2021/10/03

「新古平民騒動」の真意

「新古平民騒動」の真意


現在の岡山県内で発生した、明治5年の穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」は、旧亀山藩の飛び地、阿賀・上房郡内の13ケ村で発生しました。

1774年(延享元年)のことです。幕府の命令で、亀山城主・板倉勝澄と松山城主・石川総慶との間で「交代移封」が実施されます。その際、亀山藩の城主になった石川総慶に、阿賀・上房郡内の13ケ村、1万石の所有が、新亀山藩の飛び地として認められるのです。

それ以来、明治に至る100数十年、阿賀・上房郡内の13ケ村は、伊勢亀山藩の支配下に置かれることになるのです。その支配の中心になったのが、「備中中津井陣屋」だそうですが、明治4年7月の廃藩置県によって亀山県と名称が変更され、同年12月には、亀山県の「行政組織はそのまま引き継がれ」た形で「深津県」に組み込まれるのです。

《「新古平民騒動」の研究(中)》(『ひょうご部落解放36』)の著者・明山修は、明治5年の穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」は、この旧亀山藩領内の13ヶ村内で発生したというのです。明山によると、「「騒動」の発生した地域は、水系・交通路および日常生活圏を異にしていた」といいます。それらの地域は、「すでに備中国内の全県が深津県に統合されているにもかかわらず、「騒動」は元亀山県でのみ発生している・・・」というのです。

現代の地図上で確認しても、「新古平民騒動」の舞台となった地域は、岡山県3大河川の旭川と高梁川の支流が入り組んだ複雑な地理的状況にあります。

この、山と谷と川で隔てられた、4ヶ村・6ヶ村・3ヶ村の3地域からなる領地が、移封後も、新亀山藩の飛び地として城主・石川総慶の手中に残された理由は何だったのでしょうか。

『部落学序説』の主要資料源である、長州藩の支藩に徳山藩がありますが、この徳山藩にも飛び地があります。阿武郡内2ヶ村のことですが、この2ヶ村は、徳山藩に、日本海にむけた港と、「長州における古い代表的銅山」である「奈古高田銅山」がありました。

しかし、この「奈古高田銅山」については、記録がほとんど残っていないと言われます(吉積久年著《近世奈古高田銅山始末抄記》)。吉積は、「どういう組織と規模で、いかばかりの産銅があり、奈古村民等地下人及び徳山藩にどれだけの実がもたらされたものか詳細は判然としない・・・。」といいます。

この飛び地は、徳山藩が他の領地と交換したもので、徳山藩にとっては、なんらかの魅力があったと思われます。徳山藩は、阿武郡内2ヶ村の治安維持のために、「穢多村」3ケ村を配置します。徳山城下が、「軍事」に関与した「非常・民」である「武士」が優先的に配置されるのと違って、徳山藩の飛び地の治安維持は、多くの場合、「穢多」の手にゆだねられます。

徳山藩の飛び地のことを参考に比較・考察しますと、松山城主・石川総慶が伊勢亀山藩に移封になったとき、もとの領地、阿賀・上房郡13ケ村の領地1万石を、亀山藩の飛び地として継承するようになったのも、なんらかの背景があったと推測されます。阿賀・上房郡13ケ村の領地1万石は、石川・亀山藩にとってどのような存在価値があったのでしょうか。

筆者は、石川・亀山藩にとって、阿賀・上房郡13ケ村の領地1万石の領地はどのような存在価値があったのか、史料不足のため、確固たる論述をすることはできません。しかし、明山の論文の文章の中に、その秘密が隠されているように思われます。

旧亀山藩内の領地、阿賀・上房郡13ケ村を巻き込んだ、明治5年の穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」について、岩波近代思想大系の『民衆運動』には、「備中新古平民騒動の届書」の項に、「上房郡中津井村新古へ移民騒動」・「元亀山県出張所届書」・「元成羽県届書」・「元高橋県届書」等の史料が含まれていますが、これらの史料には、「穢多」記載はあっても「かわた」記載はありません。

ところが、明山は、その論文の要所々々で、「穢多」に関する記事を「かわた」に関する記事として解釈します。

(例)

「元亀山県管轄下の新平民は、「解放令」を法的よりどころとして「かわた」役を拒否し「村抱え」関係の立ち切りを宣言した」。

「伊亀山県下中津井村の新平民は、村落共同体に対して「かわた」役の拒否を宣言した。これに対して「古平民」は、「かわた」役を拒否により、「村抱え」関係の立ち切りを宣言した。これに対して「古平民」は、「かわた」役の拒否により「眼前差シ支相成」るとして「人気沸騰」し、「村掟」をつくり新平民に経済的制裁をもって「かわた」役の継続を強制した」。

「このように、新平民が圧力に屈し「請書」を出し、従来通り「かわた」役務を奉仕し、あるいは屈辱的礼儀穢多を遵守した場合は、「騒動」は発生しなかった」。

また、明山は、明治以降の旧穢多に対しても、適宜「かわた」を採用しています。

明山が、文献に出てくる「穢多」概念を、あえて、「かわた」と解釈する理由は何だったのでしょうか。明山の「穢多」概念を「かわた」として解釈する処置は、「穢多」=「かわた」と同一視する歴史学者にとっては、それほど意味を持たないかもしれませんが、『部落学序説』でこれまで明らかにしてきたことを前提にしますと、明山の、「穢多」概念を「かわた」概念に置き換える解釈手法は決して無視することができない類のものを含んでいます。

『部落学序説』の筆者である私は、明山が、明治5年の、阿賀・上房郡13ケ村の穢多襲撃・殺害事件の原因として、「穢多」ではなく「かわた」に関係したことが「騒動」の原因であると考えていたのではないかと推測します。明山は、ただ、それを歴史学者として証明するためには、少しく資料が足りない、その資料が入手できるまでは明言を避けようとして、その研究の現状を「穢多」概念を「かわた」概念に置き換えることで示唆したのではないかと思われるのです。

「旧亀山県出張所届書」には、明治4年の「穢多非人之称廃」という布告が原因で、「平民ト元穢多ト隔意ヲ生ジ」たと記されています。明治4年の布告が出されるまでは、「平民」と「元穢多」との間には「騒動」・「一揆」に至る要因はなかったのではないかと思われます。

ところが、明治4年の太政官布告によって、「備中国下中津井村元穢多共ヨリ旧平民ヘ」「此旅出格ニ身分御取立被成下候ニ付テハ、今日ヲ限リ、盗賊尋方、乞食追払ハ勿論、死牛馬取捨等一切御断申」と「申出」がだされるのです。その「元穢多」からの「申出」を前に、「旧平民」は、「眼前差支ニ相成候」と困惑し、「元穢多」が「年来勤来リノ廉々不残相断、差支掛ケ候上ハ」、「元穢多」の「役務」の反対給付のひとつとして「旧穢多」に対してなしてきた便宜を一切廃止するという報復にでるのです。明治4年の「穢多非人等ノ称廃」の太政官布告の内容のあいまいさ、筆者がいう「半解半縛」が災いして、「騒動」・「一揆」が発生するのです。

元亀山藩の「穢多」は、「穢多非人等」の身分が廃止されたことで、当然、その「役務」と「家職」から解放されたと見なすのです。その結果、従来から勤めてきた、「盗賊尋方」・「乞食追払」・「死牛馬取捨」の「役務」に関与することを辞退するというのです。「盗賊尋方」・「乞食追払」は、「穢多」の「役務」に関する事項です。それでは、3番目の「死牛馬取捨」は、「役務」なのでしょうか、「家職」なのでしょうか・・・。筆者は、「皮革」に関するものは「家職」に数えることができると思いますが、「死牛馬取捨」は、「役務」として把握しています。

従来、部落史の学者・研究者・教育者によって、「家職」としての「皮革」に関する権利と、「役務」としての「死牛馬取捨」の職務との区別はほとんどなされてきませんでした。多くの学者・研究者・教育者は、両者を恣意的に解釈し混同してきました。

岩波近代思想大系『民衆運動』の解説者・深谷克己もそのひとりです。深谷は、「死牛馬取捨」を「死牛場(斃牛馬)の皮を剥いで埋める処理。皮革取得は権利。」と説明します。「死牛馬取捨」には、「皮革」に関する権利の執行が不可分に付随しているというのです。

しかし、筆者は、あとで詳述するように、「皮革」に関連した「家職」の範疇で把握できない、もうひとつの、「役務」としての「死牛馬取捨」を想定せざるを得ないのです。

明山は、《「新古平民騒動」の研究》に際して、その違いに気づき、史料に出てくる「穢多」概念を「かわた」と解釈したのではないかと思います。明山の《「新古平民騒動」の研究》は、「穢多」と「かわた」を明確に区分しているという点で、「新古平民騒動」の研究において、他の学者・研究者・教育者に一歩先んじているとか考えざるを得ないのです。

明治5年の穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」は、「旧平民」が、元亀山藩の「穢多」(新平民)を、明治4年の太政官布告により「穢多」身分から解放されたあとも、「かわた」であり続けることを要求した事件であると思うのです。

石川・亀山藩が、阿賀・上房郡内の13ケ村を飛び地として所有する価値は、すくなくないものがあります。それを伝えている文書に、インターネットで公開されています『岡山県畜産史』があります。その、「第1章旧幕時代までの畜産の概要 第4節牛馬市場 1.牛馬の流通と牛馬市場」に、近世幕藩体制下の備中松山藩の畜産事情が記されています。

『部落学序説』風に解説していきます。

近世幕藩体制下において、「備中、備後、伯耆、出雲の山間部」の「特産品」として「牛」があげられます。17世紀末ごろから、「大坂天王寺市場」に向けて、近畿・中国・四国・九州から「牛」が集められたといいますが、「備前、備中の国おおく牛を飼手子を産す。・・・年中備前、備中より牛を引き来ること日々にたえず」と記されるほど繁栄を極めます。この「牛」のことを「登り牛」というそうですが、備中の「牛」は、「西牛(にしうじ)」として、「備後、安芸、岩見」地方に「農家の耕作用」として出荷されたそうです。

近世幕藩体制下において、家畜市場においては、「産地、消費地、中継地の各分化」が進んでいたといいます。そのような中、寛永年間(1624~1643年)、松山藩によって、「中継市場」として、「備中松山市場」が開設されます。「産地市場」の「千屋市場」と共に、「繁栄」したといわれます。近世後期になると、九州豊後・四国讃岐の「優良な子牛」が備中の「家畜商」によって備中に集められたといいます。

亀山藩の城主になった石川総慶にとって、阿賀・上房郡内の13ケ村は、松山藩が命運をかけた一大事業として育成してきた先祖代々の貴重な遺産であったのです。幕府は、それまでの松山藩の功績を斟酌すると、阿賀・上房郡内の13ケ村の新亀山藩の飛び地化することを承認せざるを得なかったのでしょう。

ここで確認しておかないといけないのは、備中の「家畜市場」の担い手は、「百姓」であって「穢多」ではない・・・ということです。「松山市場」の中曽屋は、「上層農民」で「百姓」身分であって、「穢多」身分ではありませんでした。近世幕藩体制下の「穢多」にとって、「牧畜」は、その「家職」ならざる「家職」であったということです。「家畜市場」にからんで「穢多」が関係していたのは、「穢多」の「家職」としての死牛馬の「皮革」に関する権利と、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「道路警察」・「衛生警察」機能としての、街道における家畜の死骸の除去と家畜の疫病対策等のみでした。賑わう市場の中で、牛の盗難、売買をめぐる詐欺事件、大規模にせりが行われるときの警備・・・等々、旧亀山藩の「穢多」は、「かわた」というより「穢多」の職務が多かったのではないかと思います。その職務の報酬が、「役務」の反対給付としての「死牛馬」の「皮」であったのです。

筆者が、明治5年の「新古平民騒動」を「畜産」と結び付けて解釈することは、決して的はずれではありません。明治5年の深津県の「新古平民騒動」だけでなく、明治6年の北条郡の「美作血税一揆」も、「家畜市場」・「牛馬市場」での「騒動」・「一揆」なのです。深津県は、古くからの「家畜市場」、北条県は、幕末の頃の新興「家畜市場」だったのです。明治5年の「新古平民騒動」と、明治6年の「美作血税一揆」が、おなじ、「家畜市場」を抱えていたということは偶然ではありません。両者とも、非常に密接な関係にあったのです。しかし、日本に歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、「穢多」の職務を、「人の嫌がる賤業」と評するのみで、その内容については史実に基づいて解明しようとはしませんでした。

《「新古平民騒動」の研究(中)》の著者・明山修が、「新古平民騒動」の史料の解釈において、「穢多」を「かわた」として解釈することは大きな意味を持っていたのです。明山は、適当に「穢多」を「かわた」に言い換えているのではなく、意図的に言い換えているのです。

しかし、元亀山藩の「旧百姓」たちは、「旧穢多」が、明治4年の布告によって、「穢多」身分から解放されたからといって、どうして、「眼前差シ支相成」と、切羽詰まった状況に追い込まれたと感じたのでしょうか・・・。「旧穢多」が、「道路警察」・「衛生警察」の職からはなれると、「家畜市場」を営む「上層農民」は、なぜ、困惑を隠しきれなかったのでしょうか・・・。「穢多村」を襲撃して、「穢多」3名を殺害してまで、事態の鎮静化を図らなければならなかったのでしょうか・・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...