2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その5

 「旧穢多」の受容と排除 その5


説明の重複はやめましょう。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としてその職務にあたってきた「穢多非人等」は、明治維新以降もその職務に従事していたと思われます。

政治変革によって、権力の上部構造が入れ替わっても、権力の下部構造はそのまま継承・温存されるのが普通ですから、近世幕藩体制から明治天皇制(近代中央集権国家)に移行しても、その時代の変革に大きく左右されたのは権力の上部構造だけであって、下部構造は、あいかわらず、社会の治安維持と犯罪の防止のために日夜勤しんでいたと思われます。

近世から近代へ、時代が大きく動く中にあって、「穢多非人等」は、「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」という意識を強くもって、社会的・不安定に陥った幕末・明治の時代の変わり目を、「非常・民」に相応しい言動をなし続けていたのではないかと思います。

被支配の立場に置かれていた「百姓」側からの「穢多非人等」に対する「信頼」があればあるほど、「穢多非人等」は、「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」としての職務遂行に忠実に生きざるを得なかったものと思われます。

もし、「非常・民」としての「穢多非人等」が、「百姓」側から、社会の治安維持の担い手として信頼されざる存在であるとしたら、明治4年8月、「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出された時点で、「穢多非人等」は、社会的・制度的排除が即確定され、それ以降、話題にのぼることさえなかったと思われます。

しかし、明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を境に、「穢多非人等」の身の上にどのような事態が生じたのか、史料や論文をひもといていきますと、それ以降も、旧藩権力、「旧武士」や「旧百姓」から信頼を受けて、「穢多非人等ノ称」が廃止されたあとも、他の名称にかえて、その職務をそのまま継承していたことを、日本全国の津々浦々の旧諸藩で確認することができます。

岩波近代思想大系『官僚制・警察』の末尾に添付された論文『日本近代警察の確立過程とその思想』の著者・大日向純夫は、明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降の、旧「穢多非人等」の受容と排除の両側面について言及しています。

まず、受容の形態について、大日向の論文を手掛かりに考察してみましょう。

大日向は、明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降も、旧「穢多非人等」が「非常・民」としての職務を継承していった「具体例を列挙」します。

【浦和県】

まず、東日本の「浦和県」ですが、「非常・民」としての「番非人」を「従来通りに機能」させようとします。旧「名称」は廃止しても、「非常・民」としての職務は継続させることにしたのです。火付け・強盗・殺人などの凶悪犯の探偵・捕亡・糾弾には、従来の「非常・民」の専門的知識・技術が必要だったのでしょう。

【山梨県】

大日向があげる2つめの事例は、「山梨県」の事例です。山梨県の場合、「元非人」に対して、「非人」の呼称を廃止して、かわりに「番人と称して従来通りの役目を負わせる」ことになりました。山梨県の場合、「非常・民」としての職務上の問題、社会の治安維持の問題だけでなく、「元非人」に対する温情ある配慮がうかがえます。「従来ノ村番一時ニ相廃テハ取締向差支モ可有之」とした上で、「且差向元非人共活計出来兼難渋可致候」といいます。つまり、従来の村番を、一挙に廃止しては、社会的治安維持と取締りに支障をきたすし、また、従来、「非常・民」としてその職務に従事してきた「元非人」は、その反対給付としての番人(役人)としての収入(給付)を失い、「元非人」だけでなく、その家族の生計も成り立たなくなり貧困に直面することになるであろう。そのことは、山梨県の意図するところではない。山梨県が「元非人」の今後のことについて最善の方策を検討するゆえ、それまでは、「非人」の名称を「番人」にかえて従来通りの職務に励むように・・・という温情ある措置がとられたものと思われます。

部落学の祖・川元祥一は、その論文『近代初期の警察と差別の構造』の中で、山梨県と同種の例、「岩手県」の例をとりあげ、名称は「穢多」から「元小屋の者」と変更されはしたが、その職務は継承された・・・と指摘しています。山梨県と岩手県のそれは酷似しているのですが、川元は、岩手県の施策の中に、『部落学序説』の筆者による解釈で指摘する温情ある措置を認めることはせず、むしろ、このことが、このことが、「差別感だけは放置・・・貧困と差別という近代的被差別者の特徴をつくりだす」と否定的・悲観的に認識します。

山梨県と岩手県の事例は、それぞれの県警史料をもとに、詳細に比較検証する必要があります。

現在とのとろ、筆者は、山梨県の例も岩手県の例も、「穢多非人等」が、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」として、「武士」・「百姓」から信頼された存在であったことを示す証拠であると考えています。

その信頼は、一般市民による「公権力」としての「警察」に対する漠然とした「信頼感」に共通するところがあると思われます。

【鳥取県】

大日向は、3番目に、西日本の実例として、「鳥取県」をとりあげます。鳥取県では、明治4年10月に「鉢屋・非人の称を廃止」します。鳥取県の場合、「鉢屋・非人の称を廃止」だけでなく、制度・組織そのものを解体する措置にでたものと思われます。しかし、鳥取県は、「穢多非人等」を「平民」同等とした上で、「新平民」のみを「捕手」という名目の下に新制度に組み込んでいきます。

【三重県】

明治5年8月、「従来の番人ないし非人番からなる捕亡手先200人余りを管内各村に配置」します。太政官布告に従い、「穢多非人ノ称」を廃止し、「捕亡手先」と称して、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」を再配置します。大日向は、「治安維持上の観点から、まずは元非人を警察力に活用することが継続されていた」といいます。

大日向がとりあげる、東日本2例、西日本2例の具体的事例は、代表的なものに過ぎません。明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、東日本においても西日本においても、旧「穢多非人等」の処遇には大きな変化はないのです。

近世幕藩体制下、諸藩の司法・警察システムは、幕府が諸藩に対して容認した「治外法権」によって、その藩独自の組織作りと実践がおこなわれていましたが、藩士階級の「非常・民」と違って、「穢多非人等」の「非常・民」は、幕府の重要な施策であるキリシタン禁教政策の重要な探偵・捕亡・糾弾機関である宗教警察であったため、北海道から沖縄まで、その本質において大きな違いがなかったものと思われます。大日向が、東日本と西日本から典型的な例を2例ずつ取り出しても、それほど差がみられないのはこのような背景があるからだと推測されます。

部落学の祖・川元祥一のように、「差別感だけは放置・・・貧困と差別という近代的被差別者の特徴をつくりだす」という硬直化した結論に陥ることなく、もう少し、「旧穢多」の受容と排除の実態を検証してみましょう。

次回、大日向がとりあげる「排除」の側面をとりあげます。川元は、「旧穢多」の「排除」の背景に「差別感」を持ち込みますが、『部落学序説』の筆者である私は、川元の解釈は、日本の歴史学の中に内在する差別思想である「賤民史観」に由来するものであると思います。被差別部落出身の歴史学者ですらとりこまれれてしまう「賤民史観」は、日本人が信じている「地場霊」のように強烈です。本当はそんなものありはしないのに、いつのまにやら、すっかりとりつかれてしまっているようです。

大日向は、「排除」の理由を、歴史学者として客観的に叙述します。

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