史料・資料を恣意的・主観的に取扱い、そこから、今日の部落解放運動からの要請と影響に応える結論を抽出し、主張することになるのです。

「強弁」という言葉があるそうですが、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、「部落解放運動」という大儀名分のために、この「強弁」をくりかえしてきました。新進の部落史研究者である黒川みどりにしてもしかりです。

『詭弁論理学』(中公新書)の著者・野崎昭弘は、「なかなか絶滅はむずかしかろうと思う」という「強弁」についてその特徴をこのように述べています。

(1)相手のいうことを聞くな。
(2)自分の主張に確信を持て。
(3)逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。
(4)自分のいいたいことを繰り返せ。
(5)おどし、泣き、またはしゃべりまくること。

昔、「八鹿高事件」に関する文献を読んだときに、筆者は、「部落解放同盟」と「日本共産党」の両者に、この「強弁」の特徴を確認せざるを得ませんでした。「部落解放同盟」というよりは、「日本共産党」の方に、その著しい傾向がみられました。

「日本共産党」系である、山口県の高教組に所属する、日本史の教師、同和担当の教師の中にも同様の傾向がみられます。まるで、中世の異端審問にみられる「魔女狩り」の狂気が、教職員の間にもみられる場合が少なくありませんでした。

『部落学序説』の論述を分かりにくくしているのは、筆者の視点・視角・視座が、「賤民史観」という、「部落解放同盟」と「日本共産党」の両者に共通する属性に立脚し、「部落解放同盟」と「日本共産党」の両者を同時に批判しているところにあるのではないかとおもいますが、「実証主義」に徹底しようと思うと、両者から距離をとろうとするのはやむを得ないことがらであると思います。

黒川みどりの論文の中には、「日本共産党」や「赤旗」のような「狂気」染みた「強弁」はありませんが、しかし、部落解放運動側からの要請と影響のあとを否定することはできません。黒川の、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈にみられる「強弁」をとりあげてみましょう。

黒川は、三重県「平民籍編入についての触書」の前文を「家を清掃して「不浄之品」を捨て、従来の火を消し、川筋で垢離(こり)を取って身を清めたうえで神社に参詣して篝(かがり)を焚いてその火を持ち帰るようにとの指示を出している。」と解釈します。そして、「部落民衆が“けがれた”存在とみなされていることが明らか」であると結論づけるのです。「近代においては支配者の側が、意図的に差別を作り出してきたとは考えにくい」(黒川みどり《近代社会と部落差別》)する黒川は、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈に際して、①部落差別は政治ではなく文化に起因する、②部落差別は政策ではなく文化に内在する「けがれ意識」にもとづく。③部落差別の原因と拡大再生産に対する責任は権力の側ではなく民衆の側にある。④近世幕藩体制下の「穢多非人」は警察機構に属してはいたが下級警察業務ではなく、そのこと自体が差別事象なので評価するにたらない・・・という、昨今の部落研究・部落問題研究・部落史研究の「通説」・「一般説」に無批判的によりかかって自説を展開しているのです。

筆者は、黒川が、三重県「平民籍編入についての触書」の前文を、「部落民衆」が「“けがれた”存在」であることの証拠とみなすことは、「触書」に対する著しい逸脱的解釈であると思うのです。

筆者は、黒川が触れることなく避けて通る「触書」の文言こそ、「触書」の重要な本質を語り伝えていると思うのです。

三重県「平民籍編入についての触書」の前文、「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」を、黒川がどのように解釈しているのか、その足跡をたどってみましょう。

まず、「氏神へ参詣」という言葉ですが、黒川は、それを「神社に参詣」と言い換えます。「氏神」は、明治4年の太政官布告第489号やそれに基づく各府県の布告の主旨にそった用語です。明治政府は、明治4年7月の廃藩置県、8月の「穢多非人等ノ称」廃止の布告の前、明治4年5月に「国家が祭祀すべき神々の体系を定めた布告」を出します。官・国幣社、府藩県社、郷社、産土社などの階級をさだめて、旧来の神職を解任、新しい神職を任用します。

民衆は、自分たちの信仰している神社崇拝を否定され、国家が指定した神社の「氏子」になることを強制されます。

明治政府の方針は、「一村一社」制を原則としました。つまり、近世幕藩体制下にあったひとつの「村」の中にある複数の神社は統廃合され、国が定めたひとつの「村社」(神社の末端の機関)として再編成されるのです。そして民衆は、近世幕藩体制下の「宗門改め制」に代えて、キリスト教徒でないことを証し国家に忠誠を誓うために「氏子」として「村社」に強制的に登録させられるのです。

明治4年の三重県「平民籍編入についての触書」は、神道の国教化と「宗門改め制」 に代わる近代的キリシタン禁圧のための装置としてつくられた「氏子調」の登録機関としての特別な神社・「村社」のことであったと思われるのです。「触書」末尾の「氏神に相成るべき神職どもへもこの旨相達し申すべき事」という文言をみてもこのことを確認することができます。

「触書」の対象である「穢多」もまた、近世幕藩体制下の「宗門改め」制度から、近代中央集権国家の新しい「宗門改め」制度としての「氏子調べ」の対象にされていったのです。

つまり、近世幕藩体制下で浄土真宗門徒として、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての職務を遂行していた「穢多・非人等」は、明治中央集権国家の新しい制度のもとで、神道の信者になることを強制されるようになったのです。

浄土真宗門徒は、それまでの宗教教理・宗教生活の基本理念を棄てて、浄土真宗に加えて、明治政府が要求する神道に帰依することをすんなりと認めたのでしょうか。日本の諸宗教の中で、もっともキリスト教に近い一神教的側面を持っているといわれていた浄土真宗の熱心な門徒は、その基本的な教理に抵触する神道の信者(氏子)になることに激しい抵抗を示したのではなないでしょうか。

浄土真宗の指導者の側は、教団の存続をかけて、明治中央集権国家と歩調をあわせ、「聖俗二元論」に立って、従来の浄土真宗の門徒であることと国家神道の「氏子」であることとは、浄土真宗の宗旨に違反しない・・・として、明治政府(「権力」)と妥協を図っていくのですが、浄土真宗の指導者層の「聖俗二元論」が全国津々浦々にまで影響していくには時間がかかり、それまでの間、さまざまな誤解とトラブルが発生するのです。

近世幕藩体制下の宗教警察として、「天下の大罪」であると信じられていた「キリシタン」取締りに関与していた「穢多・非人等」は、大幅な環境の変化に直面させられます。名目上は、明治4年の太政官布告第488号によって、「非常・民」としての職務から解放されます。そして、明治4年以降は、「キリシタン」を取り締まる側ではなく取り締まられる側に立たされることになります。

明治政府によって、近世幕藩体制下の「村」は解体され、近代中央集権国家にふさわしい「村」へと変貌させられていきます。

近世幕藩体制下の「穢多」は、それぞれの「穢多」寺に帰属して、「百姓」とは別に、他の役人から「宗門改め」を受けていましたが、明治4年の太政官布告第489号以降は、彼等が帰属する「穢多」寺ではなく、彼等が居住する「村」の「村社」・「氏神」で、「平民」同様の「宗門改め」を受けることになります。神道の強制に加えて、氏子調べの強制・・・、そのことは浄土真宗の熱心な門徒であった「穢多・非人等」に大きな衝撃を与えたのではないかと思います。

《浄土真宗と民俗》(歴史公論52『日本の民俗と仏教』)の著者・児玉識は、「浄土真宗の篤信地帯では民俗学の通用しないばあいが多い。すなわち、神棚や石碑墓を設けず、門松、シメ飾りをせず、また死者追善儀礼も極めて簡単なばあいが多く、ここから「門徒もの知らず」とよばれている・・・」といいます。

児玉は、山口県大島郡大島町笠佐島の真宗信仰をとりあげてこのように記しています。「一向専修の立場から神祗不拝を真宗は強調するが、この島でも神道はひじょうに弱く、神棚を祀っている家は一軒もない。また神社は・・・八幡宮はあるが、その神体は一尺三寸あまりの阿弥陀像(木仏)である」。明治初年の浦上キリシタン迫害の理由とそれほど大きな違いはない。

児玉は、「真宗のさかんなこの島では、たとえ明治政府の命令であろうと、阿弥陀仏以外を祀る気になれなかった」といいます。

児玉は、「この島には他の一般村落でみられる地蔵そのその他の路傍の石仏や小祠、霊験を伝える奇厳などもまったく存在していないし、山の神の信仰もない。」といいます。「最近まで」、墓も位牌も持っていなかったといいます。

明治4年の太政官布告第488号・第489号、そして、その基本方針をもとに各府県で、「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・という表題のつけられた基本方策を、浄土真宗門徒である「穢多・非人等」は喜んで受け入れていったという説が一般的であるが、歴史の一側面しか見ていない可能性が多分にあります。

明治4年の太政官布告を、明治天皇の「聖旨」にもとづく「解放令」と解釈する黒川みどりは、明治4年の三重県「平民籍編入についての触書」の「氏神へ参詣」という言葉を「神社へ参詣」という言葉に「拡大解釈」することで、歴史の事実・真実をあいまいにしてしまっている可能性があります。「氏神」から「神社」へ拡大解釈された「触書」前文からは、近代部落差別成立の明治政府による権力側の関与の側面が著しく削ぎ落とされてしまいます。そのあとに出てくる結論は、「部落民衆が“けがれた”存在とみなされていることが明らか・・・」な、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的見解以外の何ものでもなくなってしまいます。

部落差別の本当の原因を追究せず、そこから逃亡する学究から、部落差別完全解消につながる新しい理論がどのようにして生まれるのでしょうか。

最近の黒川みどりの言説を追跡していて思うのですが、黒川は、理論的にはおそろしく後退し、部落差別の原因を人種起源説に求めていっているように思われます。「同和対策審議会答申」で採用された「叡知」(人種起源説否定)をなぜ簡単に葬り去ろうとするのでしょうか。

人種起源説を前提とすると、一般の人々と被差別部落の人々との「差異」・「異種性」は限りなく固定され、同和対策事業継続の有力な理論になってしまいます。黒川が、運動団体の要求実現の理論武装として、部落史研究をしているのだとしたら、黒川の学問(科学)は、著しく「似非学」・「曲学」、「三百代言」的学問になり、「学問」(科学)の名に相応しくないものになってしまいます。

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