2021/10/03

「美作血税一揆」の真意

「美作血税一揆」の真意


筆者は、『部落学序説』執筆に際して、筆者の立場を「差別(真)」として類型化して認識してきました。「差別(真)」は、「真正の差別者」という意味ではなく、「被差別者」から「差別者」とみなされている者という意味で使用してきました。

山口県で棲息するようになって20数年、同じく、山口県内で棲息されている「被差別部落」の人々に少なからず遭遇してきましたが、残念ながら、長州藩の「穢多村」の系譜をひく、真正の「穢多」の末裔の方に遭遇することはほとんどありませんでした。

筆者が出会った、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いというのは、筆者にとっては極めて例外的なケースです。

それに加えて、今回、「美作血税一揆」について言及する際に、津山藩の「穢多村」の系譜をひく、真正の「穢多」の末裔の方の証言に接することができることは、筆者にとってはこのうえない幸いです。もちろん、筆者は、そのひとに直接会ったわけではありません。彼の書いた本を通して、活字を通して、間接的に出会ったに過ぎません。しかし、たとえ、間接的であったとしても、「穢多」の末裔である彼の主張は、傾聴に値します。

そのひとは、『部落学序説』の中で、何度も引用したことがある部落史研究者の川元祥一です。川元は、「部落学」の提唱者であるといっても過言ではないひとです。後代に、「部落学の祖」と称されるようになる可能性のあるひとです。筆者は、『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して)の執筆をはじめるに際して、川元の「部落学」を相当意識せざるを得ませんでした。筆者は、「被差別(真)」(「穢多」の末裔)である川元に対して、「差別(真)」(「百姓」の末裔)の立場から、あらたな「部落学」を提示することになりました。

今回の「「美作血税一揆」の真意」に関する文章において、川元と筆者の、「被差別(真)」対「差別(真)」、「穢多の末裔」対「百姓の末裔」、という緊張関係の中で、問題をより先鋭化して考察していくことになります。

川元の「部落学」研究の実績として代表的な著作物に『部落差別を克服する思想』(解放出版社)があります。この書から、津山藩の「穢多村」の系譜をひく、真正の「穢多」の末裔である川元と、旧津山藩領内で起きた「美作血税一揆」の関係を取り出してみましょう。

論文の中で、川元は、「私は・・・」、と一人称で多くを語っていきます。

「私は岡山県津山市で育ち18歳で東京に来て、働きながら大学に行き、その後もいろいろな職業についてきた。その間にも差別の諸相み出合ってきたし、親戚の者も、差別によって何らかの傷を負っている。・・・」

川元は、現代社会の中で遭遇する差別事象について言及するときだけでなく、「被差別部落」の歴史をひもとく際にも、歴史の過去の記憶をたぐりよせながら、「私は・・・」、と一人称で語り続けるのです。

川元は、「私が育った家にはいろいろな言い伝えじみたものがあった。」といいます。川元もまた、「被差別部落」に生まれることで、「被差別部落」の伝承の担い手になっていたのです。「被差別部落」に固有の伝承、「その中のいくつかは、こどもには何を意味するかわからないものだった。成長してからだんだんとわかってくる。・・・」、といいます。

川元は、祖母から、近世幕藩体制下から近代中央集権国家に移行する際、川元家を襲った不幸についての話を聞かされます。「昔は富んでいた・・・。しかし、今は貧しい・・・」。川元は、「そのような時代の話」に対して、「現実の生活感とそぐわない話」と受け止めていきます。その話は、川元が「成長するにつれてひとつの疑問になって」いったといいます。

川元は、祖母からは、近世幕藩体制下の「穢多」の「家職」であった「斃牛馬処理の話」は聞かされていなっかたといいます。それは、「被差別部落」の人々の記憶の中に、「斃牛馬処理の話はまったく伝わっていなかった」からです。

川元は、やがて、「被差別部落」の歴史を調べるようになって、「家が斃牛馬処理という・・・、屠畜場を経営していた」ことを知り、それゆえに、川元の家の職業はひとびとから「醜業」とみられていたことを知ります。

川元は、「私のその家は、ケガレとか不浄に触れて「醜業」をしているという理由で打ち壊しにあっている。時期は明治6(1873)年のことだ。」といいます。

川元は、「私が育った津山という所は当時は美作国といっていたが、「賤民解放令」に反対する農民が「えたはもとのままにしておけ」という要求をもって一揆を起こ」したといいます。農民の要求は、明治新政府の諸政策(「学制」・「徴兵制」・「地租改正」)に及んだといいます。

「美作国血税一揆」がもたらした、「穢多」に対する悲惨な結果を知った川元は、「私はずっと、「えた狩り」をやるような農民なんかとんでもないと思っていた。」といいます。彼は、「いまでもそう思っている」と強調します。しかし、彼は続けて、「何が農民をそこまで動かしたのか、もっとおくの深いものを考えていかないとけいない」と思うようになったといいます。

『部落差別を克服する思想』の中で、川元が1人称で書いた「美作国血税一揆」の話を転載します。

「その時に徹底的に抵抗した被差別部落があった。その村は一揆勢によって村中、打ち壊しで、多くの人が殺された。一番ひどい所では抵抗した人が20人ぐらい川原にひっぱりだされて、10人くらい竹槍で刺し殺されている。

私の村は、城下に近い所だった。一揆は城下から遠い周辺の山の方から被差別部落を襲いながら、だんだん城下に近づいている。だから何が起こっているのか村に情報が流れてくる。美作国一揆は全部で2万人くらいの人が蜂起した。一つの被差別部落を2000人も3000人もの人が取り囲むわけだからほとんど抵抗できず、たいていの村は一札書いている。書かなかった村はほとんど潰されていることが伝わってくるので、私の村は早々に一札用意して村境に御札として立てて置くということをやった。「元のえたでようございます」という意味の一札だ。

当時約20戸の村だったが、抵抗なく一揆の要求を承諾している。しかしそれで無事にすむかというとそうではなかった。いっときは一応無事にすんだけれど、やがて私の家と、当時村の頭をやっていた家だけは打ち壊しにあった。その理由は2軒の家が当時、「牛殺し」をしていたからだ。江戸時代からの斃牛馬処理を主体にと屠畜とか皮革関係の家業をやっていたと思われる。一揆勢は「牛殺し」を「醜業」といい、これをやめさせようとして家を壊した。戸主がひっぱりだされ、いろいろ脅かされ、かなり抵抗した跡があるが、結果的に廃業に追い込まれたと考えられる。

私が小学校に上がる直前ころ、縁側で一緒に日向ぼっこをしていた祖母が私に言ったことがある。・・・こうした話の意味、状況がわかるのはずっと後のことだったが、その話のイメージは衝撃的だった。・・・私の家は、そのように襲われ、廃業に追い込まれた。祖母の話は美作国血税一揆の話だった。つまり、「醜業をしていたから、家を壊され廃業に追い込まれたということなのだ。」

川元は、「当時の農民など一揆勢の意識・観念はどんなものか考えておく必要がある」といいます。川元は、「その観念を過去のものとする考え方もある」。しかし、川元は、「その観念は部落差別としていまも生きている」と主張します。川元は、「このような過程が現代の人々にどのように認識され、どのように克服されるのか」といいます。

筆者は、『部落学序説』は、近世幕藩体制下の「穢多」の末裔である川元の、「旧穢多」という「被差別(真)」からの問いかけに対する、筆者の、「百姓」の末裔・「差別(真)」からのひとつの答えの提示として認識しています。

次回、『部落学序説』の立場から、川元の「美作国血税一揆」理解を批判・検証します。

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