2021/10/01

穢多と明治維新 3.明治維新-大久保独裁体制の確立

穢多と明治維新 3.明治維新-大久保独裁体制の確立

小島慶三は、明治維新の「起点」と「終結点」について、次のように記します。

明治維新の「起点」については、「ペリーの来航を契機に外圧が日本の内発的な変革を呼び起こしたというので、維新の起点をそこに置くという考え方がある」といいます。

また明治維新の「終結点」については、「王政復古から天皇制」確立までを視野に入れて、3種類の見解があるといいます。ひとつは、「王政復古から戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県、徴兵制度、学校制度、地租改正という維新の大改革」が、「内乱的な情勢の中」で遂行される「王政復古と近代化」に一応の決着がつく「大久保政権(絶対政権)の確立期」に「終結点」を設定する見方。ふたつめは、太政官制度の廃止と内閣制度の開始を持って明治維新の「終結点」とする見方。最後は、明治23年に、欽定憲法が発布され、第一回の国会が開催されるときを明治維新の「終結点」とする見方。

小島は、明治維新を、「点」の集合としての「線」として、「一番長く見れば、嘉永7年から国会のスタートまでの約40年くらいが維新のスパンになる」といいます。

小島は、近世幕藩体制下の政治システムから明治新政府による近代国家の政治システムへの変遷という観点からは、「慶応4年(明治元年=1868)から明治10年という時期をとることもできる」といいます。この説では、明治維新は、10年の歳月をかけて遂行されたということになります。

小島は、嘉永7年から慶応4年までの期間に、二つ、明治元年から明治6年までの間に、三つ、政変(クーデター)があったといいます。

最初の二つは、文久3年(1863)8月18日の、幕府側(会津・薩摩・土佐・因幡・阿波・備前・米沢藩等)主導による、「攘夷派」に対する「公武合体派」の「巻き返し」(小西四郎『開国と攘夷』)。小島は、「8・18政変」といいます。もうひとつは、幕府打倒を叫ぶ「討幕派」(薩摩、長州、越前、肥前、芸州藩等)主導による、「8・18政変」とは逆の慶応3年(1867)の政変。

明治元年から明治6年までの「政変」は、慶応3年12月の「王政復古」に続く、「版籍奉還」を含む明治新政府樹立という「政変」、二番目の「政変」は、明治4年7月の「廃藩置県」という「政変」、三番目の「政変」は、明治6年の「政変」、このときは、共和制の確立を主張する江藤新平派の敗北と立憲君主制を主張する大久保派の勝利に終わります。明治新政府の基本方針の確定と具体的な施策の方向性はこのとき確定します。

この三つの「政変」に共通しているのは、明治天皇制確立のために、国内において多数の犠牲者を出したということです。「権力」に反対するものに対して、容赦のない弾圧と殺害が実施されたということです。

戊辰戦争に際しては、「官軍」と「佐幕軍」をあわせて16、7万が出兵されたそうですが、その中から両軍あわせて7000人の犠牲者を出したといわれます。「東軍」(小島は「賊軍」とは言わない)の慰霊祭が寛永寺で行われたとき、「東軍だけで7400人」の死者を出していることが報告されたといいます。明治政府は、「官軍」によって不必要に殺害され悲惨な死を遂げた「東軍」の戦死者の数をかなり低く見積もったのでしょう。小島は、戊辰戦争によって、日清戦争の戦死者よりも多い戦死者を出したというのです。「つまり日本は流血の惨なくして革命を行ったという見方は誤りで、むしろ大変な犠牲を払ったことになる」といいます。

「王政復古」を否定し、明治新政府の近代国家樹立を目論んで実施された「廃藩置県」という明治4年の「政変」に際しても、たくさんの国民の血が流されたといいます。明治初年代の不作により、「会津若松、堺、甲府、山形、福島、飛騨、倉敷・・・」といった全国各地で百姓一揆・農民一揆が起こりますが、明治政府は、「穏健な措置をとった」藩知事を、強引な手法で更迭。「新政府は謹慎を命じたり、首にしたりした」といいます。明治新政府の方針に逆らうようなものを重職においていては、政治的変革を「維持できないということで処分した」といわれます。明治政府は、「一揆では1000人までは殺してもいい」と、穏健な知事に代えて、「中央政府」から刺客を送り込んだといわれます。廃藩置県に先立って、明治政府は、、政府の方針に反対する者に対して「大弾圧」を実施、「百数十人が投獄され処断された」といいます。

明治6年の大久保の「政変」についても、流血が繰り返されます。共和制確立を主張する、大久保利通の政敵である江藤新平に対して、大久保は「権力」をむき出しにします。議論を重んじ民意を集約しようとする江藤に対して、大久保は、秘密裏に政敵の追い落としをはかります。大久保は、「広く会議を興し、万機公論に・・・」という五カ条の御誓文の精神を踏みにじり、「暴力」でもって政敵を排除します。「江藤新平は裁判らしい裁判も受けずに、大久保憎しという怨念を残したまま首を斬られた」といいます。江藤は、捕縛後「半月」にもならないうちに処刑されたといいます。「江藤は裁判を承服せず、供述書にも爪印を押さなかった」といいます。大久保は、「自分の朋友、内閣を一緒に作っていた連中を斬罪、しかも士族としては最大の恥辱である除籍をし、その上さらし首」にしたというのです。萩の乱のときには、「前原一誠が天をあおいで」木戸孝允を「呪って死んだ」といいます。明治10年には、西南戦争において、明治新政府は、薩摩人8000人を含む20000人を「逆賊」として殺害したといいます。

大久保の非常なまでの政敵に対する、あるいは自説に従わない官僚、政府の施策に反対する民衆に対する徹底的な排除と抑圧・弾圧は、すさまじいものがあります。大久保の中央集権国家樹立に関する執着は、血塗られた言葉と行為で、多くの民衆を震え上がらせていきます。学者や教育者も、「明日は我が身・・・」と心配して、明治政権に、絶対服従あるいは屈従の姿勢をとっていきます。

そして明治14年の政変。国会開設時期を示す勅令がだされます。

私は、小島慶三の「歴史観」を受容して、「穢多と明治維新」を論じるときの歴史区分を以下のように設定します。

1863年~1867年 明治維新前夜
1868年~1871年 王政復古の時代
1871年~1873年 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択された時代
1873年~1881年 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

それぞれの時代において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」はどのように生きていったのか・・・。史料と伝承、そして、こころある歴史学者・教育者によって累積されてきた民衆史観に立つ論文を用いて、「旧穢多」の足跡を尋ねます。

明治4年の太政官布告は、明治維新の流れの中では、「失意」から「希望」への歩みではなく(部落史の通説はこの立場で主張される)、「希望」から「失意」への歩みであったことを証明していきます。明治14年は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の最後のリストラが実施された年でもあります。

明治15年以降は、『部落学序説』第5章「水平社宣言」批判でとりあげます。   

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