2021/10/03

地方行政の「穢多非人ノ称廃止」解釈(2)

地方行政の「穢多非人ノ称廃止」解釈(2)


前回、明治4年の太政官布告第489号に対応して出された地方行政(府県)の「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・から、「身分」に関する項目を抽出して考察してきました。

今回は、「身分」をさらに「役務」と「家職」に分けて考察してみたいと思います。

まず、京都府「平民籍編入に関する布告」の中の「天部村」に関する記述に着目します。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」(同心・目明・穢多・非人・村方役人等)の一翼をになう「穢多・非人」の「役務」について、京都府布告は、「穢多・非人」は、「身分」とともに「役務」から解放されたと認識しています。「これまでの身分につき、府庁より申し付け来たりし候役用、一切差し許し候」という言葉からも確認することができます。

「非常民」(官)から「常民」(民間)に支配替えになったため、当然、「官」から支出されていた、司法・警察職を全うするための措置費(年間300両)は「自今廃し候」といって予算からカットされてしまいます。

京都府は、それでは、京都の治安を維持できないので、「府庁用に遣わし候もの」があるといいます。京都府は、明治4年の太政官布告第489号によって、身分から解雇された「穢多・非人」の中から、「相当の給料」をあたえて再度雇用するといいます。

京都府の「穢多・非人」は、「官」から年間300両の費用を受領していただけでなく、「役得」のようないろいろな収入がありました。

筆者が若かりしとき、大阪市立某中学校に勤めていたとき、夏期手当ては、基本給に他にα・β・γがありました。γというのは、在日韓国人・朝鮮人から徴収した教育費の一部を教職員に還元したものです。今日の公務員の給与制度の中にも、基本給以外のいろいろな手当てが存在していることを考えると、京都府の司法・警察業務に「官」として勤務していた「穢多・非人」の収入として、年間300両以外の収入があったということは想像に堅くありません。

京都府は、府庁から支出される年間300両だけでなく、「探索」・「探偵」業務の見返りとしてはいる「辻芸・門芝居」に関して収入を得ることを禁止します。また、「人夫銭」の取り立てなども禁止されます。

つまり、京都府は、明治4年の太政官布告によって、「穢多・非人」が「身分」から解放された「役務」からの解放・解雇と見なして、その「役務」に見合うすべての報酬を停止するのです。

悲田院に対する「布告」では、「府庁用」ではなく、「町番人・村番人等に雇われ候儀は勝手たるべき次第の事」というのです。 「町番人・村番人」として「番人相勤め候とも、もちろん平民たるべき事」とされるのです。京都府は、地方の「県」と違って、近代警察の構成も多様であったようです。山口県では、そのような区別はありません。

徳島県では、「穢多・非人」の中から、「人柄」を考慮して、近代警察に相応し人材を町費・村費から「相応の給」を支出させるといいます。盗賊等を探索・捕亡する場合、正規に再雇用されていない「旧穢多・非人」が動員された場合にも「相応の給」の支出が考慮されたようです。

明治4年の太政官布告に対する、府県の対応を記した、「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・は、近世幕藩体制下の「司法・警察」である「穢多・非人」を、その職務から完全に解放したわけではなかったのです。

ある「旧穢多」は、地方行政(「府県」・「町村」)に再雇用され、近世と同じく、近代中央集権国家においても司法・警察として勤務していきました。また、ある「旧穢多」は、再雇用されることがなかった場合でも、必要に応じて「臨時」として一時的に司法・警察業務に従事させられていました。しかし、圧倒的多数の「旧穢多」は、司法・警察の「役務」から遠ざかっていきました。

明治4年の太政官布告以降の「旧穢多・非人」の多様な存在形式は、「旧百姓」(平民)の目から見ると、非常に分かりにくいものでした。当時の「旧百姓」は、「旧穢多・非人」を司法・警察である「非常民」とみなしていても、決して「賎民」とはみなしてはいなかった・・・と思うのです。

「旧穢多」と「旧百姓」の間の身分の上下を論ずる議論がありますが、身分を上げたり下げたりするという考え方」は明治4年の当時の状況からは考えられないことです。

『部落学序説』の「常民・非常民」論からすると、「旧穢多」と「旧百姓」の間には、「非常民」と「常民」という質的違いがあるのみであって、一直線上の「上」・「下」を論ずる発想は幕末・明治初期にはなかったと推定されます。

「非常民」と「常民」という質的に異なる2本の線をからめて、「旧穢多」と「旧百姓」の「上」・「下」を論じようとすると、『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久のように、突然と、「カースト的な身分思想」を持ち出して、論理的に妄説に身をゆだねてしまいます。

『部落学序説』も『明治維新と部落解放令』も政治起源説に立っているということではかなり共通している部分がありますが、『部落学序説』が、「常民」・「非常民」という研究上の作業用概念を導入していることで、『明治維新と部落解放令』とは大きな違いが生じています。

飾磨県(兵庫県)の明治4年12月の「告諭書」に、「前々ノ身分ノ程ヲ考ヘテ、少シモ重頭ナキ様、身分ヲ引下ゲ、万事ヒカヘメニ致セ。」という言葉は、石尾がいうように、「旧穢多」が「平民」に対してより一層「身分を引き下げて行動すべきである」というのではなく、司法・警察である「非常民」から、ただの「常民」になったのであるから、「非常民」のことばやふるまいを捨てて「平民同様」のことばやふるまいに努めなければならないという布告であったと考えられるのです。

京都府の「布告」に出てくる「従前の陋習」というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としてのことば使いやふるまいのことです。

「家職」については、「これまでの職業は即ち平民の職業につき、相改むるに及ばず、いよいよ以て盛大に相成り候よう出精致すべく候事」という布告が出されます。その「家職」の中に、「獣肉ヲ屠リ・・・」という言葉が見られる場合がありますが、それは、幕末期に外国人に対する牛肉提供のために設置された近代的食肉産業のそれで、近世には存在しなかった「家職」です。

大半の「武士」は、「平民の職業」に生きるすべをもっていなかったと思われますが、「穢多・非人」、「平民」以上に様々な「職業」に生きることができる知識と技術を、江戸時代300年間に渡って累積していっていたと思わされます。

「穢多・非人」のみ、一片の「解放令」とともに何の保証もなく、明治という近代の荒波のなかに放り出された・・・というのではなく、当時の日本国民の92パーセントを占める「平民同様」の施策がとられただけなのです。「旧穢多」が、「士族」の生活ばかりに目を向けて悲惨感をつのらせ、被差別の感情を累積してきたことは、やがて、近代的な部落差別を自らの上に招来する結果となりました。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であったことの「栄光」の時代を忘れることができず、「常民」化への道をたどることに優柔不断で緩慢であったことが、「旧穢多」の「一新」を遅らせる結果になったのではないかと推測されます。「旧穢多」は、近代中央集権国家によって、内政問題・外交問題の捨て石とされることによって、自らを近代化することに失敗させられていったのです。

その歪みは、今日にも受け継がれています。

被差別部落を「特別」の対象として、「特別」の対策事業を求め続ける背景には、明治4年の太政官布告が出された時代の歴史的状況が深く影響し続けているのではないかと筆者は想定します。部落解放運動は、「旧穢多」の末裔が、現代社会のヒエラルキーの階段を上に昇ることのみ汲々として、現代の社会的底辺を生きている貧困層からの「逆差別」という批判に耳を閉ざしてきました。学歴保証のみ追求して、学歴なきものの痛みや苦しみに目を向ける感性を持たないできました(学歴だけとは限りません)。

筆者は、部落解放運動は、特定の人間のために特定の利権追求の運動で終わってしまったと感じています。本来、人間解放に向かうべき部落解放運動を、きわめて矮小化した運動へと追いやったもの、『部落学序説』の筆者は、それは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」・「愚民論」のなせるわざであると思っています。

部落解放運動は、「部落解放」が何を意味するのか何も知らない、知ろうとしない、学者・研究者・教育者・政治家・ジャーナリスト・宗教家・・・等によって、無意味なものに変質され続けてきたのです。明治4年の太政官布告を曲解することで、歴史上、意味ある「人間解放」運動としての「部落解放」は、日本の歴史学の差別思想である「賎民史観」によって「瑕疵」のある不完全な運動におとしめられてきたのです。

次回から、明治4年の太政官布告に端を発する明治政府反対一揆(通称「解放令反対一揆」)に焦点をあてて論述していきます。 

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