2021/10/02

田中正造と明治維新2 「田中正造穢多を愛す」の真意

田中正造と明治維新2 「田中正造穢多を愛す」の真意

この項を執筆するにあたって、筆者の手元にある田中正造に関する資料は、林竹二著『田中正造の生涯』、ただ1冊です。

林竹二は、その「まえがき」で、「田中正造は今日でも依然として知られざる人である」といいます。「田中正造の生涯という大きく深い森のなかを歩きまわって、内部の情景をさぐっているうちに、いつかそれだけの時が流れてしまった。この仕事を通じて、私にようやく明確になってきたことがいくつもある。」といいますが、林竹二の田中正造研究においては、『部落学序説』の筆者がとりあげている「常民」・「非常民」という概念はとりあげられることはありません。

林竹二の『田中正造の生涯』は、『部落学序説』の筆者が定義する「常民」・「非常民」概念のもとで読み直しますと、「私にようやく明確になってきたことがいくつもある・・・。」という林竹二ですら、明確にすることができなかった田中正造の精神的世界の一面を描くことができるのではないかと思っています。

ひとりの人間の精神世界を描くことは、非常に難しい側面があります。

スイスの哲学者・アミエルは、その日記のなかでこのように記しています。

「人生の肝要な事柄に関して我々は常に孤独である。我々の本当の歴史はいつになっても他の人からは殆ど読み解かれることがない。この悲劇の最も優れた部分は独白、むしろ神と我々の良心と我々との間に交わされる内密の科白のやりとりである。涙、悲しみ、あてはずれ、侮辱、悪い考へ、いい考へ、決心、不安心、熟慮、すべて我々の秘密である。その殆ど全部は、たとひ我々がそれを話そうとしても書いて見ても、通じようがないし伝えることが出来ない。我々自身の一番大切なところは決して現れることがない。親密な間柄に於ても出口を見出さない。我々の意識にも確かに一部分しか出て来ない。殆ど祈りのうちにしか活動を始めない。恐らく神によってしか拾い上げられないであろう。というのは我々の過去は我々にとって永劫に他人だからである・・・」。

しかし、アミエルは続けて、このように語ります。

「しかし不明なものがあるのは、やがてなくなる為なのである。」、と。

田中正造の精神世界も、アミエルのいう、人生の孤独と秘密に満ちています。田中正造自身も、解くことができなかった人生の秘密に満ちています。しかし、もしかしたら、その残された田中正造の記録(日記)をひもとけば、その秘密・謎をときあかすことができるかもしれない・・・のです。

林竹二は、そうして、田中正造の人生の孤独と秘密を明らかにして、その著『田中正造の生涯』という論文を書き上げることになったのでしょう。『部落学序説』の筆者は、『田中正造の生涯』と読みながら、『田中正造の生涯』は、田中正造の残した資料や、田中正造に関する研究論文と格闘しながら、田中正造の精神世界をあきらかにしていった、秀作・労作であると評価せざるをえません。秀作・労作であればあるほど、『部落学序説』で田中正造の精神世界をとりあげるとき、林竹二著『田中正造の生涯』に依存せざるを得なくなります。

そこで、筆者は、ふと思ったのです。

田中正造のことばに直接触れてみよう・・・、と。2、3の田中正造の著作を読んでみて、林竹二著『田中正造の生涯』に書かれていることが正しいと確認できたら、その書に依拠して、それを読み替える形で、『部落学序説』の研究手法を適用してみよう・・・、と。

それで、『田中正造全集』の全20巻のうち、第1巻(自伝)と第9~13巻(日記)を入手することにしました。

それを読んでから・・・、というのでは、またまた『部落学序説』の完成が遠のくことになりますので、これまでの執筆計画にそって、書き続けていくことになります。筆者は、『部落学序説』を「真剣勝負」のつもりで執筆していますので、ときどきは、自分を賭けて、このような決断をしなければならないこともあるのではないかと思います。田中正造について書いた文章を、『田中正造全集』の自伝と日記を読むことで、『部落学序説』の筆者みずから批判検証することになります。


林竹二著『田中正造の生涯』の構成は以下の通りです。

目次
まえがき
序章 田中正造の遺跡を訪ねて
第1章 政治家田中正造の形成過程
第2章 田中正造の議会の戦い
第3章 谷中村問題
第4章 田中正造の谷中の戦い
第5章 砕けたる天地の間に
田中正造略年譜

「第1章 政治家田中正造の形成過程」は、更に次の節に分かれています。

1 田中正造の生まれた家
2 村の小さい政治
3 政治への発心
4 鉱毒問題との出会い
5 明治の民権運動がたどったみじめな歴史
6 鉱毒問題小史

『部落学序説』の筆者が特に関心を持つのは、第1章の「1 田中正造の生まれた家」と「2 村の小さい政治」です。

林竹二によると、田中正造は、1841(天保12)年11月3日、「下野国安蘇郡小中村(現在佐野市小中)」に生まれました。父の名は、庄造、母の名は、サキ。庄造は、その長男として生まれ、幼名として、兼三郎と呼ばれました。

Tanaka林竹二著『田中正造の生涯』には、「小中村の翁の生家(改修前のもの)」と題された写真が掲載されています。下のカラー写真は、インターネット上で検索したもので、渡良瀬短信-歴史と自然に掲載されているものです。

林竹二は、田中正造の生家を訪ねたときの感想をこのように記しています。

「田中正造の遺跡巡礼をしたとき、私は、はじめて「翁」の生家を見ることができた。その印象は、それがいかにも小さいということであった。庭田家などとはくらべものにならない。父の隠居所にあてられた、門に接した別棟の二階家があり、裏に倉もあるがこれも小さかった。たくさんの年貢米が運びこまれる情景などを思い描く余地などまったくない屋敷の構えで、到底豪農などいうことばとは無縁の、ささやかな家のたたずまいで、家族の農耕の営みによって生きている、まごう方なき「下野の百姓」の家であった」。

林竹二は、明治39年に田中正造宅を訪ねた木下尚江の印象、「代々の名主の家の建物にしては小さい。・・・祖父の代までの田中家の生活は、嘘のように質素なものであった・・・」ということばを引き合いに出しながら、林竹二が自分の目でみた田中正造の生家の印象を裏付けていますが、林竹二は、ここでものごとを片づけず、なぜなのか、その理由を尋ねます。

そして、「私は翁の生家のささやかなたたずまいをみて、一つ発見したような気がした。」といいます。そして、このように推測します。

「田中家から出てはじめて名主となった祖父正造は気性の激しい人であったらしい。おそらく家の格式や財産によってではなく、その能力が小中村の百姓の信望を集めて彼は名主に選ばれたのであったろう。父は温厚な人であったが、割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである」。

幕末期の一時期、庄屋であった田中家の家の建物が、林竹二には、「普通の農家としても中以下の規模のように感じ」られたのは、林竹二が言及しているとおり、田中家が、近世幕藩体制下300年間を通じて、藩主から名主の役を与えられ代々に渡ってその富を蓄積してきた、いわゆる「豪農」としての「名主」ではなかったことを意味します。

祖父・正造のとき「名主」の役を与えられ、父・庄造のとき、「名主のたばね役」である「割元」の役に「昇進」したそうですが、わずか2、3代「名主」の役を担ってきただけの田中家と、近世幕藩体制下を通じて代々「名主」の役を担ってきた他の「名主」とくらべてもほとんど意味がないと思われます。

この「名主」ということばは、東日本で一般的に用いられていることばですが、西日本では「庄屋」と呼ばれています。『部落学序説』の筆者が棲息している旧長州藩領では、「庄屋」の規模は実にまちまちです。「庄屋」は、すべての村(自然村)に配置されました。平野にひろがる村の「庄屋」もいれば、山間部の少数の村の「庄屋」もいます。「庄屋」の家の建物がどのような規模のものであるかは、その村の「百姓」人口で決まります。通常、「庄屋」の倉は、年貢米の一時保管場所の機能も果たしていましたが、その蔵の大きさは、その村の「百姓」人口によって決まります。下野国安蘇郡小中村がどのような村であったのか、地理的・社会的・歴史的条件についてまったく知識をもちあわせていない『部落学序説』の筆者としては、即断しかねますが、さまざまな資料を駆使して総合的に判断しないと大切なことを見逃してしまいます。

筆者は、現在の岡山県倉敷市児島・・・に生まれ育ち、29歳までそこで生活していましたが、その地の「庄屋」というのは、立派な屋敷です。筆者がクリスチャンとして洗礼を受けた教会は、元庄屋の屋敷とかで、800坪の屋敷は、白い土塀で囲まれ、石段をのぼった正面玄関は、どちらかいうと農家というより、武家屋敷の感じがします。屋敷の中には、大きな倉がいくつかあり、茶室も3つあります。それどころか、塩百姓の庄屋となると、町の何分の1かを占めるような広大な敷地が白い土塀で囲まれています。

「庄屋」というものはそういうものだ・・・、と思っていましたら、山口にきて、ときどき聞き取りに尋ねる「庄屋」は、どの家も、規模もイメージもまったく異なるものでした。おそらく、幕末期の「庄屋」・田中家を想像させる「庄屋」が少なくありません。

長州藩では、「庄屋」の上にあって、「庄屋」をたばねる役をしている「庄屋」を「大庄屋」といいます。「大庄屋」になると、筆者が、岡山県倉敷市児島の地で想定していた「庄屋」のイメージに近くなります。

この「大庄屋」、誰でも、その職務を遂行できるというわけではありません。長州藩の枝藩である徳山藩の庄屋文書の中に、1789(寛政元)年に藩から出された『大庄屋小庄屋江上使より御尋并御供衆被相尋候節御返答可申上覚」があります。幕府の巡検使を迎えて、「政情の査察」を受けたとき、想定される質問にどのように答えるべきか、藩がその内容を指示したものです。大庄屋は、傘下の庄屋にも藩の指示を徹底させることを義務つけられたと思うのですが、まかり間違えば、幕府からの徳山藩の改易につながらないとも限りません。藩の政治・経済・治安について、藩の指示通りに答えることが要求されます。その答えは、実際の藩の政治・経済・治安の常識とことなる場合もあります。

徳山藩は、「穢多」を「町押之役人衆」と呼ばせています。「穢多」は、徳山藩では、「穢多」役という役職名のことであって、一般的には、「役人」とよばれていたようです。徳山藩だけでなく、徳山藩をとりまく、長州藩本藩においても、「穢多」は「穢多」役を識別したり強調されたりする場合に用いられ(藩の公文書に頻繁に登場)、一般の生活においては、「役人」ということばが用いられたようです。

田中正造の父・庄造が、「名主のたばね役」を担っていたというのは、林竹二が、「割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである。」と指摘するのは、当然すぎるほど当然です。大庄屋は、名誉職や年功序列で担うことができるほど軽佻浮薄な「役」ではありません。田中正造の父・庄造は、当時、彼をおいて他に「大庄屋」(「名主のたばね役」)を担える人物はいないと信望を集めていたのでしょう。

「田中中家が苗字帯刀を許された」のも、名誉職としてではなく、「下野の六角領7ヶ村」の治安を担うだけの実力を持っていたからでしょう。「大庄屋」としての権限は強大です。なにか、殺人・強盗・火付などの「非常」に遭遇したときには、「大庄屋」は、代官所に指揮のもと、村役人や村番人を動員して、犯人の探索・捕亡・糾弾に従事することになるのですから・・・。年貢の算術・経済に明るいだけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての知識・技術にも長けていなければならないからです。置かれた時代と状況によっては、「庄屋」が「大庄屋」に抜擢されることもあり得るのです。

田中正造という人物をはかるには、その生家の規模の大きさではなく、近世から近代への過渡期に、田中家に担わされた「職務」(非常民としての職務)の大きさで判断すべきです。

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