2021/10/03

「壬申戸籍」に関する一考察 2.壬申戸籍の記載事項

「壬申戸籍」に関する一考察 2.壬申戸籍の記載事項


「壬申戸籍」の現物は筆者の手元にありません。

しかし、「壬申戸籍」と思われるものに2回接しています。ひとつは、高校2年生のとき、父の書類を納めるタンスの中をみていたときに、鍵のかかる引き出しの中に、曾祖父や祖父、父の戸籍の写しや、曾祖父や祖父が公務員をしていたときの辞令があるのを見つけました。幕末・明治を生きた曾祖父に関する書類の中に、「壬申戸籍」がありました。「族称欄」には、「平民」と記載されていました。

その頃、公民館の図書室のいろいろな書籍を通じて、「壬申戸籍」について知っていましたから、「族称欄」の「平民」記載をみて、筆者の先祖は代々、「百姓」であったのだ・・・と、初めて自分の歴史的ルーツを確認しました。

その「壬申戸籍」の写しは、今も岡山の実家にあります。

2度目、「壬申戸籍」を見たのは、徳山藩の北穢多村の系譜を引く被差別部落の住人の戸籍でした。その被差別部落に事務所を構えている部落解放同盟の書記の方が入手したもので、戸籍の写しではなく、「原戸籍」(?)とよばれているもので、本格的な「壬申戸籍」でした。

そのとき、「研究用にコピーしてもいい・・・」と言われましたが、「個人情報は必要なし」として辞退した記憶があります。

その被差別部落の住民というのは、その地区の名家で土地も屋敷も持っている家であるということでした。「族称欄」は、3文字で記載され、その1字は消されていました。「族称欄」の枠と、その中に記載された文字の配置の不自然さから、もともと、「新平民」と記載されていたところを修正して「 平民」とされていることが分かりました。

藤林晋一郎著『身元調査』には、「壬申戸籍」のひな型も、実物の写真も添付されていないので、その本から、「壬申戸籍」の現物を想定することはできません。藤林は、「壬申戸籍」をとりあげる際、「族称欄」に関心を集中します。「壬申戸籍」には、「身分、職業を記載するものとされていた」そうですが、当然、「族称欄」の身分記載は、近世幕藩体制下の身分ではなくて、明治以降の近代身分制度の身分です。明治4年4月の戸籍法では、「臣民一般」の身分体系を「華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民」に区分されました。「壬申戸籍」編纂終了後の統計調査は、「華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民」で集計されています。

しかし、この時期、近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であった、「非常民」の処遇の方針は、明治政府内でいまだ固まっていませんでした。明治政府は、治安維持のために、明治以降も近世幕藩体制下の司法・警察制度(拷問・宗教弾圧)をそのまま温存しようとしましたが、欧米諸国からの厳しい批判・攻撃で、そのような政策を全面に打ち出すことができなくなりました。そこで、明治政府は、「国内政治」と「国際外交」を分離して、二重構造で様々な政策を打ち出すようになります。近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であった、「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」等の処遇は、明治4年の戸籍法以後も変遷していきます。

「目明し・穢多・非人」は、明治4年8月にその「身分・職業」が「平民同様」とされ、「同心」については、明治5年1月に、「世襲の卒は士族身分に編入され、一代限りの卒は平民身分におとされることになり、卒なる身分が消滅」(岩波近代思想体系『法と秩序』)していきます。そして、「村方役人」は、最終的には、明治5年4月に、近世幕藩体制下の司法・警察機構からはずされます。つまり、近世幕藩体制下の司法・警察「本体」は、名目上解体され、明治の戸籍法成立以降に、近世幕藩体制下の身分から、明治天皇制国家の身分へ組み換えられていくのです。

明治政府の「国内政治」と「国際外交」のあいまいさと、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の処遇・対策のおくれが、「壬申戸籍」の「族称欄」の身分記載に大きな影響をもたらすことになるのです。

しかし、なぜ、明治政府は、「壬申戸籍」に「身分」を記載したのでしょうか。明治初年の「刑法典」である「新律綱領」と「改定律令」は、犯罪者の所属する身分によって、その刑罰に違いを設けたことと無縁ではなさそうです。

「華士族」には、「平民」と違って「閏刑」が科せられます。「閏刑」というのは、ひとくちでいうと、「士族および華族の身分的名誉を重んじて設けられた刑罰体系」です。近世幕藩体制下の武士身分に対する「閏刑」である「切腹・敵討・改易」は廃止され、身分的名誉を重んじた労役刑としての「辺戍」があらたに設けられたりしますが、「教育する必要」がない、当時の知識階級である「華士族」に対しては、「強盗・賭博・犯姦など」、「廉恥ヲ破ルコト甚シキ」場合を除き、「禁固一つに簡略化されていく」ことになります。

また、「官吏」も刑法上の特権を受けることになります。

「平民」に対しては、近世幕藩体制化のキリシタン禁教令違反などの「天下の大罪」を犯した人々に適用された「引廻しの上鋸引きという極刑」が、キリスト教国である諸外国との交際を考慮して、いちはやく刑罰の目録から排除されていきます。しかし、明治政府は、犯罪予防効果を狙って、近世幕藩体制下の「拷問刑」である「梟首」を容認しました。明治政府のとった司法政策は、身分に応じた刑罰を課すことでした。

「壬申戸籍」は、司法行政上の重要な典拠だったのです。

身分に基づく刑罰の違いは、「農・工・商」と「穢多・非人」の間にもみられます。『仮刑律』によると、「穢多」が「百姓」に対して暴行を働いた場合、通常の刑罰より「一等」重い刑罰が加えられます。学者・研究者の中には、「穢多」に対する差別・・・と判断するひともいるようですが、「穢多」は、司法・警察に従事し、日頃から、武術の鍛練をしています。それは、職務遂行上の範囲でのみ容認されていることであって、それを私闘に用いて「農・工・商」に障害をあたえたものは、職権の乱用として厳しく罰する・・・という意味合いのも、のではないかと思います。

『身元調査』の著者・藤林晋一郎は、「族称欄」において、明治天皇制国家の身分制度の身分は、形式上「皇族、華族、士族、平民」の「4階級の段階に分けられ」、「分断支配」の形で再編されたといいます。戸籍における「属人主義」から「属地主義」への転換が図られたとはいえ、「壬申戸籍」は全近代的要素の強い戸籍であったのです。

この「壬申戸籍」が、興信所・探偵社の「身元調査」の淵源になり、被差別部落出身者の結婚・就職に際して、人権侵害の起因になっていることから、部落解放同盟等運動団体の抗議を踏まえて、政府は、1968年、「壬申戸籍」の閲覧を禁止しました。この年から、「壬申戸籍」は「行政文書」としては「廃棄」され、住民に対するサービスとしてそのコピーが提供されることはなくなりました。しかし、「壬申戸籍」は、「焼却処分」されたのではなく、法務局によって、「史料」として保管されることになったのです。

『部落学序説』の筆者である私は、「壬申戸籍」が、「焼却処分」にされ完全に廃棄されたのではなく、「歴史資料」として保存されていることは、良き処置であったと思います。

筆者は、日本の歴史学が、内在する差別思想である賎民史観を破棄し、明治政府の極秘扱されている「外交文書」が完全公開され、自由に史料の閲覧と研究が可能になる時代がいずれ到来すると思います。その際、「壬申戸籍」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の実態をあきらかにし、「賎民」という、いわれなき蔑称から「名誉回復」するための重要な典拠になるからです。

運動団体は「壬申戸籍」の「廃棄」を要求しましたが、もしその要求に沿って「壬申戸籍」が文字通り、完全に「廃棄」されていたとしたら・・・、筆者は、それを考えるとひとごとながらぞっとします。「壬申戸籍」を「廃棄」して、歴史資料から抹殺することで、日本の社会から差別をなくすための重要なてがかり、被差別部落の人々が部落差別の鉄鎖から自らを解放する重要なてがかりを永遠に喪失してしまうからです。

「コンピュータを駆使してこれまで打ち捨てられてきた「宗門改帳」などの人口史料を分析し、人口の観点から歴史を見直」そうとする『歴史人口学で見た日本』の著者・速水融は、「壬申戸籍」についてこのように語ります。

「明治5年に編成された「壬申戸籍」があるが、これには身分が書いてあり、利用が法的には禁止されている。現在の社会状況では、この禁止はやむを得ない」。

「現在の社会情勢では・・・」という表現は、時代が代わり、日本の歴史学が後生大事に抱えている、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を払拭し、「穢多非人」等の「非常民」にたいする見方が変わり、一般的・通俗的を超えたものの見方や考え方が世の中に浸透していく・・・そのような時代があることを予感させます。「現在の社会情勢」は、永遠に変わらざるのものではなく、私たちが意識するとしないとに関わらず、多くのこころある学者・研究者によって積み重ねられてきた史料発掘や実証主義的研究が、徐々に、部落差別の歴史認識を徐々に変化させつつあると思うのです。
 

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