2021/10/02

 まぼろしに終わった警察制度

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その9)

江藤新平が司法卿に就任したのは、明治5年(1872)4月25日のことですが、その2ヶ月前、司法省は、外国人法学教師として、フランス人ジュ・ブスケを雇用します。そして、ブスケから、「警察概念・警察制度」について情報を入手します。

司法卿・江藤新平も、このブスケの指導を熱心に受けたと推測されます。

明治6年6月29日、司法省は、「警察規則案」を「フランスの警察制度を参考として作成」したものを、「司法大輔福岡孝弟の名をもって太政大臣に・・・提出」します。明治政府は、「この時期、続発していた新政府に対する農民一揆に対抗すべき治安体制を確立する」必要に直面していました。明治6年「7月から8月にかけて左院・司法省・太政官の間で確定案を得るための検討作業がすすめられ・・・」ていました。しかし、「明治6年政変」、福岡孝弟をはじめ、「司法省幹部が下野」し、同年「12月この司法省案は現実化することなく消滅・・・幻に」終わってしまいます(岩波近代思想大系『官僚制・警察』、大日方純夫)。

しかし、この「警察規則案」は、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一が指摘する「欧米社会の警察制度の模倣」ではありませんでした。江藤新平・福岡孝弟をはじめとする司法省幹部は、ブスケから、フランスの警察制度を学びつつ、日本の近代国家の歴史と現状に相応しい近代警察制度を創設しようとします。

それは、川元祥一が明治政府を批判するところと違って、単なる「外国の模倣」(川元)ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「旧穢多」・「旧非人」が行ってきた「現場の警察の仕事、そこにある技術や思想、地域の自治警察的機構となっていた歴史を徹底的に研究し」、それを再評価、「古い体質を内部から変革し」、日本の近代国家に相応しい近代警察制度を創設しようとするこころみだったのです。

「江藤新平」対「大久保利通」の対立は、近代日本の「警察権」を「司法権」に帰属させるか、「行政権」に帰属させるかをめぐる対立でもありました。司法卿となった江藤新平は、すべての「警察権」を「司法権」に集中させようとします。

「警察規則案」は、次のように編成されています。

警察総規則
 行政警察・司法警察区別ノ事
警察規則
 第1編
  第1章 行政警察管轄ノ事
  第2章 行政警察ノ事
 第2編
  第1章 司法警察管轄ノ事
  第2章 司法警察ノ事
 第3編 司法警察官吏職務ヲ行フ事
  第1章 番人小頭・番人及ビ田野山林川沢等看守者ノ事
  第2章 警察御用掛等ノ事
  第3章 警部・逮部・巡査・捕亡、戸長・副戸長及ビ其補佐ノ者ノ事
  第4章 検事・検部ノ事
  第5章 正権警視・逮部長・区裁判官ノ事
  第6章 府県裁判官ノ事

『部落学序説』の筆者である私が注目するのは、「警察規則案」の第11条と第19条です。

第11条においては、「行政警察官」の定義が記され、第19条においては、「司法警察官」の定義が記されているからです。

司法卿・江藤新平によって指導された司法省の作成した「警察規則案」は、法文上、「警察官」という概念の外延(誰が警察官に任命されるべきか)と内包(警察官は何を職務となすべきか)の定義を明確にしています。

第11条においては、「行政警察官」という概念の「外延」として次のような定義がなされています。

「各地方行政警察ノ務ニ任ズル者ハ巡査・番人ナリト雖モ、其他之ニ均シク警察御用ノ徴号ヲ授ケ其ノ務ヲ為サシムル者如左。
 各地方捕亡使
 病院ノ幹事
 獄舎ノ番人
 田野山林川沢等看守者
   但、其看守者ハ従前ノ川番・林守・山番・樋番・畑守等及海口番人、願済ノ雇番人ノ類ヲ云。
 警察御用掛等
   但、従前ヨリ総テ各地方ニ於テ警察ニ管スル者ヲ云。
 戸長・副戸長及ビ其補佐ノ者。
   但、其補佐ノ者ハ従前ノ組頭・伍長ノ類。

第19条においては、「司法警察官」の「外延」が定義されています。

「司法警察ノ務ニ任ズル者ハ正権警部・逮部・巡査・捕亡ナリト雖モ、其他之ニ均シク其ノ務ヲ為サシムル者左ノ如シ。
 番人小頭・番人
 田野山林川沢等看守者
   但、其看守者ハ従前ノ川番・林守・山番・樋番・畑守等及海口番人、願済ノ雇番人ノ類ヲ云。
 警察御用掛等
   但、従前ヨリ総テ各地方ニ於テ警察ニ管スル者ヲ云。
 戸長・副戸長及ビ其補佐ノ者。
   但、其補佐ノ者ハ従前ノ組頭・伍長ノ類。

「警察規則案」第11条・第19条の「警察官」の外延を一望して、『部落学序説』の読者の方は何を想像されるでしょうか・・・。おそらく、『部落学序説』の筆者が想像するところと大差ないのではないかと思います。

「捕亡吏、番人小頭・番人・獄舎ノ番人・川番・林守・山番・樋番・畑守・海口番人・雇番人、戸長・副戸長・・・」、それは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」の外延(同心、目明し・穢多・非人、庄屋・畔頭)に酷似します。さらに、第11条・第19条の法文には、「従前ノ・・・」という表現がみられます。この言葉が指すのは、近世幕藩体制下の「同心、目明し・穢多・非人、庄屋・畔頭・・・」をおいて他にありません。

福岡孝弟が司法省官僚として起草した「警察規則案」は、形式においては、フランス人法学教師ジュ・ブスケの指導を受け入れつつ、しかし、その内容においては、日本の近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」制度をそのまま踏襲しているのです。

明治4年8月、「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出されますが、長州藩の枝藩である岩国藩・中津村の「久保の者」(岩国藩では穢多をさす)に対して、「穢多非人・長吏茶筅 支配替」という文書が発行されます。そこには、太政官布告以降、「穢多・非人」が、「武士支配」から「百姓支配」に支配替えになったことが明記されています。しかし、それは、「穢多・非人」から、「非常・民」としての「職務」が完全に取り除かれるのではなく、「人撰を以召仕候様可有之事」と、近代警察官として再雇用があることが示唆されています。

「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告から1年10ヶ月後、司法省は、「警察規則案」を太政官に提出するのです。

部落解放研究所は、その記念碑的著作ともいえる『部落解放史』3巻から、司法卿・江藤新平の指導で構築されていった近代警察制度の構想を「無視」します。「部落学の祖」である『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一は、明治新政府の警察制度の、「明治6年政変」の勝者の側・「大久保利通」の側の資料をもとに考察し、敗者である「江藤新平」の側の資料を、知った上で「無視」します。部落史研究は、いつまでさまよい歩き続けるのでしょうか・・・。(続)

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...