2021/10/03

黒川の部落問題の認識

黒川の部落問題の認識

黒川みどり著《近代社会と部落差別》(『脱常識の部落問題』かもがわ出版)をてがかりにして、近代部落史を取り扱う際の黒川の歴史認識のありようをみてみましょう。

黒川は、「部落問題は、日本の近代社会の病理の一つ」であるといいます。

黒川は、その論文の最後で、さらりと「社会の病理」という表現を用いていますが、筆者は、「部落問題」を「社会の病理」としてとらえるということはどういうことを意味するのか・・・、考えこまざるを得ません。

筆者は、青年時代、大学進学の道を閉ざされたあと、独学で、ゲーテの『ファウスト』に出てくる中世の代表的な学問、医学・法学・哲学・神学を独学したことがありますが、その頃の職業は、某病院で臨床病理検査の仕事をしていました。当然、臨床病理検査をするための基礎科目として、生理学や病理学をならいました。

そのとき、医者がよく筆者に話していたことは、「病理学」をマスターするためには、まず「生理学」をマスターしなければならない。「生理」を正しく認識することで、それと比較することで「病理」を認識することができる・・・というのです。医学の経験則からでてくる「正常値」を基準にして「異常値」が検出されるのですから、「病理」を認識するためには、「生理」の状態を正しく認識する必要があります。

黒川が「社会の病理」という表現を使うとき、「社会病理学」が背景にあるのだろうと思いますが、人間の体ではなく、社会に対して「病理」という概念を使用するとき、当然、社会的「生理」の認識が前提となります。

黒川は、「社会の病理」の前提となる「社会の生理」についてどのように考えているのでしょうか・・・。

黒川の論文から推測すると、黒川は、「社会の生理」状態は「差別のない社会」を指しているように思われます。そのような社会に、何らかの形で「差別」が生じて、「差別のある社会」が成立すると、それは、「差別のない」「社会の生理」状態からの逸脱、つまり、「社会の病理」状態に陥ったことになります。黒川は、「社会の病理」を取り除き「社会の生理」状態に回復することを、「解放の展望を切り開いていくこと」と解釈します。

黒川の論文は、「社会の病理」を取り除き「社会の生理」状態に回復するための「診断学」として執筆されているように思われますが、「診断学」によって明らかになった「病巣」(黒川は「部落問題をとりまく状況」と表現)をとりのぞくために「処方箋」を発行します。

「部落問題をとりまく状況を打破すべく努める・・・それを行うのは近代社会の構成員一人一人であり、その「不断の精神革命」の可能性に期待を賭けたいと私は考えている」。

『脱常識の部落問題』が出版されたのは、1998年ですから、そのときから、ほぼ8年の歳月が経過したことになります。その間に、黒川が抱いた「期待」は、どのようになったのでしょうか。「期待」は、「精神革命」として現実化したのでしょうか。それとも、「期待」は、黒川の祈りとして、いまだに「期待」のままなのでしょうか。

筆者の目からみると、黒川の論文の結論は、非常に楽観的は結論であると思います。

「社会現象に医学上の範疇を適用するのは本当に理にかなっているだろうか・・・」(『バーガー社会学』学習研究社)。

ライト・ミルズという社会学者によって、《社会病理学者の専門的理念》と題した論文の中で、「社会病理」は、社会学者の帰属する社会層(中流階級・知識階級)の反映でしかないということが証明されて久しい(『権力・政治・人民』みすず書房)。

つまり、黒川のいう、「社会の病理」は、黒川の所属する社会層(中産階級・知識階級)の目からみた、またその価値観を反映した「社会の生理」・「社会の病理」でしかないということを意味します。

黒川の発想に基本的な問題が内在していることを留保しながら、黒川が主張する「部落問題は、日本の近代社会の病理の一つ」という命題の内容をみてみましょう。

黒川は、社会病理現象としての部落差別の症例として、被差別部落を差別する側の、差別する根拠に「合理」性がないことをあげています。

黒川がいう「合理」性というのは、黒川が帰属する社会層(中産階級・知識階級)からみた「合理」性のことで、黒川は、「合理的な理由を見だしえずに差別を行う」下層階級・労働者階級の非合理性を指摘します。

「部落を忌避した側も、そのほとんどが理由を突き詰めて問われると、明確に説明できずに答えに窮してしまう・・・」。「部落出身者との結婚は「一族の血が汚れる」、親戚や生まれてくる子供に累が及ぶ、「家柄」に差がありすぎる、部落住民は「怖い」「きたない」・・・」。

黒川は、このような「差別の不当性を説くもっともらしい説明」は、「合理的根拠をもたないもの」であると断定します。

黒川は、「合理的な理由を見だしえずに差別を行う」下層階級・労働者階級の非合理性の背景に「ケガレ意識」にあるといいます。黒川は、「ケガレ」を解釈するに際して、民俗学のいう「ハレ・ケ・ケガレ」の「ケガレ」でも、歴史学のいう「穢れ」でもなく、独自の解釈をします。黒川によると、「ケガレ意識」とは、「本音とたてまえの使い分けが行われ、本音が執拗に維持されるという性格を持っている。こうした意識」のことであるといいます。

黒川は、医者が生理学と病理学を前提に診断するのと同じように、部落差別という病理をとりのぞくために、この「ケガレ意識」の「内実を具体的に明らかにする」診断が大切であるといいます。「ケガレ意識」を明らかにすることなくして、「差別構造の解明に向けて何も前進したことにはならない」(診断は完了したことにはならない)というのです。

黒川は、「ケガレ意識」を「支えている要因」として、①家意識、②「怖い」という意識、③経済的貧困から派生する不潔・病気・異種による排除をあげています。3つの要因の詳述は避けますが、黒川は、この3つの要因は、「民衆」(下層階級・労働者階級)の意識に内在するといいます。黒川は、「民衆は・・・不潔であり風俗がちがうといった現象面や異種であるといった先入観にとらわれた忌避の感情によって排除してきたのであり、民衆がかたくなに守ろうとする「血筋」や「家柄」も、実態のない非合理的な感情にささえられたものでしかない。」と断定します。

黒川の「民衆」をみる目は、「愚民論」です。

黒川は、「民衆」の、「民衆」による、「民衆」のための反差別理論を説いているのではなくて、「権力」の、「権力」による、「権力」のための差別理論を説いているのです。

そのような黒川にとって、非合理な感情に身をゆだねて差別にはしる「民衆」との「同和」ということは、身の毛のよだつことがらになってしまいます。そして、このようにいいます。「「同化」を求める運動は、諸権利の獲得と引き換えに包摂の契機をもはらんでおり、それによる弊害が今日表面化してきていることも誰の目にも明らかな事実である。」

黒川が、部落差別という「社会の病理」に対して、上記のような診断結果をもとに、被差別部落の側に出す「処方箋」は次のようなものです。「「部落民アイデンティティ」崩壊の危機を見てとり、それの再生をめざしつつ、「部落民」という「差違」の承認を行いうる文化的多元主義の方向を提唱する・・・」。黒川は、差別的な「愚民」である「民衆」に同化することなく、「部落民」が「部落民」として生きていくことができる「多元」的社会の創設を訴えるのです。「愚民」である「民衆」(下層階級・労働者階級)に絶望し、それと決別することによって、「部落民」が<賎民>ならぬ<選民>として生きていくことを主張します。

黒川は、<選民>と代表的な人物として、松本治一郎をとりあげます。「人間天皇を人間以上のものにデッチあげ、これを神格化して拝むような形で崇拝するということは人間に対する尊敬ではなくて、むしろ侮辱である。・・・人より上に人はなく、人より下に人はないのだ」。

黒川の論法は、「天皇」と「民衆」は、「非合理性という点できわめて親近性をもっている」といいます。

黒川は、「部落民」を、「天皇」と「民衆」から切り離し、「異化」することで、「部落民」をどこに追いやろうとしているのでしょうか。「部落民」を<異>化し<選民>化することで、本当に「部落民をとりまく状況を打破」することができるのでしょうか。「解放の展望を切り開いていくことができうる」のでしょうか。

学歴もなく資格も持たない、下層階級である労働者階級である「民衆」のひとりに過ぎない筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を無意識に生きている中産階級・知識階級こそ、その差別性が明らかにされなければならないと考えています。

静岡大学教育学部・黒川みどり教授をはじめとする中産階級・知識階級に属する人々は、民衆に対する「同和教育・・・は何の威力も発揮することができない」と嘆くまえに、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に自覚することなく囚われの身になっている学者・研究者・教育者としての差別性を自ら問い直し、「近代社会の構成員」として「不断の精神革命」を実践しなければならないのではないでしょうか。

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