2021/10/01

穢多と明治維新 2.部落学と歴史観

穢多と明治維新 2.部落学と歴史観

『部落学序説』執筆に際して、筆者が採用した「歴史観」は、小島慶三の「歴史観」です。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』(中公新書)の著者紹介によると、小島は、大正6年(1917)生まれ。東京商科大学卒業後、「企画員、商工省を経て、日銀政策委員、通商産業審議官」を歴任し、退官後は、「日本精工取締役専務」等を歴任、その間、「上智・成蹊・名古屋・一橋各大学」で講師をされたといいます。

筆者が青年時代、一時期、専門商社に勤めたことがありますが、そのときの大阪支店の支店長は一橋大学出身でした。とても聡明な方で、「理論と実践」の両方の面で、優れた知識と才能をお持ちのようでした。私は、いつも尊敬のまなざしをもって、その大阪支店の支店長を見上げていました。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』を読んだとき、彼が、一橋大学の前身である東京商科大学出身と知って、妙に納得した気持ちになりました。

小島の「歴史観」には、世の中から、半ば隔離された大学という研究機関に身を置いて、文献のみを相手に「歴史観」を構築しようとする歴史学者とは、かなり異なる側面がありました。

筆者には、小島の「歴史観」は、「理論」としての「歴史観」に終わらず、激動する社会を生き抜くための「実践」の学としての「歴史観」という側面を含み持っているように思われたからです。

小島は、その書の「世界の革命と明治維新-結び」でこのように語ります。「私は歴史家ではないし、取り立ててある特定の立場に属するものではない」。

民俗学者の柳田国男は、「史心」の大切さを説きました。小島が、「私は歴史家ではない」と言い切ったとしても、小島の「史心」に触れることができた筆者は、小島を、歴史家以上の歴史家であると信じてやまないのです。
小島は、彼の「歴史観」の対極として、「特定の立場」をとりあげますが、小島にとって、「特定の立場」というのは、「マルクス史観」・「階級闘争史観」のことです。

小島は、「明治維新への評価もかっては、マルクス史観の影響を色濃くうけていた。・・・しかしいまでは「梁」はうたかたの霧のように薄れ、現実への接近を主題とする比較史的な視点が主流になっているように見える。」といいます。

小島は、歴史学上の「こうした変化は私にとっては幸いであった」といいます。

小島は、明治維新の研究に際して、「複雑な革命史観」に立って抽象的な歴史学研究に堕することを免れたといいます。小島がとったのは、「幕末維新時代に生きた」「祖父兄弟」という「ミクロ史的な存在」があり、小島の周辺に生きていた具体的人物の歴史を通して、それを突破口にして明治維新の研究に入っていったというのです。

小島の歴史研究法は、皇国史観や唯物史観というイデオロギー的な歴史観に基づくものではなく、具体的に歴史を生き抜いた個人の研究を通して、彼等が生きた歴史の総体を解明するという研究方法でした。

小島は、「長期視点による歴史解釈」を主張します。

小島は、フランスの歴史家ルフェーブルなどの議論を紹介して、「革命は突然起こるのではなくて、政策が前にあって、それが失敗することから革命が生まれてくるという連続性を持っているというものである」といいます。

筆者の理解するところでは、小島は、「革命」を、歴史的なひとつの「点」として解釈するのではなく、いくつかの「点」の集合としての「線」として把握しようとします。

小島は、「明治維新は明治維新であって・・・革命ではない」と主張しようとします。明治維新を「革命」として解釈するのは、「木によって魚を求めるの類」に陥るというのです。

そして、また、「近代化論についても、西洋史観を基にして日本の近代化を説くのも妥当ではない」といいます。それは西洋と日本の間には、決定的相違が存在しているからです。西洋で成立した近代歴史学の手法を、日本の歴史に適用しようとしても無理が生じるというのです。

小島は、相違として、「天皇制」・「日本固有の宗教」・「土地所有問題」・「労働、教育、婦人問題への対応における前近代的な負の遺産」があげられるといいます。

こられの日本固有の歴史上の制約は、単純に、西洋の近代歴史学の手法を適用するたげでは解明できないというのです。

小島にとって、明治維新は「革命」ではないが、明治維新には、「西洋人の理解しがたい革命現象」がともなっているといいます。その「革命現象」には、「王政復古」・「版籍奉還」・「地租改正」・「世俗的な宗教の温存」があげられるといいます。

筆者は、小島は、これらの、「点」の集合である「線」としての、「革命現象」には、「連続」と「非連続」という二つの異なる「点」で構成されていると主張しているように思われるのです。

小島は、最後に、「維新の見方に必要なのは、長期史観に基づく連続=非連続史観だと思う」といいます。

明治維新は、江戸時代の諸制度・思想の「連続の上に立ってはじめて、非連続的な編成を可能にした」というのです。

『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』を執筆することを計画していたときに、そのために一番相応しい「歴史観」は何なのか・・・、さまざまな歴史書を読みながら試行錯誤をしているうちに、私は、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』に遭遇したのです。今から、約10年前のことです。

明治維新を「点」ではなく、「点」の集合としての「線」として理解する(「点」・「線」は筆者の言葉)ということは、筆者にとっては大きな衝撃でした。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』を読めばすぐにわかるのですが、小島が、部落問題に関する言及をしているのは、166頁一箇所のみです。

「明治4年・・・8月に、「穢多」や「非人」の名称も廃止する」

小島が、部落問題についてほとんど言及していないということは、「部落学」にとってマイナスの要因にはなりません。小島は、「特定の立場」(「マルクス史観」・「階級闘争史観」)を否定することで、それらが持っている、歴史学上の差別思想である「賤民史観」に毒されないですんでいるからです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究には、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」に色濃く影響を受けたものが多く、「賤民史観」から離脱した歴史研究に遭遇することは非常に難しい状況がありました。歴史学者・教育者は、「部落史」研究にのめりこめばのめりこむほど、差別思想である「賤民史観」の虜になってしまったのです。

『部落学序説』の筆者である私は、以下の理由で、小島慶三の「歴史観」を「部落学」構築に援用するのです。
(1)実証史的研究であること
(2)研究の前提として、イデオロギー的歴史観を排除していること
(3)歴史を生き抜いた具体的な人物像を通して歴史を観察していていること
(4)明治維新を点ではなく、点の集合である線として把握していること
(5)連続と非連続の視角
(6)賤民史観からフリーであること
(7)「穢多」・「非人」等、歴史用語の扱いが適切であること
(8)民衆史を尊重していること・・・等。

従来の部落解放史研究において、明治4年の太政官布告は、「点」として理解されてきました。しかし、筆者は、小島慶三の上記「歴史観」を援用して、部落史上の「点」を明治維新史の多角的な「線」の中に位置づけて解釈します。(続く) 

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...