2021/10/01

穢多と明治維新 1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬

穢多と明治維新 1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬

近世幕藩体制下の「穢多」と、現在の「被差別部落民」との間のギャップは、相当大きなものがあります。
それを無視して、学校同和教育や社会同和教育で指導されているような解釈、「穢多」=「被差別部落民」(同和地区住民)説は、にわかに信じることはできません。

娘が小学生のとき、保護者を対象に同和教育がありました。筆者もその話を聞きにいきましたが、そのとき、配布されたのが、山口県教育委員会発行の小学校保護者同和教育資料である『みんなで取りくむために』という小冊子です。

その小冊子には、「同和問題は・・・民主主義社会の実現をめざすすべての国民の課題」であることが力説され、学校においては、「すべての教育活動のなかで同和教育を進めています」といいます。そして、「保護者の皆さんにも・・・学校で進めている同和教育をご理解いただき、学校と家庭が一体になって同和教育の推進を図ることが必要です。」と主張します。

この冊子において、近世幕藩体制下の身分を示す言葉として、「士・農・工・商・さらに低い身分の人々」がでてきます。また「農・工・商」を別様に分類して「農民」(農)・「町人」(工・商)が出てきます。また、「農民」の別称として「百姓」という言葉があります。

文部省認定の中教出版の教科書を引用したあと、山口県教育委員会は、その小冊子の中で、このような注をふっています。「農工商よりさらに低い身分」を「部落の人々」というと。

その小冊子の記述は、近世幕藩体制下の「穢多」身分について、「部落の人々」という概念を用いて説明していきます。

明治4年の太政官布告第61号に触れて、「解放令によって、部落の人々は、いちおう制度上の身分差別から解放されました」と説明しますが、その「部落の人々」については、「以下「同和地区の人々」という」と、またまた注が付けられています。

山口県教育委員会の学校同和教育・社会同和教育では、近世幕藩体制下の「穢多」については「部落の人々」、明治4年の太政官布告以降の「旧穢多」については「同和地区の人々」という概念が採用されているのです。

つまり、明治4年の太政官布告以前は、「部落の人々」、太政官布告以後は、「同和地区の人々」という概念を用いて、学校同和教育を実践しているというのです。

この小冊子の説明は、幾重にも過ちを重ねています。

「部落」という概念は、明治期の「行政用語」として一般的に使用され、「同和地区」は、昭和期の「行政用語」として一般的に使用されるようになった言葉です。

山口県教育委員会は、「部落」・「同和地区」という概念を、アナクロニズム(時代錯誤)的に、その概念が存在しなかった過去の歴史を描写するときに用いているのです。

その結果、児童・生徒・保護者は、「部落」という近代の行政用語、「同和地区」という現代の行政用語で、近世幕藩体制下の「穢多」について、理解し、把握するようになってしまいます。

これは、近現代の発想・解釈を用いて、近世の「穢多」を再解釈、場合によっては、歴史の事実に違う解釈に陥ることがあることを示唆しているのではないでしょうか。

小冊子に書かれている内容は、長州藩の歴史的事実とも大きくことなります。

山口県教育委員会は、「郷土史」・「地方史」の研究成果を捨てて、文部省認定の教科書に記された被差別部落に関する指導を展開していたのです。

33年間・15兆円という、膨大な時間と税金を投入してなされた同和対策事業・同和教育事業が終了したあとの、山口県の学校同和教育・社会同和教育は、惨憺たる現状があります。33年間の同和教育が何もなかったかのごとくに、学校教育が運営されているからです。「人権教育」は名前ばかりで、その実質的な内容は急速に失われつつあります。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」、そのことわざを文字通り実践している教育委員会や教職員の現実は、小・中・高の生徒によい影響を与えていないことは想像に難くありません。

ある被差別部落出身教師は、現在の学校の現実は、同和教育が実践される前の状態に戻った感があると嘆いていました。人権教育の大切さを訴えても、誰も耳を貸さない時代に入ったようです。

ここ数年間、山口県立高校で仕事をする機会がありましたが、休憩時間に、かっての同和教育担当者と話をしました。いずれの高校においても、同和教育は、「強者どもが夢の跡・・・」で、荒涼とした感じがしました。同和教育の中身が急速に忘却されていく中で、あとに残ったのは、「部落とはどの地域のことか」、「その部落にはどのような姓の人が多いか」、「結婚相手として部落出身の人を避けるにはどうしたらいか」・・・、そんな知識だけではないかと、思わされるようなことが度々ありました。

教育委員会だけでなく、被差別部落の人々についても同じことがいえます。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」ということわざを、教育委員会や教職員同様、自分のテーゼにしてしまった運動家も多いのです。

「同和対策事業が終了し、被差別部落に一銭の補助金もでなくなったいま、名前をあげて運動するのは、ただ、差別を招くだけ・・・」と言って、部落解放運動から手を引く人々も多いのです。

ときどき、「学校の教職員も、被差別部落の人々も、いっせいに手を引いていっているのに、あなたは、なぜ取り組みを継続するのですか」と批難を受けることがありますが、『部落学序説』の筆者である私は、いわゆる宗教家に属します。

私だけでなく、宗教家の中には、その人がどの宗教・宗派に属しているかに関係なく、部落差別問題そのものに、「誠実」に取りくんでいる人が相当数います。彼等は、「同和対策事業」・「同和教育事業」という名目で、日本全国、33年間に渡って15兆円の税金がばらまかれたときに、その「恩典」にまったくあずからなかった人々です。多くの宗教家は、手弁当で、部落差別問題と取りくんできました。

差別なき社会を作る・・・。それは、宗教家としての良心に基づく本当の思いに裏打ちされていたと思われるのです。

ですから、「金の切れ目が縁の切れ目・・・」であるとは、考えなかったのです。

少しく話が脱線しましたが、山口県の学校同和教育・社会同和教育で、指導されてきた内容を図式であらわすとこのようになります。

「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」

この等式は、恐ろしい内容を秘めています。「部落の人々」というのは、近世では「穢多」といわれた人々、現代では「同和地区の人々」を指していると思われるのです。

抽象的な表現ではなく、具体的に表現すればこのようになります。

「穢多頭・弾左衞門」=「部落の人々」=「東岡山治」

しかし、この等式が成立しないことは、前節で、具体的にとりあげました。私は、実際の歴史はその等式と反対のことを示していると思うのです。

「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)

東岡の著書・『盥の水を箸で廻せ』をどんなに精読しても、「穢多頭・弾左衞門」の片鱗すら見付けることはできないのです。それどころか、東岡は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」の実像と、まったく逆の存在であることを証言している場合が多いのです。

あえて、共通しているところをあげれば、前節でとりあげた両者の文章の中には、近世幕藩体制下の「穢多」が、司法・警察である「非常民」としての職務の遂行上、キリシタン探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったということについて、何の言及もしていないという点です。

東岡は、近世幕藩体制下の「穢多」が、その職務上、当然のこととして、「天下の大罪」と信じられていたキリシタンに対する探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったという事実に、知ってか知らずしてか、何の言及もしていないということです。

彼は、近世幕藩体制下では、司法・警察である「穢多」は、キリシタンに対して、権力に基づく迫害者・弾圧者である、という事実を伏せて、近代・現代のキリスト教会が、「穢多」の末裔である「部落の人々」に対して差別していると、厳しく追求します。

筆者が、「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)を主張する理由のひとつに、このキリシタン弾圧問題があります。

このキリシタン弾圧問題こそ、近世幕藩体制下最後の弾左衞門・弾直記の明治政府の「御一新」・「維新」にかけた夢を打ち砕いたものに他ならないからです。

「穢多と明治維新」を論じる際に、学校同和教育や社会同和教育、被差別部落の人々やその運動団体の語る言葉と思想によっては、解明することはほとんど不可能です。

さすれば、どのようにしたら、「穢多と明治維新」を論じることができるのでしょうか。

筆者は、「科学」(学問)以外にないと思います。

被差別部落の人々のほとんどが忘却してしまった事実に立って、その歴史的真実を明らかにするためには、「科学」(学問)以外にはあり得ないのです。

しかも、「皇国史観」や「唯物史観」などのイデオロギー的史観の中に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が分かち難く融合されていることを考えると、「賤民史観」から自由になって、本当の歴史の事実にたどりつくためには、どうしたらいいのか、『部落学序説』は、そのような状況から自然に生み出されたいったものです。

次回、「部落学」構築のために筆者が採用した明治維新史の枠組みを検証します。

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