2021/10/01

同対審答申前夜の被差別部落の状況

同対審答申前夜の被差別部落の状況

同対審答申前夜の被差別部落の状況を、『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』から「懐古」してみましょう。

政府は、その前の年、昭和38年1月1日に、「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」します。そして、2年後の昭和40年8月11日に、「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」(『部落解放史下巻』)します。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、ちょうど、その間の年に発行されたことになります。『山口県同和対策の概要』は、その「全国基礎調査」に触れて、山口県の「被差別部落」について次の数字をあげています。

「県下13市44町村のうち、13市39町に分布し、地区数は158地区で、10360世帯、地区内人口約46000人となっている」。

さらに『概要』は、山口県下の「被差別部落」を「瀬戸内海沿岸の市」と「山間部及び日本海側」に分けて次のように記しています。

「瀬戸内海沿岸の市においては、全般的に混住率は高く集団的な地区形成をし、1市あたりの平均地区人口は2200人となっており、町村においては、1町村あたり702人となっている。又、山間部及び日本海側では、1市あたりの平均地区人口が371人から395人で瀬戸内海沿岸に比べ約半数となっており、小規模の地区のようにうかがえる」。

『概要』の「同和関係地区一覧表」によりますと、「ごんごちの里」のある「南陽町」の「同和地区」の「地区数」3、「世帯数」285、「人口」1161人になります。「ごんごちの里」の「南陽町」を分母とした人口比率は、1161/28386=0.04、つまり、「南陽町」民100人のうち4人が「同和地区住民」ということになります。

また『概要』は、「地区の混住率」に触れ、「市部において高く22%(100人のうち地区外人口22人)を示し、町村においては地区の把握にも関係するが、これを相当下回っているものと考える。」としています。

『概要』は、「同和地区における住宅事情」について、「不良住宅が重なりあい、ひしめきあって建っていることが特徴」であるとし、「その古さと粗末さのために、壁は落ち、瓦は崩れて傾いた家々が密集し、その間には道というよりは狭い路地が迷路のように通っているような地区もなかには見受けられる。いくたびの台風、水害の度に高台に難をのがれ、家は浸かり、瓦ははがれ、軒は傾き、道路も排水路もない、この密集地区に若し火災が発生した場合は一体どうなるのか、考えただけでも暗然とならざるを得ない状態である。」といいます。当時の「ごんごちの里」も、同じ状況にあったようです。

また、「世帯主の就業状況」は「不安定」で、「生活の基盤は非常に脆弱なため、「収入状況もきわめて悪く、それだけに生活程度も低い。・・・エンゲル係数61以上の世帯が65.1%、51~60までが23.3%・・・という状態で、これは現行の生活保護基準の飲食費の割合52%に比べ非常に高い数字を示している。」状況下で、「高校進学率は40%程度であった、山口県平均74%を相当下回っている」と記されています。

『概要』は、「技術指導、経済力の培養、教育の向上こそ急務」であると訴えています。

『概要』当時の「同和地区における住宅事情」を彷彿とさせる「被差別部落」を、今日においても、まのあたりにすることができる場合もあります。いわゆる「未指定地区」の場合、「33年間15兆円」の「同和対策事業」が展開されてきたにもかかわらず、行政が同和地区指定しなかったために、何ら「同和対策事業」がなされないまま今日にいたっている「被差別部落」も存在します。

たとえば、岩国の米軍基地周辺の「被差別部落」がそうです。戦前は日本の軍隊の基地強化によって、戦後はアメリカ軍の基地強化によって、「被差別部落」は、周辺へ周辺へと追いやられ、岩国市が、「同和対策事業」を放棄し、「基地対策事業」を選択したため、岩国基地周辺の「被差別部落」は、「同和対策事業」・「基地対策事業」のいずれの事業の恩恵も受けることなく今日にいたっている例も存在します。個人給付も、日本共産党系の運動団体が、その傘下にある「被差別部落住民」にのみを対象にしたため、その傘下にいなかった他の「被差別部落住民」は、個人給付にすらあずかることができなかったと、当時の岩国市長が歎いていました。

山間部や島部の「被差別部落」を尋ねると、『概要』当時の「被差別部落」の状況を容易に想定させられる「被差別部落」も少なくありません。

『概要』によりますと、山口県は、「本県では部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信して、「恵まれない経済条件の向上」・「劣悪な環境を改善」し、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除くとともに、同和教育を推進する」ために「同和対策事業」を推進するとしています。

山口県は、「部落問題の解決」の緊急性に鑑み、「戦後10年近くは国においても十分な施策が行われないので、県として独自の施策として昭和29年度において、山口県部落問題対策審議会を設け、この問題について調査研究を進めた。」といいます。

「即ち、昭和27年度以降本年度までの間に環境改善事業を中心に、経済対策、同和教育の推進、同和地区の調査、同和事業の事務委託等を行い、この間3億6千8百万円の同和対策事業を進めてきた・・・。」といいます。

つまり、山口県にあっては、「同和対策事業」は、国の施策に依存することなく、県独自に「同和対策事業」を展開していたのです。山口県は、それと同時に、「同和事業に対する国策樹立と同和関係予算の大幅計画を絶えず国に対して要望してきた・・・」といいます。

それは、やがて、他府県の要望とあいまって、昭和38年の「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」、昭和40年の「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」、昭和44年の「同和対策事業特別措置法」に結実していきます。

『蛙独言』で、部落解放同盟・神戸の田所蛙治氏は、「「事業法」は「差別をなくす」ことを直接の目的にするものではありませんでした。「環境改善」や「同和地区住民の主体的力量の涵養を目指した個人給付」など、「差別をなくす」るために有効ではないかと考えられた「条件整備」の施策に過ぎなかった。」といわれますが、山口県の「同和対策事業」の流れをみてきますと、「同和対策事業」は、部落差別解消のための「条件整備」などではなく、「部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信のもとに実施されたものです。田所蛙治氏は、「事業法」の立法趣旨を「縮小解釈」する傾向があるようですが、「同和対策事業」の戦後の歴史を考慮するとき、それらの事業は、「部落問題の解決」、つまり、部落差別の完全解消に結果しなければならなかったはずです。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除く」ことを宣言していますが、ここでいわれている「差別思想」とは何なのでしょうか・・・。『概要』は、「物的な面から生ずる差別思想(同対審答申の「心理的差別」)の原因(「実態的差別」)を除く」ことを主張しています。『山口県同和対策の概要』の強烈な認識「差別思想」に対する主張は、「心理的差別」を結婚差別や就職差別の除去だけでなく、「差別思想」の除去をも含むものであるとおもいます。

「同和対策事業」を、同対審答申前夜を含む戦後の「同和対策事業史」を「大域的」に把握していくときには、戦後の各府県の政府に対する「訴え」によって成立した「同和対策事業」に対して、「33年間15兆円」を費やして実施された「同和対策事業」が、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という悲願を達成できたのかできなかったのかを問うことは、的はずれでも間違いでもありません。

「33年間15兆円という膨大な歳月と費用を注ぎ込みながら、なぜ、部落差別を解決することができなかったのか」という設問は、その事業にあずかることができなかった「未指定地区」の新たな事業のためにも、批判検証を避けて通ることはできないはずです。

この論文は、山口県の被差別部落のひとつ「ごんごちの里」に焦点をあてて、「同和対策事業」に対する批判を展開していきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...