2021/10/02

「賤民史観」と遊女3 「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言

「賤民史観」と遊女3 「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言

1日1文章・・・

『部落学序説』の書き下ろしを続ける筆者がみずからに課したノルマですが、なかなか思うようにいきません。

無学歴・無資格のなせるわざか、「部落史」・「部落解放史」に関する基本的な概念・思想を充分に咀嚼していないことで、ときとして、障碍によって執筆を妨げられることがあります。

「わからないことは尋ねるに限る・・・」、それは、筆者の基本的な姿勢であったのですが、『部落学序説』の書き下ろしを続けていく中で、「わからないこと」を他者に尋ねることが次第に難しくなっています。

その結果、識者に尋ねたら即答されることがらも、手持ちの文献で確認するために、何時間も、何日も費やすことになります。今回も、例にもれず、明治5年の太政官布告第第295号、通称「遊女解放令」をとりあげる際に、この「遊女解放令」は、「日本歴史上最初の人権宣言」であることに気づいたのですが、「日本歴史上最初の人権宣言」という表現は、部落史研究・部落解放史研究で、「水平社宣言」に対する今日的評価としてなかば定着しています。それにもかかわらず、今回の文章を、《 「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言》とするとき、この表題は、必然的に、「水平社宣言」= 日本歴史上最初の人権宣言という既存の説を否定することになります。

今回、『部落学序説』の書き下ろしを続けるときの障碍というのは、

「水平社宣言」= 日本歴史上最初の人権宣言

という「命題」に対して、批判検証する必要性が生じた・・・ということです。

「水平社宣言」を「日本歴史上最初の人権宣言」であると評価したのは、誰なのか・・・。それを探るために、ここ数日間、手持ちの資料を散策したり、インターネット上で検索を繰り返したりしてきましたが、残念ながら、解明することはできませんでした。

誰が、「水平社宣言」を「日本歴史上最初の宣言」と言い出したのか、被差別部落のひとびと、部落解放運動に従事してきたひとびと、また彼らと連携して部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わってきたひとびと・・・、彼らにとっては周知の事実で、あえて触れる必要はない・・・ことも考えられます。知らぬは、『部落学序説』の筆者ばかりなり・・・。ここでもまたまた「愚」をおかすことになりますが、このことについて一考していきたいと思います。

井上清著『部落の歴史と解放理論』(1969年12月発行)の「水平社宣言」に関する記述の中に、このような一節があります。

「1922年(大正11年)3月3日、京都市の岡崎公園で、日本人民解放運動史にさんぜんと輝く全国水平社の創立大会が開かれた。それは、日本における人権宣言の日であった」。

「それは」という指示代名詞は、1922年3月3日の全国水平社創立大会の開催日を指します。水平社創立大会の中で宣言として採択された「水平社宣言」そのものを指して用いられているわけではなさそうです。

井上清著『部落の歴史と解放理論』(1969年12月発行)から6年後に書かれた原田伴彦著『被差別部落の歴史』(1975年3月発行)では、「水平社宣言」そのものが「人権宣言」として表現されています。

「この格調高い、輝かしい人権宣言ともいうべき宣言を起草したのは西光万吉でした」。

そして、西光万吉がどのような環境下で「水平社宣言」を書き上げていったのかの説明が続きます。

原田伴彦にしても、水平社宣言を「人権宣言<ともいうべき>」と表現しているところをみますと、「水平社宣言」=「日本歴史上最初の人権宣言」といいきるためには、少々、ためらいが出てきます。

井上清著『部落の歴史と解放理論』(1969年12月発行)から20年後に書かれた、小森哲郎著『部落問題要論』では、「日本の「人権宣言」といわれる宣言」と、括弧付で表現されています。小森は、水平社宣言に対して「人権宣言」という呼称を使うことになんらかのためらいを感じていたのでしょう。

井上清にしても、原田伴彦にしても、小森哲郎にしても、「水平社宣言」を、何の疑いもなく「日本歴史上最初の人権宣言」というよぶことに、踏み切ることになんらかのためらいを感じていたのではないかと思います。

部落史研究者が、「水平社宣言」を「日本歴史上最初の人権宣言」とすることに、ある程度留保しながらこのことばを使用しているのに反し、「最初の人権宣言」という水平社宣言に対する評価は、部落解放運動の中で、急速に、水平社宣言に対する正当な評価として受け入れられるようになっていきます。部落解放運動の一般的・通俗的担い手である『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治は、水平社宣言は、「日本に誇るべき人権宣言」であるといいきり、水平社宣言は、「人間は人間として尊重されるべきだ、人間としての尊厳を持っているということを訴えている文章」であるといいます。

部落研究・部落問題研究・部落史研究で、ためらいがちに、留保しつつ語られたことばは、ときとして、部落解放運動の中に採用されるとき、そのためらいと留保の思いがはぎとられ、確定的なことがらとして使用される傾向がある・・・ことは、なにも「日本歴史上最初の人権宣言」ということばだけではありません。部落解放運動は、知識階級・中産階級による研究成果が、トップダウン式に、「組織」を通じて、一般の被差別民衆に普遍化されていくとき、かなり、思想的に丸められた形で伝達されていく傾向があります。

1948(昭和23)年12月10日、第3回国際連合総会において、世界人権宣言が採択されますが、戦後に採択された世界人権宣言が大きく影響し、水平社宣言を「日本歴史上最初の人権宣言」との見解を生み出した可能性が多分にあります。

水平社宣言は、ほんとうに、「人権宣言」なのでしょうか・・・。

上野千鶴子著『ナショナリズムとジェンダー』に紹介されているジェンダー史」の視点・視角・視座から水平社宣言をみると、水平社宣言は、近代日本の歴史に内在する差別性を内包しているが故に、水平社宣言を「人権宣言」といいきることにためらいをもたざるをえなくなります。

水平社宣言に関する研究は、水平社宣言の文章・思想についての研究と、水平社宣言の時代的背景、「生活の座」についての研究があります。

前者には、吉田智弥著『忘れさられた西光万吉 現代の部落「問題」再考』(明石書店)という名著があります。後者については、筆者の手元に適当な資料がありませんので、井上清著『部落の歴史と解放理論』から抜粋してみましょう。

井上清は、水平社宣言は、「いかなる官憲も文句のつけようのないもの」と評価していますが、井上による次の文章を読むとき、その評価を否定してあまりあることを知らされます。

「この宣言を起草したときの西光氏の回想が『部落』31号にのっている。西光氏は警察の追究の手をのがれて水平社創立オルグ活動のために京都ガス会社の修理工になり、島原の「すみや」という有名な遊廓のガス管をなおしたり煙突を掃除したりしているうちに信用をえて、仕事がなくても勝手にそこの物干台に上ることができるようになった。そこを秘密の仕事場として、西光氏は宣言文の想を練り、比叡おろしの寒風身にしむ2月のある日、その物干場でチビた鉛筆で細字で手帳に宣言文案を書きつけた。それが完成した日から、西光氏は島原に姿をあらわさなくなった。水平社の宣言は、学者の書斎ではなく、じつに最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たちの物干場で、労働者となったオルグによって書かれたのである」。

井上清の水平社宣言に対する注は、何を意味しているのでしょうか・・・。(続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...