2021/10/02

田中正造と明治維新3 「田中正造穢多を愛す」の真意2


今日、徳山市立図書館で、田中正造に関する書籍3冊を借りてきました。『田中正造全集第1巻』、『田中正造全集月報』(徳山市立図書館が付録をまとめて1巻としたもの)、小松裕著『田中正造』の3冊です。

数多い文献の中から、その3冊を選んだのは、田中正造の『回想断片』に収録されている、「田中正造穢多を愛す。6年出獄してより・・・」という書き出しではじまる短文が執筆された前後の歴史的状況、田中正造が置かれた状況を考察するに、適当な史料が含まれているのではないかと想定されたからです。

『田中正造』の著者・小松裕は、この本の著者紹介では、「早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学・・・、現在、熊本大学文学部助教授」とあります。インターネット上で確認すると、今は熊本大学文学部教授だそうです。

徳山市立図書館で、小松裕著『田中正造』をパラパラめくってみたところ、「はじめに」にこのようなことばがありました。

「私が田中正造の思想をまとめてみようと思いたったより直接的な理由は、次のような研究史の状況に存在している。田中正造に関する手軽な研究書としては、すでに、林竹二『田中正造の生涯』・・・がある。しかしながら、残念なことに、これらの著作においては、田中正造の思想の特徴が充分に描かれているとはいいがたい。林の『田中正造の生涯』は、正造の、とりわけ谷中村入村後の思想の分析に優れたものであるが、史料の歴史的背景と文脈を無視した強引な解釈も目立ち、必ずしも正造の思想を正しく伝えているとはいえない。・・・つまり、田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書は皆無といっていい状況なのである」。

徳山市立図書館から帰って、最初に目を通したのは、小松裕著『田中正造』でした。小松の「はじめに」のことばから、林竹二著『田中正造の生涯』を超える田中正造研究の成果を期待したのですが、期待はものの見事に裏切られてしまいました。

無学歴・無資格のものがなにをいうか・・・、と批難されるかもしれませんが、『田中正造』の「はじめに」に記された、林竹二の田中正造研究に対する批判は、いわゆる批判のための批判・・・でしかないと思わされました。小松の林に対するどの批判のことばをとっても、林の研究成果をいたずらに否定する、悪しき中傷でしかないのではないかと思わされるのです。

『部落学序説』の筆者の目からみると、林の田中正造研究は、小松の指摘するのとはまったく逆で、「史料の歴史的背景と文脈」を踏まえ、田中正造の内面の苦悩と葛藤、その思想を描き出してあまりあるものです。林竹二著『田中正造の生涯』は、「田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書」として評価されてしかるべきものです。

それにひきかえ、小松裕著『田中正造』の内容は、無学歴・無資格の筆者の目からみても軽佻浮薄としかいいえないような内容です。小松が明らかにしようとしている、田中正造の思想は、田中正造の思想と人格を無視して、近代歴史学の一般的・通俗的見解である「近代進歩史観」を、それこそ「強引」に適用したものにほかなりません。

林竹二の田中正造研究が、史料からの「読み出し」であるとするなら、小松の研究は、史料への小松の価値観の「読み込み」に過ぎません。小松の林批判は、批判によって、田中正造研究の質をひきあげるものではなく、まったく逆に引き下げて、貶めるものに他なりません。

小松は、その著『田中正造』の「第1章 田中正造の生の軌跡と足尾鉱毒事件」で、田中正造の生涯をとりあげていますが、『田中正造全集 第1巻』(自伝)を読んだのだろうか・・・、と首をかしげたくなるほど、田中正造本人のことばを無視しています。しかし、林竹二著『田中正造の生涯』の「第1章 政治家田中正造の形成過程」では、その行間にすら、田中正造の人格と思想が滲み出ています。

表面的・形式的な論述に終始する小松の『田中正造』は、田中正造と谷中村の農民に深い共感を持って執筆された林竹二著『田中正造の生涯』には、足元にも及ばない・・・と思われます。

両者とも、田中正造の生涯についての言及のなかで、『回想断片』の「田中正造穢多を愛す。」ではじまる田中正造の短文に直接触れることはありませんが、林竹二は、その章全体において、行間に、そのことをにじませます。しかし、小松は、完全に無視してかえりみないようです。

明治7年、田中正造は、「上役暗殺事件で嫌疑を受けて投獄されて、明治4年2月から36カ月と20日間の牢獄生活を経験」します。明治7年4月出獄が許可された直後、帰った故郷での田中正造のことばとして、「田中正造穢多を愛す。」が語られているのです。当時の男が「愛す」と宣言するのは、尋常ではありません。それでも、「愛す」と宣言した田中正造の精神世界を解明せずして、田中正造のほんとうのすがたを描くことは不可能ではないでしょうか・・・。(続く)

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