2021/10/03

『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ(見落とされた史料3)

『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ(見落とされた史料3)


『京都府下人民告諭大意』(第1編)は、「皇国の外国に勝れし風儀を守り、広く皇威を世界に輝かさん」と、「下民」・「民間」を説諭します。

それに引き換え、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、「往昔」と異なり、「世界万国」が互いに和親を結ぶ時代であるから、「下民」・「民間」もこのごとを十分に理解して、「天地間の大道理」である「世界万国公法」に準拠して、日本にやってきた諸外国・「礼儀正しき国」とその人民に対して、「不法粗暴を仕掛る」ことは決してあってはならないというのです。

もし、「下民」・「民間」が、明治新政府の開国政策に反対して、諸外国とその人民に危害を及ぼすことで、明治新政府の支配が徹底していないということが諸外国に知られるようなことになれば、「神州の耻辱となる」というのです。その結果、「東国辺鄙」に見られるように、朝廷に逆らった結果、「人民」は、「塗炭の苦しみに陥し」入れられることになるとういのです。

「東国辺鄙」と違って、「京都は千有余年来の帝城」であり「御宗廟の御地」であるから、天皇は、京都を「別して御大切に」思っておられるというのです。「京都府下人民」は、これまで、天皇に「間近く住居して深き恩露に浴し、尊き叡慮も仰ぎ知る」ことを許されてきたのであるから、近代天皇制国家が、「外国のために見透され、其侮りを受る基」となるような「振廻」を慎み、「諸事の御沙汰違背なく謹て相守り・・・神州の御為に相成べき心掛肝要たるべき」というのです。

『京都府下人民告諭大意』(第1編)が「王政復古」を主眼に置いた説諭であるとすると、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、明治新政府の「欧化政策」を主眼に置いた説諭であるといえます。筆者は、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、『京都府下人民告諭大意』(第1編)の「否定」として打ち出されたものであると考えざるを得ないのです。

『戊辰戦争から西南戦争へ』の著者・小島慶三は、明治維新は、一挙に行われたのではなく、三段階で行われたといいます。王政復古・廃藩置県・明治6年政変による岩倉・大久保による「建国」。明治新政府は、平和裡に近代天皇制国家を樹立したのではなく、むしろ、逆に、血で血を洗うような政争を経て、近代天皇制国家を建設していったのです。

王政復古・廃藩置県・明治6年政変の都度、日本の国民は、時代の流れに翻弄され続けたのではないかと思います。皇族・華族・士族・平民・・・そのすべての階層が、王政復古・廃藩置県・明治6年政変によって、大きくその人生の転換を余儀なくされていったと思うのです。

この『京都府下人民告諭大意』は、京都府下だけでなく、日本全国に配布されていきます。『京都府下人民告諭大意』を読んだ国民は、その真意をどの程度把握することができていたのか・・・、こころもとないものがあります。「王政復古」・「王政復古」・・・と叫んでいたら、突然と、「王政復古」の古代律令的諸制度は解体され、明治新政府は、あれよあれよというまに、日本を西洋的な近代国家に変貌させていくのですから・・・。その急激な政策変更を十分理解して、明治新政府の国家建設の方向性を把握することができたひとは、極めて、少ないのではないかと思うのです。明治新政府の「政治的意図」を把握することに失敗した人々は、やがて、明治新政府の中枢から弾き出されてしまいます。

明治新政府に対して、諸外国がまず要求したのは、「草莽」による外国人襲撃を抑えるということでした。「草莽」とはどのような人のことを指すのか・・・。イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、「草莽」を「乱暴な両刀階級」と呼んでいます。彼の目からみると、「両刀階級」は、元藩士であって、イギリスの「紳士」に相当する社会層であるというのです。それにひきかえ、「一刀階級」(筆者の表現)は、イギリスの単なる「兵士」に過ぎないといいます。

諸外国の外交官が恐れをなした「草莽」というのは、「一刀階級」ではなく「両刀階級」のことなのです。アーネスト・サトウは、「草莽」というのは、「日本人の一種不可思議な階級」で、イギリスの「紳士」の範疇に入るけれども「紳士」として理解しがたい存在であるというのです。「草莽」は、「大名へ仕官をせずに、当時の政治的な攪乱運動へ飛び込んできた」人物であるというのです。この「草莽」は「二重の目的を有していた」といいます。ひとつは、「天皇を往古の地位に復帰させること」、もうひとつは、「神聖な日本の国土から夷狄を追い払うこと」でした。「草莽」は、これらの使命を達成するため、手段と方法を選ばす、外国人を襲撃・暗殺してくるというのです。諸外国の外交官は、明治新政府に、なによりもまず、この「草莽」を鎮圧することを要求してくるのです。

明治新政府の「外国人殺傷や草莽層の動きへの対応」(山川出版社『詳説日本史史料集』)として、「五榜の掲示 第四札」があげられます。『詳説日本史史料集』は、高校生用の参考資料ですが、第4札と第5札については、全文掲載せずに一部が省略されています。高校の歴史教育においては、触れて欲しくない個所なのでしょうか。高校生用の参考資料において割愛されている言葉は、「一旦御交際仰せ出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たざる次第、甚だ以て不届き至極につき、その罪の軽重に随い、士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候条、銘々朝命を奉じ、みだりに暴行の所業これなき様、仰せ出され候事」という文章です。

問題は、「士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候」という一文です。明治新政府は、「草莽」の暴挙を抑えるために、この告示を出したというのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この布告を次のように受けとめています。「この布告が大きな反響を巻き起こしたことは当然なことであった。士分を剥奪することは切腹する権利をも奪うことになる。普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。何世紀もの間、子孫代々勇気と礼節を重んじて、家柄を誇りにしてきた武士にとって、これが何を意味するか、いうまでもないことである」。「五榜の掲示 第四札」は、日本全国の「武士(藩士)」に対して出されていたのです。

ところが、高校生用の参考資料である山川出版社『詳説日本史史料集』は、武士(藩士)に対して出されたことをうたった部分を割愛しているのです。『詳説日本史史料集』の「五榜の掲示 第四札」では、「草莽」は、一般化される傾向にあります。「五榜の掲示 第四札」は、武士だけを対象にしたものではなく、「士族」・「平民」、すべての「下民」・「民間」を対象にしていることになります。より正確にいえば、山川出版社『詳説日本史史料集』の史料の扱い方は、「草莽」である武士の免罪を図っている・・・と言えなくもありません。山川出版社『詳説日本史史料集』は、「両刀階級」の「草莽」が幕末・明治初頭においてなした外国人や日本の政府要人に対する襲撃・暗殺を故意に隠す営みであるといえるでしょう。「百姓の末裔」である筆者は、山川出版社『詳説日本史史料集』は、著しく偏向しているように思われるのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この「五榜の掲示 第四札」について、明治新政府との間の交渉内容をこのように記しています。「彼らは、近く書き上げられる新しい法律に、それを載せるまでは、告示の公布を延期することについて、私を一生懸命に説得しようとした。これに対して私は、断固として同意を断った・・・ついに政府に国中の町や村や集落に有名な布告を掲示させることに成功したのである」。日本の全国津々浦々に「五榜の掲示 第四札」が掲示された背景に、諸外国の「外圧」が存在していたのです。

最近、文庫本で出版される史料の中には、この種の史料が相当数含まれています(岩波文庫・講談社学術文庫等)。明治新政府の要職は、国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫きます。

外交官が「普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。・・・」と言い切る背景には、明治新政府が近世幕藩体制下の「刑法」を集大成して暫定的に出した『仮刑律』の「藩臣処分」の「士道を失ひ或は廉恥を欠に係るは、奪刀・奪録・・・」という条文に依拠します。この暫定的な明治新政府の「仮刑法」は、「人民」(下民・民間)には公開されませんでした。しかし、諸外国の外交官には、親しく閲覧させていたのです。

国内の「人民」(下民・民間)には、明治新政府の政策に服従させるのみで、その政治的意図を明らかにしませんでした。それに反し、明治新政府は、諸外国に対しては、日本の国政・外交に関する様々な情報を積極的に提供していたのです。

明治4年来日したオーストリアの外交官は、「岩倉具視」を「日本の運命に非常に大きな影響力を行使する」、「政府部内で最も重要な人物と目される」といいます。彼は、「岩倉とその仲間たち」から、明治新政府が直面している「大改革の紀元・性格・重要性に関するきわめて興味深い情報」を直接入手することができるといいます。「岩倉が私との3、4回の階段において語ったことは、後になって政府の公認計画となった」といいます(『オーストリア外交官の明治維新』)。

「岩倉とその仲間たち」は、「3年後には完了する」(明治6年の政変を含む期間)、明治新政府の長期的な展望さへ外交官に情報を提供するのです。岩倉はこのようにいうのです。「私の目標は、外国と友好関係を保ち、国内の大改革を完遂することです」。

明治新政府の「政治的意図」を正確に知るためには、明治期の「外交文書」及び外交官の残した文書の解析が必須です。国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫き、その真意をあからさまに伝えることはあり得なかった現実を考慮するとき、筆者は、近代史は、最初から検証し直す必要があると思うのです。明治新政府の施策の結果だけを追究するのではなく、そのような施策を選択した明治新政府の「政治的意図」が重要だと思うのです。

山川出版の、高校生向け資料・『詳説日本史史料集』は、この明治新政府の「政治的意図」を覆い隠す役目を果たしているのです。武士身分を限りなく救済して、逆に、「穢多・非人」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の枠組みの中に限定しようとします。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人・村役人・・・」は、「一刀階級」です。「両刀階級」の正規の武士・藩士ではありませんが、「同心・目明し・穢多・非人」は、すべて武士身分であるといえます。「同心」は一刀差しの武士ですし、「目明し」は、藩によっては帯刀を許されていました。また、穢多・非人もその職務の内容に応じては帯刀を義務づけられました。「同心・目明し・穢多・非人」は、「一刀階級」に属する武士であると言っても、あながち間違いではないのです。

明治新政府は、本来の「草莽」、「両刀階級」の武士を寛大に処遇し、その体制の中に取り込んでいきます。しかし、明治政府は、それとは逆に、近世幕藩体制下にあって司法・警察に従事していた「同心・目明し・穢多・非人」、そして、「村役人」に対して、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「草莽」の名を押しつけていくのです。明治4年の太政官布告第61号は、明治新政府の「国辱」を取り除くため、「穢多・非人」に「草莽」の名を押しつけ排除していく、明治新政府の「政治的意図」によって作り出されたものです。王政復古をとく『京都府下人民告諭大意』(第1編)から、王政復古の廃棄、西欧化された明治近代国家の創設へのつながる『京都府下人民告諭大意』(第2編)への政治的飛躍の中で、天皇によって創設された司法・警察である「穢多・非人」は、「国辱」として排除されていくのです。明治新政府、近代天皇制国家による、短期間における、「穢多・非人」の「高挙」(高く挙げる)と「卑下」(卑しみ下げる)・・・、それが、「被差別部落」の歴史を分かりにくいものにしているのです。

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