2021/10/02

田中正造と明治維新1

田中正造と明治維新1

田中正造・・・。

昔、小学生のときに、授業でその名前習ったことがあります。

小学校5年生のときだったと思いますが、参観日の授業科目は、社会科でした。授業の内容は、日本の鉱山について。

そのときの教師は、生徒に、日本にはどのような鉱山があるのか、宿題に出しておいて、参観日のときに、その教師に、「○○鉱山はどこにありますか」と質問させて、その教師が生徒の質問に答えて、地図上でその場所を指揮棒の先で指す・・・、というもの。

私は、その前日、小学校の図書館に残って、小学生用の参考書や地図にのっている鉱山だけでなく、いろいろな鉱山を調べておきました。

参観日の当日、授業がスムースに進んでいきます。生徒は地図と教科書を閉じたまま、教師は、その生徒の側から質問を受け付けるのです。生徒から、「足尾銅山、どこですか・・・」、と質問がだされると、その教師は、「ここ・・・」、といって、大きな日本地図に棒で指していきます。しかし、授業が進むにつれて、だんだん、手をあげる生徒の数が少なくなっていきます。

担任の教師は、「もうないのですか・・・。あらかじめ、宿題を出していたでしょう。それでは、宿題をきちんとしてきたひと、手をあげて・・・。」というので、私は手をあげて、その教師に質問をはじめました。「△△鉱山はどこですか」、「□□鉱山はどこですか」・・・、私の質問に、担任の教師は、ものの見事に答えていきます。

やがて、小学生用の地図や教科書にのっている日本の鉱山の名前は出尽くしてしまいます。

問題は、その次の段階でした。担任の教師は、「もうありませんか・・・」と質問してくるので、私は、再度手をあげました。「××はどこですか」。その教師は、まってましたとばかり、もっている指揮棒を地図の上に下ろそうとしますが、はたとその指揮棒をとめてしまいます。指揮棒の先が微妙に振れています。

「ええ、そんな鉱山あったかな。吉田君、先生を困らせようと思って、適当なこと、言ってません?」といいます。私は、「先生が宿題をだされたので、昨日図書室で、調べてきました。百科事典に出ていた鉱山の名前と場所を覚えてきました」・・・、話し終わらない間に、うしろの親たちから、ざわざわと動揺の声が聞こえはじめました(「頭も悪い子」で通っていた生徒の暴走に驚いたのかもしれません・・・)。

ことのなりゆきは、当然といえば当然です。

通常、学校教育というのは、教師が教えたことを生徒がどれだけ学習したかを成績として評価します。

そのときの授業参観の授業内容は、その一般的な指導方法と、正反対の方法でしたから、授業の質を決めるのは、教師の側ではなく、生徒の側にありました。教師の指示通り、「宿題」をきちんとすれば、たとえ小学生であったとしても、教師の知識にまさる知識を図書室で入手することは可能です。

担任の教師曰く、「吉田君、誰も知らない、小さな鉱山ではなく、みんなが知っている鉱山の名前を質問してください」。

なぜか、時間がとまってしまったかのように、シーンと静まり返った教室で、私は、「●●鉱山はどこですか」と質問しました。

そのときも、担任の教師は、地図上でその場所を指すことができませんでした。授業参観にきた親たちから動揺の声があがります。その鉱山は、岡山県内の誰でも知っている鉱山だったからです。

その授業参観の日、家に帰った私を待っていたのは、母のこごとでした。「どうして、あんな意地の悪い質問するの? 先生、困っていたじゃない! おかあさんは、あなたに、頭のいいこではなく、ひとのこころがわかるやさしい子になってほしいの・・・」と涙ぐんでいうのです。母のことばは、とてもショックでした。

私は、その社会科の授業で、担任の教師から、足尾鉱山とその公害事件、そして、村のひとと一緒になってたたかった田中正造のことを習ったように思います。田中正造は、金原明善とともに、偉大な人物であった・・・、と習ったと記憶しています。

その学期の社会科の成績は、「5」でした。私にとって、担任の教師もまた、田中正造や金原明善とおなじく偉大な人物でした。参観日のとき、授業を壊した私の成績に「5」をつけるのですから・・・。

その田中正造は、それ以来、私の記憶から遠のき、その名前を思い出すことはありませんでした。日本の高度経済成長の陰の部分である公害問題はなやかなりしころ、新聞雑誌で、田中正造のことがとりあげられていました。また、農民運動家としてとりあげられることもしばしばありましたが、田中正造の話は私の脳裏を通り過ぎていきました。田中正造の思想と行動を支えたのは、キリスト教の信仰であるとの見解も目にしましたが、それ以上関心を持つことはありませんでした。

田中正造も金原明善も、『広辞苑』(初版本)に見出しとして掲載されています。

【田中正造】
政治家。栃木県の人。1890年(明治23)以来衆議院議員に当選。足尾鉱山の公害問題解決に努力。1901年直訴。以後終生治水問題に意を用いた。(1841~1913)

【金原明善】
社会事業家。静岡県の人。養蚕・植林・牧畜の奨励、天竜川の治水、免囚保護などに尽力。(1832~1923)

日本の公教育を受けたひとの中で、「田中正造」の名前とその業績を知らないひとはいないといっても過言ではないでしょう。

『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、その「まえがき」をこのようなことばで語りはじめます。

「1962年に、「思想の科学」が、没後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にはほとんど忘れられた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題が喧しくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも依然として知られざる人である。田中正造は、小説家や劇作家には好個の題材であるのに、その研究者は乏しい。これはどうしたことだろうか」。

林竹二は、その著『田中正造の生涯』を書き終えたあとも、その理由を明言しているようには思われません。田中正一著『田中正造 その思想と現代的意義』によると、田中正造は、若い時から晩年に至るまで、「自分が無学で愚であることを繰り返し」語っていたといいます。田中正造は、「無学であるがゆえによく学ぶことができる、愚であるがゆえによく真実に迫ることができる、という弁証法」(同書)を体得していたといわれます。

その田中正造は、明治36年3月、谷中村に入る前の年、その日記に、「大学廃すべし。腐敗の淵藪なり。」と記していたといいます。

「帝国大学の学士中、おおくは忍耐力の一つは卒業せり。
恥を忍ぶ、
侮辱を忍ぶ、
惻隠の心を失うを忍ぶ。
醜汚を忍ぶ、
人の財を奪うを忍び、
人を殺すを忍ぶ。
同胞兄弟に破廉恥を為すを忍び、
国の滅びるを忍ぶ。
この学生はこの忍耐力を卒業せり。
地方教育、学生の精神を腐らす。中央の大学もまた同じ。
学ばざるにしかず」。

権力を仰ぎ、権力に服従し、権力のおもんぱかって、その学識を披露する、そして、「しえたげられる者の涙」を理解することなく、「惻隠の心」(あわれみのこころ)を棄ててかえりみない、当時の中産階級・知識階級に対する、激しい田中正造の批判のことばではないかと思います。

「見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しえたげる者の手には権力がある。」

ドイツのワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが、『旧約聖書』という岩から切り出したこの聖書のことばを、その生涯をかけて生き抜いた基督者として、田中正造の名をあげるのはけっして間違いではないでしょう。「しえたげられる」谷中村の農民の涙をみて、その涙の原因たる「しえたげる」国家(中央政府・地方行政)の手の中にある「権力」の不正を文字通りいのちをかけて追究した田中正造の名をあげずして、他の誰の名をあげることができるのでしょう。

田中正造を支えた思想は、皇国史観でも、唯物史観でもないのです。「非常・民」であることを徹底的に棄てて、谷中村の農民と共に「常・民」として共に生きようとした背景にあったものは、近世幕藩体制下で、身につけていった「百姓」としての自信と誇りではなかったかと思われます。

『部落学序説』の筆者の目からみると、すぐれた学的研究の成果である、林竹二著『田中正造の生涯』をてがかりに、大胆に読み直しをしながら、「百姓」として、「非常・民」から「常・民」への精神的葛藤(「苦学」)を経て、徹底的に、「公義」・「正義」を説いていった田中正造の精神世界を振り返ってみたいと思います。

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