2021/10/02

旧穢多を近代警察に組み込む江藤新平の政策

 旧穢多を近代警察に組み込む江藤新平の政策


(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その8)

江藤新平が司法卿になったのは、明治5年4月25日です。

「司法省」が設置されたのは、廃藩置県を目前に控えた明治4年7月9日のことです。「司法省」は、「刑部省」(司法警察)と「弾正台」(政治警察)を合体して設置されたものですが、民事訴訟関連および地方警察関連は、「司法省」ではなく「大蔵省」に帰属していました。

司法卿・江藤新平は、近代中央集権国家に相応しい「司法権を確立」(毛利敏彦著『明治六年政変』)すべく、「錯雑混乱した司法制度を整理統一」しようとします。江藤新平が描いた近代中央集権国家の司法の姿は、『司法省の方針を示すの書』に如実に描かれていますが、それは、法治主義を宣言するものでした。冤罪を防止しながら、法を犯すものは、「必ず捕らえて断、敢て逃がるるを得ざらしむ。これを本省の職掌とする。」ことを明らかにします。

江藤新平は、日本を「法治国家」として、すべての日本人民を「法」のもとに服させようとしたのです。近代身分制度の「皇族・華族・士族・平民」、どの身分に所属していようと、日本国民である限り、日本の法に従うことを求めたのです。

江藤新平の司法卿就任と、その方針の明確化は、「それまで不振で影の薄い存在だった司法省の様相」を一変させたといいます。同年8月3日には、「22章108条からなる大部の「司法職務定制」(太政官無号)が制定」されます。

この「司法職務定制」では、「司法警察担当者」についての規定がなされ、それまで、大蔵省管轄下の地方官(府県)の支配下にあった「邏卒・捕亡吏を・・・検事局に所属させ、司法警察の管轄下に置」こうとします。急速に、「司法省が全国警察権を掌握する」ことになっていくのです。

明治5年8月28日、司法省警保寮が設置されます。東京府の治安維持は、司法省警保寮が担当することになり、それまでの東京府の邏卒は、同寮へ移管され、司法省警保寮は、「国家の治安組織」(『山口県警察史』)となります。さらに同年10月19日「警保寮職制及警保寮章程」が制定され、「ここにおいて全国の警察は司法省のもとに統一され、警保寮が直接これを管掌することになった」のです。

「すなわち、わが国の警察は軍政警察から司法警察へと脱皮し、同時に中央集権化の一環として地方庁管轄から本省管轄へと転換しはじめる・・・」のです。

江藤新平は、よほど優秀な政治手腕の持ち主だったのでしょう。司法卿就任わずか4ヶ月にして、近代中央集権国家に相応しい近代警察の枠組みを作ってしまったのですから・・・。

「江藤新平がごとき人材は、明治政府内部にはごろごろいた・・・」という風説は、江藤新平の政敵。「大久保利通」側が流した中傷でしかないと考えていますが、江藤新平は、日本の近代化にとってなくてはならない人材であったような気がします。明治政府の要職、三条実朝・岩倉具視・木戸孝允・副島種臣等は、佐賀の乱に巻き込まれた江藤新平の助命嘆願を検討していたといわれます(しかし、大久保利通は、彼らの声を無視して、暴走、政敵・江藤新平を惨殺してしまいます)。

「法治主義の番人をもて任じていた司法省」(毛利敏彦)は、東京府をして、司法省警保寮が設置された同日、東京府下へ、約1200人の「番人」を配置するため調査をさせます。そのときの命令が、岩波近代思想大系『官僚制・警察』に収録されている「番人設置の趣旨」という文書です。東京府下96小区に、小区ごとに、番人小頭1人、その配下に番人約30人が配置されたといわれます。「番人」選定に際しては、「其区内居住ノモノ」から選択するよう定められています。区内の地理や人別を熟知している人を採用するようにという指示なのでしょう。有能な「番人」を選択することは、その「番人」に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」として従事してきた「旧穢多・非人」が、司法省下の近代警察組織に、公式に、組み込まれたことを意味します。

『山口県警察史』は、明治6年1月25日、「旧幕時代から各町内に自警機関として存在した「自身番」や「番太」を制度化し、「番人」として府中の取締りに当たらせることにした・・・」と、直接的に記述しています。「番人」は、「笠に紺のマンテルを着し、棒を持って巡邏」することになったのです。

部落解放研究所編『部落解放史』が言及することのなかった司法卿・江藤新平と、その司法制度・警察制度創設の動きの中で、首都・東京はもちろん、地方の各府県に至るまで、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」である「旧穢多・非人」が、明治5年司法省下の近代警察機構に、司法省の方針のもと、積極的に組み込まれたことを意味します。

明治新政府の動きの中で、旧幕藩体制下の司法・警察に従事した「非常・民」である「旧穢多・非人」を、近代中央集権国家の警察機構に組み込む動きがあった・・・、そして、それは絵に描いたもちではなく、現実に実施された・・・。部落史の、これまでの常識と著しく反することがらです。部落解放運動の「御用学者」と化した部落解放研究所の学者・研究者たちは、これまでの通説に反するこれらの資料を、部落解放運動にとってプラスにならないとして、「差別文書」扱いにして、無視してしまったのでしょうか・・・。残念ながら、問題解決の源泉を破棄して、恣意的に部落史を捏造するところからは、部落差別完全解消のてがかりを発見することはできないのです。部落差別完全解消の足かせになるのは、「似非同和対策事業」だけではありません。それと同等か、それ以上に「似非同和教育」・「似非人権教育」も、大きな足かせ、部落差別完全解消への障碍になります。

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