2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その4 図解

 「旧穢多」の受容と排除 その4 図解


近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」であった「穢多・非人」が、明治新政府によってどのように受容されたり排除されたりしていったのか・・・、「図」を用いて、『部落学序説』でこれまで説いてきた論点を説明します。


先ず、「図1」ですが、これは、『部落学序説』で「賤民史観」として批判しています、部落研究・部落問

題研究・部落史研究の一般説・通俗説の内容です。


「賤民史観」においては、近世幕藩体制下の身分制度は、「士・農・工・商・穢多・非人」という図式で表現されます。幕府は、民衆支配の方法として、「分断政策」を採用します。民衆を、「農工商」と「穢多非人」に分断し、両者を相互に憎悪のるつぼに置くことで、幕藩体制への民衆の批判の矛先をそらしたといわれます。身分制度の最下層に置かれながらそれに気がつかなかった「穢多・非人」は、近世警察の手下として利用されることに甘んじた・・・といわれます。

この『部落学序説』においては、この「賤民史観」は繰り返し批判の対象にしてきました。

それでは、『部落学序説』は、近世身分制度をどのようにとらえているのか・・・、それを図示したのが「図2」です。

「図1」の「賤民史観」の図の単純さと違って、少々複雑な図になっています。まず、幕府と諸藩の関係ですが、両者の関係は、比較的ゆるやかな関係であったと思われます。幕府は、いろいろな「法」(法度・御触書)を公布しますが、その「法」をどのような司法・警察システムを用いてどのように実施していくか・・・、ということについては、諸藩に大幅な権限を認めています。これを近世幕藩体制下の「治外法権」といいます。「図2」の黄色の線は、この「治外法権」を示しています。


近世幕藩体制下の身分制度は、「武士」(士・穢多・非人)身分と「百姓」(農・工・商)身分から構成されていたと考えています。「穢多・非人」は、「武士」の身分階層の末端に位置づけられた人々です。

『部落学序説』では、諸藩における「穢多・非人」の多様性・多重性に惑わされることなく、また「百姓」との関係を明らかにするために「常・民」・「非常・民」概念を採用しました。

近世幕藩体制下の「司法・警察」に従事していた「非常民」は、「武士支配」のすべての身分に及びます。「穢多・非人」は、近世警察の「本体」として、全国津々浦々に配置されていました。それは、軍事力ではなく警察力としてです。

幕府は、諸藩の藩士を城下町に集中させました。実際の「百姓支配」は、「百姓」身分の庄屋・名主などの村方役人を使って実施していました。長州藩でも、武士の姿が見えない村々において、「武士支配」の「穢多・非人」と「百姓支配」の「村方役人」の存在は容易に確認することができます。


「図2」の「寺社奉行」と赤色の線は、近世幕藩体制下の「治外法権」の唯一の例外であるキリシタン
探索・捕亡・糾弾という「宗教警察」の末端機関として、「穢多・非人」が全国津々浦々、北海道から沖縄まで配置されたことを示しています。


「武士支配」の「非常・民」(穢多・非人)と「百姓支配」の「非常・民」(庄屋・名主)の間の双方向の矢印は、「武士」(藩士・士雇)が存在しない場合、相互に「法」を遵守しているかどうかの監視のために設定されたものです。一見、「穢多・非人」と「百姓」の分裂支配・・・のようなイメージがありますが、「賤民史観」でいう「分裂支配」とは内容が大きくことなります。

「常・民」である「百姓」を直接支配するのは、「武士支配」の「穢多・非人」と「百姓支配」の「庄屋・名主」等の村方役人です。おおむね、刑事事件は「穢多・非人」が担当し、民事事件は「庄屋・名主」等の村方役人が担当します。「法」に違反する行為をすれば、「穢多・非人」が「庄屋・名主」等の村方役人に逮捕されることもあれば、「庄屋・名主」等の村方役人が「穢多・非人」に逮捕されることもあります。

近世幕藩体制下の司法・警察システムは、合理的なところがあります。明治新政府は、ほとんどのこ

とに、近代化・欧米化を指向していた中、司法・警察システムだけは、なにとか温存しようとします。


明治維新前夜の司法・警察システムについて、『部落学序説』は、あまりにも単純化され歴史の事実と解離することになった「賤民史観」を退け、『部落学序説』独自の視点・視角・視座を提供しています。

「図3」は、明治新政府は、明治維新によって近代中央集権国家・明治天皇制国家創設を指向します
が、「近世幕藩体制」から「明治天皇制への移行は、手のひらを返すように急激に実施されたのではなく、徐々に変革されていきました。明治4年の廃藩置県まで、「府藩県」は、「非常・民」(軍事・警察)を独自に抱えていました。それは、明治政府が、近代中央集権国家を創設する大きな妨げになりました。そのことを認識した明治政府は、近世幕藩体制下の政治・法・経済システムを一挙に解体することを決断します。それが、明治4年の「廃藩置県」です。


「図4」は、廃藩置県後の、近世幕藩体制下の身分制度の廃止と近代中央集権国家・明治天皇制下

の身分制度の変遷を示しています。近世幕藩体制下の「非常・民」(藩士・士雇・穢多・非人・庄屋・名主)と「常・民」(百姓・町人・その他)が、どのように近代的身分に組み換えられていったかを示しています。『部落学序説』の筆者は、さまざまな歴史資料から、近代身分制度は、単なる近世身分制度の継承ではなく、新たな身分の線引きがなされた、Scrap and Build であると考えています。


明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告が出された段階では、「常・民」・「非常・民」の区別はあいまいで、いろいろな問題を引き起こしていきますが、「旧百姓」は、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」である「穢多・非人」が「平民同様」とされたことについて、明治政府は、「常・民」を「非常・民」化しようとしているのではないかと危惧の思いをもち、場合によっては、明治新政府反対一揆の及びます。

明治政府の近世幕藩体制下の「常・民」・「非常・民」の線引きは、明治6年政変前にその骨格が明らかにされます。キリシタン禁教の高札を撤去することを命じた明治政府は、諸外国から一定の評価を受けます。いわゆる「留守政府」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」(士雇・穢多・非人・庄屋・名主)を近代警察の中に再度取り込もうとします。

ただ、ここで確認しなければならないのは、近世幕藩体下の旧身分が解体されるということは、それ

を成り立たせていた近世家制度・世襲制度が廃棄されたということです。近世においては、すべての身分は家を単位とした世襲制です。たとえば武士身分は、その家の武士だけでなく、その家族全員が武士身分ということになります。「穢多・非人」身分の場合も同じで、司法・警察の職務に直接関与している人々だけでなく、その家族すべてが「穢多・非人」ということになります。


しかし、明治政府は、近世家制度・世襲制度が廃棄して、「新非常民」(軍事・警察)として、「家」ではなく「個人」を対象にします。「新非常民」(軍事・警察)は、個人がになうものとされ、その妻や子どもは、その「新非常民」から排除されます。「旧穢多」の父親が「新非常民」(近代警察)になっても、その連れ合い(母親)やその間にできた子どもは「新非常民」(近代警察)にはなることができないのです。その子どもが、父親と同じく「新非常民」(近代警察)になろうと思えば、その採用試験を受けなければならなくなります。

また、明治政府は「徴兵制度」を設けて、一定の年齢に達した男性を「軍人」(非常民)とした徴兵することになりますが、この場合は、近世幕藩体制下の身分の如何が問われることはありません。「士族」・「平民」すべてが、「非常民」(軍事)として採用されるのです。

明治政府の「徴兵制度」に対して「旧百姓」身分による政府反対一揆がおきたのは、「常民」である「百姓」が「非常民」になることへの反発だったのでしょう・・・。しかし、当初、「日本国民の総非常民化に反対していた人々も、やがて、「非常民化」を受け入れるようになっていきます。そして、「非常民」(軍人)になることができる人とできない人との間に、「新非常民」と「新常民」との間に、意識のズレが生じていきます。女性・こども・障害者・病人・・・などは、「新常民」として差別の対象に貶められていくのです。

「図6」は、「明治6年政変」後の「大久保利通の明治政府」によって、その政敵・江藤新平の関与するすべての施策が否定された状態を示しています。「新平民」が「新非常民(警察)」になる道が急速に狭まれていきます。「新非常民(警察)」から排除されることになった「旧非常民(穢多・非人)」も、女性・こども・障害者・病人・・・などと同じく、「差別的なまなざし」がむけられるようになります。

明治4年から昭和20年の太平洋戦争敗戦まで、戦前の日本社会は、「非常民」の世界です。一億総非常民化が促進され、「非常・民」としての生き方が尊ばれた時代です。われこぞって、「非常・民」(軍人)としての生き方を理想とされた時代です。「常民」としての生き方が、「女々しい」生き方として軽んじられた世界です。

戦後日本の軍隊は解体され、国民は、「非常・民」であることの国家的要請から自由になりました。徴兵制が廃止されることで、国の「法律」に基づいて「非常・民」(軍人)であることを強制されることがなくなったのです。戦後の日本の社会は、近世幕藩体制下の日本の社会に酷似しています。日本の歴史の中で、はじめて嵯峨天皇によって警察制度が設けられ、その後340年間に渡る「平和」を作り出した古代天皇制善政時代にも酷似しています。日本の歴史の中で、数百年単位で国家的な「平和」を作り出したのは、「常・民」と「非常・民」が明確に区別された時代ではないでしょうか・・・。

日本の国民すべてが「非常・民」化されるとき、日本の国の将来に危うさがまとわりついてくるように思われます。

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