2021/10/01

弾直記と明治維新 1.近代歴史学の呪縛

弾直記と明治維新 1.近代歴史学の呪縛

『部落学序説』の方法は、繰り返し述べてきましたが、「歴史学」に還元することができる類のものではありません。

『部落学』は、「非常民」の学として、「常民」の学である「民俗学」の研究方法にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学を基礎科目とし、また、民俗学・政治学・法学・人類文化学・国際関係学等を補助科目として遂行される、学際的研究です。

それらの個別科学研究に共通している要素は、「実証」に関する学で、文献資料だけでなく、伝承資料をも研究の対象にします。

ただ、『部落学』は、歴史学を主要科目とするため、当然のことながら、歴史学の基本的な研究方法を尊重せざるをえません。

論文《中国の歴史思想》(『講座哲学大系第4巻歴史理論と歴史哲学』)の著者・宮崎市定は、「歴史を如何に理解すべきかという問題は、歴史学の専門家と非専門家とではその受け取り方がちがう。というのは一般の人にとっては歴史的事実は始めからそこにあった自明なものとしてそれをどう理解するかだけが問題なのであるが、歴史の専門家にとってはそうはいかない。歴史学者にあっては先ず自分で史料から歴史事実を汲み取り、造りあげることからとりかからねばならぬのである。」といいます。

学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者にとっては、「歴史学とは何か」という歴史哲学の根本的な問いについて、明快な説明を施すことはできません。よって、宮崎市定のような、民衆に歴史学が何であるのかを明快に説明してくれる歴史学者の方法を踏襲せざるをえません。

宮崎は、歴史学における問題として、「史料の問題」・「理解の問題」・「評価の問題」・「表現の問題」をとりあげ、歴史学の初心者が直面する問題について、単純明解に説明してくれます。ある種の歴史学者が、その研究方法を「象牙の塔」の中に閉じ込め、民衆からそれを隠してしまうのと違って、宮崎のような学者は、これから歴史を学ぼうとする、あるいは研究しようとする人々にとって偉大な教育者の感があります。

宮崎は、「尤もここにいう専門家とは何も大学の史学科の先生だけを指すのではない。常に史料まで遡る用意のある研究家は立派な専門家である。もし、その用意がなければ、たといどんなに博学の物知りであっても、それは決して歴史の専門家とはいえない。」といいます。

『部落学』においても、それが、実証の学であるかぎり、歴史資料の取扱いにおいては、歴史学の専門家と同じ程度の、それを凌駕してなくも肉薄することができる程度の「歴史学」に関する理解が必要になります。

宮崎によると、「唐の劉知幾は歴史家に必要な三つの資格を数えて、学・識・才であるとした。章学誠の解釈するところによれば、学というのは博学のことで広く史料に通じている薀蓄であり、識とは見識のことで深い理解と正確な評価を下すことのできる洞察力であり、才とは文才のことで言わんとするところを十分に叙述することのできる表現力のことだという。」といいます。

学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者にとっては、宮崎が指摘する「学」・「識」・「才」のいずれの点においても乏しく、到底、「研究者」の認識を満足させるものではないでしょう。

『部落学序説』において、歴史学を基礎科目・主要科目のひとつに数え、実証史的研究に重きを置くからといって、筆者は、皇国史観や唯物史観を否定したあとに、実証史学を「神棚」にまつりあげてそれに拝跪するわけではありません。

近代歴史学の創始者、レオポルド・フォン・ランケは、「史料をして語らしめる」と語りましたが、歴史資料のみに重点を置きすぎると、歴史の真実にたどりつくことができない場合も多々あります。

《文化人類学と歴史学》の著者・横田健一によると、ランケの実証史学は「徹底した文献史料の博捜と厳密な考証の上に立って歴史記述は構成されるようになり、それ以前の文学的史学は払拭された。しかし、その記述をみると、あくまで政治史、外交史、軍事史ないし政治的宗教史で、主役は国王、貴族、政治家、外交官、軍人、法王その他上層僧侶であり、庶民は問題とならず、いわば支配者の歴史であった」という批判を免れなかったといいます。

この『部落学序説』は、その視座・視角・視点を、支配者ではなく非支配者、武士ではなく百姓に、官ではなく民に置くということは、繰り返しのべてきましたが、先祖伝来、由緒正しき百姓の末裔でしかない筆者にとって、歴史を見る視座・視角・視点は、当然、支配者・武士・非常民の立場ではなく、まったく反対の側、非支配者・百姓・常民の立場ということになります。

鹿野政直著『日本近代化の思想』(講談社学術文庫)・『近代日本の民間学』(岩波新書)の影響も少なからぬものがあります。鹿野は、「大方の歴史書は既成の事実についてのみかたり、可能性については口をとざすをつねとする」と指摘します。

『歴史認識』(岩波・日本近代思想大系)の解説者のひとり・宮地正人は、その論文《幕末・明治前期における歴史認識の構造》の中で、「久米事件と近代日本史学の挫折」をとりあげています。

明治初期の歴史学者・実証史学者である久米邦武に対する批判は、熾烈なものがあります。「国体史観」を支持する歴史学者や教育者は、久米論文を批判・攻撃しますが、久米に対する批判を、宮地は、次のように総括します。

「その第一は、国家の大事・・・に関することは、「臣民たる者の当に之を口にし之を筆にすべからざる」ことなのであり、歴史学者もその例外ではない。」

「第二は、歴史学者の本文は、国体尊厳の要素を発揚して臣民報国の心を厚からしめ、忠臣孝子の偉業を証明して奉上事君の道を正すことである。」

「第四は、史料考証と実証においては、「化令事真なるも、苟も君国に害ありて利なきものは」講究すべきではない。」

「第五は、歴史教育の目的は、国家の欲する将来の国民を鋳造するところにあり、歴史教科書は鋳造するものの「模型」なのである。」

明治初期の、久米実証史学に投げかけられた批難・中傷は、その後、長く日本の歴史学に影響を与えたと考えています。戦前だけでなく、戦後においても・・・。

明治24年(1891)「緊急命令第46号」が公布され、「国家の大事」に抵触する歴史研究に対する「検閲」という規制・統制が加えられると同時に、法的抑圧手段としての「罰則」が設けられたのです。

明治初期の歴史学論争の中で、「旧穢多」の問題は、「緊急命令第46号」に抵触しない範囲で、研究内容が限定されてしまいます。その呪縛は、戦後60年を経過した今日にあっても、歴史学者および歴史教育者の暗黙の前提として、意識せざるもその則を越えない状況がみられると筆者は考えています。

「歴史解釈」に瑕疵があることが前提とされるからこそ、学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者も、『部落学序説』執筆に際しては、歴史資料を自分の目で確かめ自分の視座・視角・視点で解釈せざるを得ないのです。

ゲーテのいうバッタのように、天に向かって飛び立ちたいと願いながら、またぞろ、泥沼の中に鼻を突っ込んでしまうような状態はさけたいと思います。通俗的実証主義からも離脱して、非常民の学としての部落学という学際的研究を続けていきたいと思います。

『部落学序説』の主題を、近世から近現代へ移すにあたって、筆者は、自由な発想から、「弾直記と東岡山治」の両者の比較研究をとりあげます。部落差別問題において、近世から近現代へ移行が如何にねじれに満ちたものであるかを明らかにします。

弾直記については説明の必要はないと思いますが、東岡山治は、『盥の水を箸で廻せ』(中川書店)の著者です。その著書によると、東岡山治は、「被差別部落の生まれで、幼いときからたくさんの差別をうけてきた」といいます。「日本の差別社会をこわすことが私の使命」とする東岡は、33年間15兆円の同和対策事業・同和教育事業が終了したあとも、部落解放運動から撤退することなく、「誇りと自信」を持って、その取り組みを続けているお方のようです。インターネットで見る限り、一般の学者・教育者と同列に置くことはできないかとおもわれましたので、このブログで批判することについて、電話で、東岡山治本人の了解を得ました。

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