2021/10/03

被差別部落と天皇制(見落とされた史料2)

被差別部落と天皇制(見落とされた史料2)

筆者が所属している教団の教区の同和問題の委員を担当させられていたとき、「先進地視察」と称して、大阪・京都・奈良の被差別部落の中で、同和対策事業が推進されているモデル地区を尋ねたことがあります。同和問題の委員をおりたあとは、そのような「先進地視察」に同行することは少なくなりましたが、同和対策事業が終了したあとは、ほとんどその機会はなくなりました。

「先進地視察」に同行して、遭遇したことのひとつには、被差別部落と天皇制との問題があります。戦前の融和事業は、被差別部落と天皇制が複雑にからんだ問題ですが、ある被差別部落の住人は、「部落解放運動が進展すると、戦前の融和事業の記念碑は取り除く話に発展するが、しばらくすると、被差別部落の有志によって、せっかく埋めた記念碑が掘り起こされて元の位置に建てられる」といいます。被差別部落の古老の中には、「明治天皇の聖断によって、被差別部落の人々は、その差別から解放された・・・」と信じきっている人が相当数おられるということでした。

筆者が所属する教団の同和担当部門のトップが、広島・山口・島根管轄の教区に赴任してきたとき、筆者を同和担当部門から排除する理由のひとつとして、筆者が「天皇制について批判的な発言をする・・・」という点をあげられていました。「天皇制を批判しないのなら、一緒にやってもいい・・・」。教区の同和担当部門のトップを兼任することになった彼は、大阪・京都・奈良の部落解放運動の先進地である被差別部落の古老の中に見られる、天皇制に対する「追慕」の姿勢を明確に保持しています。

筆者と天皇制の関係の問題ですが、筆者には、天皇制をことさら批判する意図はありません。

しかし、天皇制の側は、筆者を視野におさめることは決してありえないでしょう。なぜなら、天皇制というのは、近代身分制度の上に乗っかって成立しているため、皇族・華族・士族・平民・・・という序列の中では、天皇制と身分制度の上位に位置する身分ほどその関係が強くなる傾向があります。士族・平民・・・ということになると、「下民」・「地下」扱いになってしまいます。「下民」・「地下」は、一生、天皇に相まみえる場所に立つことはできません。天皇制を衛る警察・機動隊の楯によって排除される側にたたされます。

筆者の父が、倒産の上、病気の貧困の繰り返しで、人生の憂き目にあった末、なくなったあと、遺品を片付けていて、驚いたことがあります。それは、父親が大切にしていた書類の入った小さなタンスに、「明治天皇」・「大正天皇」・「昭和天皇」に関する新聞記事や写真、日清・日露の戦争のときの記念切手や絵はがきが多数でてきたことです。

筆者が高校2年生のときのことですが、父親から、大正天皇の即位の話を聞かされたことがあります。大正天皇即位の際に、用いられた屏風に描かれた富士山は、静岡県の富士山ではなくて、香川県の富士山であるというのです。しかも、父親の生家(香川県観音寺市室本)の別荘からみた「讃岐富士」の絵であるというのです。祖父が、絵師に、「讃岐富士」の見える離れを貸した・・・というのです。

父は、若いとき、母親が逝去したあと、吉田家に養子に入りますが、曾祖父にあたる吉田向学は、明治初年代長野県庁に勤めていた人です。父がなくなったあと、仏壇の引き出しの中から、その辞令が出てきました。祖父にあたる吉田永学もまた公務員をしていたようですが、明治・大正・昭和・・・と、どちらかいうと没落していく家にあたります。極めつけは、私の父親の破産であったのでしょう。

筆者の幼いときの記憶は、この倒産のできごとからはじまります。

曾祖父・祖父・父、そして筆者・・・。その足跡は、天皇制から「離反」していく過程ではなく、天皇制によって見捨てられていく過程であったのです。学歴も資格もなく、高校を出てすぐ病気の父と家族の生計のために、人生の一番大切な部分を犠牲にしなければならなかった筆者は、曾祖父・祖父・父がこころから慕っていた天皇とはまったく無縁の存在であると認識するようになったのです。

批判はしないが、「無縁」である・・・、それが筆者と天皇制の関わり方です。

筆者の「ふるさと」(旧児島市)に、下津井という湊があります。現在、瀬戸の大橋の橋脚が建っている場所です。戦後、その下津井に関する映画が作成されました。それは、『拝啓天皇陛下樣』という映画です。昔、一度みただけですが、映画の最初の部分に、天皇が乗った船が瀬戸の海を日の丸を掲げて航行する場面が出てきます。そのとき、下津井の漁民が、港の岸壁で、土下座して、天皇の乗った船を見送るという場面です。

中学校の社会科の教師であった「下津井メバル」(あだ名しか覚えていません)は、当時、下津井の漁民は、治安維持法違反にひっかかり、ほとんどすべての公式行事から締め出されていたというのです。ですから、天皇の乗った船が下津井沖の瀬戸内海を航行するとき、それを見送るために土下座することは許されなかったというのです。中学生の筆者は、そのとき、天皇制の枠組みの中で、天皇制から排除されている人々が多数いることを知らされたのです。

岡山県の戦後の民主教育に採用された教育方法に、「視聴覚教育」があります。1年に数回、児童・生徒を映画館に連れて行って映画を鑑賞させることで、社会的な視野を育てていったのです。筆者が見た映画のほとんどは、社会問題をとりあげたものです。在日朝鮮人の子供の姿を描いた「綴り方教室」や被差別部落の問題を取り扱った「破戒」等、戦争と平和、差別と貧困、愛と罪・・・をテーマにした映画が大半でした。

筆者は、学校の教育だけではなく、父親から、天皇制に対する敬慕の念を植えつけられました。しかし、そんな父親が、「倒産」のあと、貧困と病気の繰り返しの中、世の中から見捨てられ辛酸をなめている姿をみながら、そんな父親に救いの手をさしのべるものが誰もいない現実を見て、父親が抱いていた天皇制(天皇)に対する期待は、単なる幻想でしかない・・・と思うようになったのです。国民が天皇をどんなに慕おうと天皇は国民に関心を持つことはありえない・・・(マスコミで報じられる「作られた関心」はあるかもしれませんが・・・)。

戦後、日本は、日本国憲法の下で、象徴天皇制国家になりました。戦前とはかなり、異なる天皇制になりました。今の天皇が、皇太子のとき、「天皇サラリーマン説」を主張されました。そのとき、筆者は、妙に納得したものです。「天皇」という、普通の人と異なる神格を持っているなら、「国民」が苦しんでいるときに、そのこころを「国民」に向けないということについては、批判的な思いと寂しさの両方をもたざるをえません。しかし、「天皇サラリーマン説」が、天皇の真意なら、天皇が「国民」の実態を知らなくてもなんら不思議ではありません。「天皇」は、日本株式会社のエリートサラリーマンでしかなかったのか・・・、当時の皇太子の言葉に妙に納得したものです。青年時代は時として暴走するものですが、この「天皇サラリーマン説」も暴走のひとつなのかもしれません。

今の皇太子が、その発言に際して暴走したとき、筆者の関心は、かつて、その発言を暴走させたことがある、今の天皇がどのように皇太子を見守るか・・・という一点にありました。「天皇制」を陳腐化した遺制から解放して現代化しようとする姿勢は、天皇・皇太子と受け継がれていっているのでしょう。女性天皇・女系天皇の出現は、当然の成り行きです。天皇の存続は「天皇制の歴史」・「天皇家の血筋」に基づくものではなく、「国民の総意」に基づくものでなければならないのですから・・・。天皇の変な神格化(男系の血筋)は一切必要ではありません。

筆者が所属する教団・教区の同和担当部門のトップは、筆者のそのような天皇制理解を、「天皇制否定」・「天皇制批判」と断定して、筆者を排除する理由のひとつにしたのです。

筆者は、ときどき思うのですが、なぜ被差別部落の人々は、「天皇制」にこだわるのだろうか・・・、と。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を尋ねる前、立ち寄った浄土真宗の住職は、被差別部落の人々に伝わるこんな「伝承」を話してくれました。被差別部落の人々が迷っていたとき、夢の中に「白馬に乗った人」が表われて、その村を出て行くように言われたというのです。「白馬に乗った人」、それは、明治新政府によって、軍事・警察の頂点に立つ「非常民」として訓練され、西洋の軍服を身にまとった明治天皇のことです。

多くの場合、被差別部落に伝わるそのような伝承の背後にあるのは、明治4年の太政官布告第61号、日本の差別思想である「賤民史観」がいう「身分解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・であるといいます。戦前の融和運動・水平社振動、戦後の部落解放運動にたずさわった人々の中にある、天皇制擁護の思想は、この布告を「明治天皇の聖断」と認識するところにあるのでしょう。この「聖断」に基づいて、かつて、水平社運動は展開されましたし、水平社運動の戦後のにおける継承として受け止められた部落解放運動も、この天皇制理解に立脚したものでした。

しかし、筆者は、被差別部落の人々の天皇制に対する「追慕」の念は、明治4年の太政官布告第61号に先立つ、明治元年の『京都府下人民告諭大意』に由来するのではないかと思います。嵯峨天皇が軍事と司法・警察を分離し、独立した制度を設けて以来、古代・中世・近世という時代の政治的変化を越えて、その司法・警察制度は、日本の社会の平和的安定のために大きな役割を果たしてきました。『京都府下人民告諭大意』でいう、全国津々浦々に配置された公的「番所」に、公的「番人」(近世幕藩体制下の番人は穢多・非人のこと)によって、私的「番人」を雇って己が身と財産を守ることができない一般の民も、社会の法的安定の中を生きることができたのです。明治新政府は、近世幕藩体制が終焉を迎え、明治の近代天皇制国家が新しく創設されるときに、近世幕藩体制下の「司法・警察」であった「番人」の存続と継承を『京都府下人民告諭大意』という形で公式に認めたわけですから、「同心・目明し・穢多・非人」は、大いに喜んだのではないかと思います。

諸外国からの圧力がなければ、『京都府下人民告諭大意』で説かれた通り、「穢多・非人」は、政治的変革を越えて存在する司法・警察として、明治新政府の枠組みの中に深く組み込まれていったことでしょう。『京都府下人民告諭大意』の中には、「番人」とはして、当然含まれているであろう「穢多・非人」に関する批判的な言葉、彼らを貶めるような言葉は出てきません。筆者は、『京都府下人民告諭大意』は、明治新政府が近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に属する「同心・目明し・穢多・非人」、そして、「庄屋等村方役人」を、明治新政府の司法・警察として組み込むことになるという宣言であったと思うのです。諸外国の外交官も、「日本の警察は探偵能力に優れ、優秀である」と評価していたのですから、当然と言えば当然です。

山口県立文書館の元研究員の北川健が発掘した、長州藩の穢多村に伝わる伝承は、穢多が「せいとう」(制道)に生きたことを高らかに歌います。また、『京都府下人民告諭大意』も、その背後に、天皇による「御威光の御制道」があったことを歌います。

しかし、日本が直面する外交上の諸問題は、明治新政府を混乱と窮地へ追いやっていきます。そして、明治元年(1967)10月に『京都府下人民告諭大意』が出されて半年もたたないうちに、『京都府下人民告諭大意』(第1編)とは、その内容をまったく異にする『京都府下人民告諭大意』(第2編)が出されるのです。朝令暮改とはこのことか・・・、と思われるほど、内容の異なるものが「告諭」の形で公布されるのです。

明治新政府による、近世幕藩体制下の司法・警察である「番人」の継承から、「番人」の廃棄へと、流れが大きく変わってしまうのです。この流れは、穢多・非人の頂点にあった団弾左衛門も、十分におのれの立たされている位置を把握できないほど、押し流してしまうのです。ふと気がつくと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「番人」(穢多・非人)は明治新政府によって「賤民」・「棄民」扱いされることになっていたのです。

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