2021/10/03

「新古平民騒動」の真意(続)

「新古平民騒動」の真意(続)


《「新古平民騒動」の研究》と著者・明山修は、「水系・交通路および日常生活圏を異にしていた」地域での「騒動」は、「一般的に一揆は川筋・街道筋をたどって拡大したのに対して、・・・旧藩領内だけに拡大している。」ことを踏まえて、「「騒動」の閉鎖性を表しているものと考えられる。」といいます。

「新古平民騒動」が「騒動」であれ「一揆」であれ、人間の所業である限り、川筋・街道筋を伝って運動が伝搬するであろうことは想像に難くありません。しかし、「水系・交通路および日常生活圏を異にしていた」地域での、谷・川・山を超えた「騒動」の伝搬は、人為的な要素以外の要素が影響していたとも考えられます。

明山の指摘する「騒動」の「閉鎖性」に帰着させないで、なぜ、旧亀山県(旧亀山藩)内でのみ、明治5年の「新古平民騒動」が展開されたのか、もっと他の要因を考えてみましょう。

旧亀山県(旧亀山藩)の阿賀・上房郡内13ヶ村が、近世幕藩体制下において、典型的な家畜市場(産地市場・中継市場)を形成していたことを確認してきましたが、谷・川・山で隔てられた3地域に、同様の「騒動」が発生する要因として、「家畜市場」にともなう要因が大きく影響しているのではないかと思います。谷・山・川を越えて伝搬し、人々に驚異を与えるもの、それは「疫病」です。「流行り病」のことですが、「疫病」の場合、容易に、人間的にみれば隔絶された谷・山・川を越えて伝染していく可能性があります。「新古平民騒動」の場合は、人間の間に広がる「疫病」ではなく、家畜の間にひろがる「疫病」、特に、牛の間に伝染する「牛疫」ではないかと思います。

この「牛疫」が、備中の家畜市場(産地市場・中継市場)を襲っていたのではないかと思います。

インターネット上で公開されている『岡山県畜産史』によると、近世幕藩体制下においては、「畜産は低調な時代であり、知識技術も幼稚であったため、これら家畜伝染病の予防治療は、一部を除き防疫の手段もなく、伝染病を一種の天罰なりと迷信し、ひたすら祈祷加護にすがっていたのが実情である」といいます。

寛文12年(1672)、長州藩においては、周防国・長門国あわせて、牛48900頭が死んだといわれています。長州藩の種畜牧場(秋吉台・大見島)以外の大半の牛が疫病で倒れたと思われます。そのとき、死んだ48900頭の牛の処分はどうされたのか・・・、詳しい史料は入手することはできないでいますが、現実的に考えると、病死した牛の大半は、その所有者である「百姓」の手によって処分されたと思われます。「皮革」に関する権利の故に、「穢多」に引き渡された・・・という話は聞いたことがありません。病気で倒れた牛の皮は価値が著しく減少し、鎧・馬具等の軍需品を製造する材料としては相応しくなかったであろうと推測されます。

中里亜夫著《近代における屠場の変遷》(『部落史における東西』解放出版社)によると、「牛疫」というのは、「空気感染」で、「感染すると2~3日で死んでしまう」そうです。「高熱を出して震え、泡をふいて死んでしまう」ので非常に恐れられていたといいます。「和歌山県では、牛疫によって9700頭という県下ほとんどの牛が死んでしまった・・・」

近代日本が経験する最初の牛疫は、明治5年~6年の牛疫で、2年間で全国5万~6万頭の牛が倒れたといいます。

中里は、「牛疫」対策をこのように綴っています。「同じ牛廐に2頭の牛がいて1頭が死んだ場合、死んだ牛は焼いて地中深く埋め、残った牛も撲殺しなければならない」といいます。中里は、明治5年~6年の「牛疫」による、全国の百姓が経験を余儀なくされた牛の「撲殺の経験」・・・、それが、「明治期の部落差別の問題に非常にかかわりが深いのではないか」と指摘しています。

「牛疫」が、明治5・6年の出来事なら、明治5年1月の「新古平民騒動」は、「牛疫」とは直接関係がなかったのではないかという反論もあるかもしれませんが、ことは、そんなに簡単なものではなさそうです。

明治新政府は、世界に流行する「牛疫」の情報を外国人から入手します。

明治4年(4月~7月)、大阪府は、「家畜の伝染病予防」について「御府令」を出します。外国人医学校教師から、「牛疫」に関する情報と対策を伝授されています。それによると、「牛疫」は、牛に固有の病気であり、人間が「牛疫」にかかった肉を食べても感染しないとして、「過日布告ありしより、末々の者、一図に狼狽し、未だ少しも流行せざるに、既に流行する如く唱え、新しき肉はもちろん、魚肉までも嫌うにいたりては、惑え、これはなはだしきというべし。しかれども、この病、家畜その害を蒙ること多ければ、万一流行することあらば、速やかに打ち殺し、其の屍を捨て、他へ伝染すると防ぐ、そのほか他なし」というのです。また、大阪府は、病死した家畜を川に流すことを禁止しています。

明治5年1月の、深津県における「新古平民騒動」は、大阪府の「御府令」から半年後のことです。

旧亀山藩の、谷・川・山で隔絶された3地域に、空気感染でひろがる「牛疫」が流行していた可能性があります。学者・研究者・教育者は、「新古平民騒動」の研究に際して、「人間」(古平民・新平民)にばかり目を向けていますが、旧亀山藩領地が、「家畜市場」であったことを考慮すると、その特産品である「牛」について回る「牛疫」にも関心を寄せるべきではなかったのでしょうか。

旧亀山藩領外から持ち運ばれた「牛」がもたらした「牛疫」は、谷・川・山を越えて、静かに、空気感染で伝染していったのではないかと思います。「牛疫」の中には、国内で発生する場合もありますし、外国から持ち込まれる場合もあります。『岡山県畜産史』は、「牛疫が明治6年突如として朝鮮から侵入し、7~8月ごろから京都・大坂・兵庫など近畿地方などの020県下に発生し、同年末までに42297頭の牛が死亡した」といいます。その後も、岡山では度々「牛疫」が発生していることを考えると、近畿で「牛疫」が発生・感染する前に、「中継地」であった岡山県において、その初期症状が出ていたとも考えられます。

「牛疫」にかかり、次から次へと倒れる牛・・・。それを見て、対策に追われる旧百姓・・・。旧百姓は、牛疫で死んだ牛を自分で葬り、生きている牛を自分で屠殺しなければならない・・・。「屠殺は人間のやるこっちゃない」(中里)、そんななか、明治4年「穢多非人等ノ賤称廃」の布告が出され、それが周知徹底されはじめると、「穢多」の中に、「交通警察」・「衛生警察」の職務から辞退するものが出てくる・・・。「穢多」にとってみれば、やっと、皮革関係の仕事から自由になることができる、それなのに、なぜ「牛疫」のために、身分解放のあとも関与しなければならないのかという思いがわいてくる・・・。明治新政府の「牛疫」を前にした無為無策の中で、近世幕藩体制下の支配者・被支配者の関係が錯綜し、「仮想権力」である「旧穢多」に対する「旧百姓」の抗議・・・。

「新古平民騒動」の背景には、これまで、学者・研究者・教育者が触れてこなかった、否、避けて通ってきた、隠された背景があるようです。明治5年1月の「新古平民騒動」は、次に起こる「一揆」の前兆でもありました。幕末から、「家畜市場」として、「東牛(ひがしうじ)」を「畿内の和牛流通市場」に提供してきた作州・美作で、明治6年5月、全国4万数千頭の牛を死に追いやった「牛疫」が猛威を振るう中、明治4年の太政官布告によって「穢多」(近世警察官)であることをやめたひとびとに、「かわた」であることを強制する雰囲気がかもしだされ、「旧穢多」は「仮想権力」として、「旧平民」から激しい攻撃をうけることになるのです。「旧穢多」18名が殺害され、11名が負傷させられ、314世帯が家を焼却されたり破壊されたりしたのです。明治5年の深津県の「新古平民騒動」も、そのあとに続く、明治6年の北条県の「美作血税一揆」も、明治新政府の無為無策と危機管理能力のなさが招来したことに過ぎません。

その歴史事実は、明治政府の権力の関与を否定し、「新古平民騒動」・「美作血税一揆」を、「民衆間の内部対立」として片づけ、時の権力を「差別」から免罪してきた学者・研究者・教育者によって、歴史の真実とともに、闇に葬り去られてきたのです。

次回、「美作血税一揆」の標的にされた先祖を持つ、被差別部落出身の学者の証言をとりあげます。 

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