2021/10/03

民衆の視角

民衆の視角


1月24日(火曜日)、NHKで「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組が放送されました。今回の主題は「世界を制した路地裏のパティシエ」で、洋菓子のパティシエ・杉野英実が主人公でした。

NHKのニュースに引き続いて、偶然この番組をみはじめたのですが、この番組をみながら、昔、宗教教師となったころ(25年前)のことを思い出しました。

私の最初の任地は、神奈川県横浜市の某団地の中にある教会でした。赴任した年、神奈川教区の執行部に呼び出されて何度も、なぜ宗教教師になるのか、「質問」というより「尋問」を受けました。最後は、教区総会で、なぜ宗教教師になるのか、総会議員全員の前で、所信表明をさせられました。

そのとき筆者が語ったのは、「私は、みなさんと違って、学歴も資格も持ち合わせていません。しかし、私は、皆様のように高度な知識と技術を持ったエンジニアのような存在にはなることはできませんが、「み言葉の職人」として、生涯をかけて聖書解釈に磨きをかける努力をしていきたいと思います。」という言葉でした。

そのとき、議場からヤジが聞こえてきたのを覚えています。「学歴も資格も持っていない人は、さすが言うことが違う・・・」。ほめられているのやら、けなされているのやら、はかりかねているうちに、私に対する「口頭試問」は終わってしまいました。

その後の、周囲の方々が私を見る目から判断すると、「ほめられた」のではなく「けなされた」ということを認識せざるを得ませんでした。

私は2年間で、神奈川教区をあとにしました。高学歴の牧師や信徒によって、「はじきだされた・・・」というのが大方の評価のようでした。都会の教会には、無学歴・無資格の牧師は相応しくない・・・というのが、私をとりまく精神世界のようでした。

山口の地に来てからも、私は、「み言葉の職人」になることをこころがけてきました。無学歴・無資格でも「職人」になることはできるでしょうから・・・。

私は「職人」という言葉がとても好きです。

この言葉が好きになった理由は、ある出会いにあります。私が、某商社に勤めていたとき、商社の近くに、ダルマ看板店がありました。勤めていた商社は、繊維機器関連のイタリア・ドイツの機器を扱っていましたが、時々、展示会をします。そのとき、経費節減のため、展示会用のディスプレイを私が作成していたのですが、そのとき必要な材料を分けてもらいに、そのダルマ看板店に出入りしていたのです。

あるとき、「レタリングの方法を教えていただけませんか・・・」とお願いしたことがあります。すると、ダルマ看板店のおじさんは、「教えることはできないけれど、ひまがあったら見にきていいよ」というのです。私は、勤務をはやく終えた日や土曜日に、ダルマ看板店を尋ねて、おじさんが看板を作成したり文字を書いたりしているのを見せてもらいました。

あるとき、ダルマ看板店のおじさんが、「アルバイトをしてみないか?」というのです。それは、垂れ幕に水性塗料で文字を書く仕事でした。私は、何度も何度も納得がいくまで下書きをして、それを原寸大に拡大することで5、6メートルの垂れ幕を書き上げました。

そのおじさんは、ときどき、アルバイトをさせてくれるようになりました。そんなある日、今度は、プラスチックの電照看板を作ってみないかというのです。私は、2級技能士訓練課程『広告美術科』の教科書を入手して、基本を頭に入れた上で、そのアルバイトを引き受けることにしました。そして、ダルマ看板店のおじさんが紹介してくれた注文主を尋ねたのです。

そこは、「バー」でした。注文主は、けばけばしい服装と化粧の女性でした。私は、高校3年生のとき、端典組合教会の宣教師から洗礼を受けてクリスチャンになっていましたから、「バー」・「飲み屋」に行くことなど、とても考えられませんでした。その「バー」に入ったとき、私は、「自分がくるべきところではない・・・」と思って、「仕事を引き受けることができない」と言って、断って帰ってきました。

その足で、ダルマ看板店に行くと、おじさんが、顔色を変えて詰め寄ってくるのです。「せっかく、仕事を紹介してあげたのに、どうして断って帰ってくるのだ。理由はなんだ!」。あまりにも激しい口調で言われるので、私は私の本当の気持ちを話しました。

すると、おじさんは、「職業に貴賤はないよ。飲み屋のおばさんやおねえさんの仕事だって、立派な仕事だよ。君は、商社の仕事が立派で飲み屋の仕事はそうでないと考えているようだけれど、それは間違いだ。」というのです。

そして、奥から一枚に地図を持ち出してきて、それを開いて私に見せながら、「この地図は何の地図かわかるか」というのです。

それは、そのおじさんが、戦争中に徴兵されて満州に動員されていたときの「作戦地図」だというのです。そして、「この戦争で、徴兵された人の中で、一番多く戦死者を出した職業は何だったか、分かるか・・・」というのです。

私は、「軍人・・・」と答えたのですが、そのおじさんは、「君のいう軍人というのは、職業軍人のことだろう。職業軍人は、そんなにたくさん死んではいない。死ぬのは、前線に送り込まれたただの兵隊ばかりだ。その兵隊の中で、どの職業の人が一番死ぬ確率が高かったのか聞いてるんだ・・・」というのです。

ダルマ看板店のおじさんは、私と同じで、小柄な人だったのですが、私の目にはだんだん大きく映ってきます。

そのおじさんの話では、かつての戦争の中で、一番戦死者を多く出した職業は「看板屋」だったというのです。その理由を話してくれました。

日本軍が中国の町や村を襲撃して支配に置くと、その町や村の建物に、その町や村が日本の占領下に入ったことをペンキで書いていったというのです。銃を持った数人の兵隊に守られながら、建物の壁に日本の占領地であることをペンキで書いていったというのです。それは、中国の人々にとってはこの上ない屈辱であったというのです。そのため、建物の壁に占領地であることをペンキで書いている「看板屋」の背中をめがけて、中国の人々が発砲してきて、たくさんの「看板屋」がその鉄砲の玉でいのちを落としたというのです。あの戦争で一番戦死者を出したのはペンキと筆を持った「看板屋」で、勲章を胸に付けた職業軍人ではない・・・というのです。

そのおじさんは、「その時代のことを考えると、飲み屋のおばさんのために看板を作るのに何の問題があるのか・・・」と筆者に突き詰めて問うてくるのです。

そのおじさんが見せてくれた「作戦地図」には、いたるところに十字のマークがついていました。「このしるしは何ですか・・・」と尋ねると、「君が信じている教会があった場所だ」というのです。日本軍は、中国の町や村にある教会を、軍事行動をとるときのひとつの指標にしていたのです。

ダルマ看板店のおじさんは、父親が息子を叱るときのように、私を叱りつけました。そして、何度も何度も、「職業に貴賤はない・・・」と繰り返しました。

そのとき、私は、宣教師から教えられた、宗教改革者のマルチン・ルターが「職業」を「召命」と呼んだ意味を思い出していました。この世の中のどの職業も、神によって召された職業であって、職業の如何によって人を差別することはよくない・・・と、そのとき心の底から認識したのです。

人生の中で、ひとは、いろいろなひとに出会います。私も、いままでいろいろなひとに出会いましたが、私の生き方やものの見方、考えた方を根底から変えてくれた出会いというのは、それほど多くはありません。ダルマ看板店のおじさんとの出会いは、私にとってはかけがえのない出会いになったのです。上へ上へと垂直的に昇ることではなく、もっと広い視野でホリゾンタルにこの世を見ていく大切さを知らされたのです。

そのとき、「職人」という名の人々の「素晴らしさ」を発見したのです。

無学歴・無資格である私が、無学歴・無資格を棄てて、上へ上へと上昇指向でやがて学歴や資格をとって、とったあとは無学歴・無資格の人々を見下しながら傲慢な生き方をする・・・そんな、人生の選択をそのとき、私は棄ててしまったのです。無学歴・無資格のまま生きて、「職人」として生き続けよう・・・、と。

私は、結局、27歳のとき、宗教家になる道を選択しましたが、生き方の本質は、「技術者」のそれではなく「職人」のそれであると思っています。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、洋菓子のパティシエ・杉野英実の映像を見ながら、ダルマ看板店のおじさんの話を聞いたときのように、パティシエ・杉野英実の言葉に耳を傾けました。

私はビデオ装置をもっていませんから、番組をみるときは、いつも紙と鉛筆を横において、こころに残った言葉は書き残すようにしています。流れるようにあらわれては消えていく字幕の文字を正確に書きとどめることは至難のわざです。見間違い・読み間違いがあるとは思うのですが、パティシエ・杉野英実はこのように話していました。

自分の師として仰ぐことができると思われたパリの洋菓子店にやっと弟子入りすることがかなったとき、杉野英実はある意味がっかりします。そこで使用されている材料はどこでも手に入るありふれた材料であったし、料理法は、料理専門学校で教えている方法とまったく同じであったというのです。それなのに、完成された洋菓子には独特な香りと味があります。それはどこからくるのか・・・。その秘密は、「全数検査」(杉野英実の話を聞いた瞬間その内容が私の頭の中でこの言葉に置き換わってしまったので、もとの言葉が何だったのか思い出せません)して、規格外をすべてはずして商品にしないことと、基本的な料理法に徹し手抜きをしないということにあると気付いたというのです。

あたりまえを
積み重ねると
特別になる。

というパティシエ・杉野英実の言葉に深い共感を覚えました。

パティシエ・杉野英実流の「職人の発想法」は、「記憶を組み合わせて新しいものを生み出す」ところに、その特徴があります。人生の中で身につけたさまざまな「記憶」(学習内容)を思い起こしながら、それをいろいろ組み合わせることで、新しいもの作り出すことができる・・・。パティシエ・杉野英実の言葉は、「地域の歴史を知るためには、そこの歴史をすみずみまで明らかにしてくれた書物がなくても、バラバラの経験を整理する頭と、努力さへあればよいのである。その頭の根本は、大きくは物事を合理的に考えることであり、さらにその根本は素直に物事をみ、素直に整理していくことにある。・・・」という、『地方史研究法』の著者・古島敏雄の言葉と同じ響きがあります。

パティシエ・杉野英実は、「あたりまえ」を貫くことの大切さを訴えていました。杉野は、「発想が行き詰まったとき、答えは現場にある」といいます。

また、「プロフェッショナル」というのは「永遠の未完成」のことであるというのです。「今日よりも明日、明日よりも・・・自分をもっと高めていかなければならない」というのです。

『部落学序説』の筆者である私は、徳山市立図書館の郷土史料室の資料と筆者の所有している市販の若干の書籍・雑誌という、誰でも入手可能な一般書を材料に、それを組み合わせ「非常民の学」として再構築する営みを続けていますが、筆者の営みは、学者・研究者・技術者のそれではなく、「職人」のそれであると思うのです。

パティシエ・杉野英実は、「満足したら進歩はしない」といいます。パティシエ・杉野英実にとって、「職人」とは、永遠に学びつつ進歩し続けるひとのことです。

『部落学序説-非常民の学としての部落学構築を目指して』は、無学歴・無資格の筆者の手になるものですが、「職人」のいとなみとして、これからも磨きをかけ続けなければ・・・と思っています。

たかが素人学、されど素人学・・・。

学者・研究者・教育者が持つことができない「民衆」の目から、また「旧百姓」の目から見た明治4年の太政官布告を検証していきたいと思います。 

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