2021/10/01

弾直記と明治維新 2.弾直記と明治維新-無念の死

弾直記と明治維新 2.弾直記と明治維新-無念の死


『部落学序説』は、実証の学であるから、その基礎科目・補助科目に文学を含んでいません。

しかし、それは、文学を軽視するという意味ではありません。島崎藤村は、『破戒』や『夜明け前』を執筆するときに、個人を描くことで、個人が生きた歴史そのものを描く手法、自然主義文学の手法を用いています。

筆者は、「弾直記」や「東岡山治」という個人を描くことで、「弾直記」が生きた近世から近代への「回天」・「御一新」の時代、「東岡山治」が生きた現代という時代の全体像を描くことができるのではないかと淡い期待を抱いていますが、それは、島崎藤村の文学手法から受けた影響によります。

すべてのひとは、生まれそして死んでいきます。旧約聖書の『創世記』をひもとくと、そこには「・・・を生んで、生きて、死んだ」という定型化された記述があります。ひとは、すべて、生まれて死んでいきます。それぞれのひとが、死ぬとき、どのようにして死んだのか、筆者も大いに関心を持つところです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」・「穢多」の総帥として、名前を馳せたのは、歴代の弾左衞門です。幕末最後の弾左衞門を襲名した、摂津の国住吉村の寺田利左衞門の長男として生まれた寺田小太郎は、15歳のとき、浅草弾左衞門の養子となります。

第二次長州征伐のときの功績を認められ、その「家職」の制限が緩和されます。浅草弾左衞門は、「穢多」の「家職」の他に、「農・工・商」の「家職」をも営むことが認められるのです。そして、その名前も、「弾左衞門」から「弾内記」とあらためられます。最後の13代弾左衞門は、「弾内記」として、近世から近代への時代の変動期を駆け抜けていきます。

第二次長州征伐のときは、幕府側にたって奮戦し、その功績を認められた弾左衞門ですが、彼は、新しく成立した明治政府から「市制裁判所付属を命じられ、旧幕時代の権限をそのまま認められる」(沖浦和光)といわれています。「弾内記」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の総帥としての身分(役務と家職)をそのまま、明治にはいってからも継承することを許されるのです。しかし、「弾内記」は、明治4年の太政官布告によって、その身分(役務と家職)を失ってしまいます。

「弾内記」は、明治3年12月に、内記あらため直樹と改名したといわれます。その年、「弾直樹」は、「造兵司から皮革・軍靴製造等の命を受け」(同)、近世から近代への時代の変革時、その流れにうまく身を棹させたかのように見えます。

その弾直樹は、どのように、死んでいったのか・・・。

筆者は、弾左衞門については、まだ未研究のテーマなので、十分な史料や資料を収集していません。手持ちの資料に基づいて、あえて、その死について言及すると、次のような、歴史学者による、異なる見解に遭遇します。

「喜びながら逝去した・・・」(秋定嘉和『部落解放史 中巻』)
「失意のうちに死亡した・・・」(沖浦和光 『水平人の世に光あれ』)

今日の歴史学者、著名な部落史研究者は、弾直樹の死について、相反する歴史解釈をしているのです。最後の弾左衞門は、「喜びながら逝去した・・・」のか、それとも、「失意のうちに逝去した・・・」のか、筆者の手元には、それを確かめ、十分な論評をするための資料や論文がありません。

この『部落学序説』をブログ上で書きはじめるときに、執筆途中で、新たな問題に遭遇しても、それはのちの課題として、とりあえず、手持ちの史料や資料で書きあげるという方針を立てていましたので、弾直樹の死の評価については、「浅学」であるとの批判を甘受することとして、筆者なりの見解をのべたいと思います。

部落解放同盟の関係者の方から、事典には、「弾内記」と「弾直樹」は載っているが、「弾直記」は見当たらない、なにかの間違いではないか、という指摘をうけました。残念ながら、筆者の手持ちの資料では、間違いであるかどうか、確認することはできません。13代弾左衞門の幕末期の名前は「弾内記」、明治に入ってからの名前は「弾直樹」、その、近世と近代の名前の両方をとって、「弾直記」と呼んでも不思議ではありません。むしろ、この論文のイメージにぴったりします。

実は、「弾直記」という名前は、沖浦和光が編集した部落史に関する資料集『水平人の世に光あれ』(社会評論社)に出てきます。幕末最後の弾左衞門・「弾内記」が、東京府宛に提出した「賤称除去願」(沖浦和光の解釈)の表題が、「弾直記願」なのです。

「弾左衞門」(役職名)、「弾内記」(役職名)、「弾直記」(役職名の個人名化)、「弾直樹」(個人名)、1868年から1870年の2、3年の間に、目まぐるしく改名されていった13代弾左衞門の姿を想像すると、そこには、「零落」するものの姿があります。

東京府が明治政府に出した上申書に、「今皇国普天の下において、穢多非人の称号は不都合とも存ぜられ、かたがた専らご体裁に関係候筋につき・・・」、「醜名除去差し許されたき」旨記されています。

筆者は、東京府のいう、「穢多非人の称号は不都合」・「ご体裁に関係候筋」は、明治政府が直面した外交上の問題と深いつながりがあると解釈しています。「体裁」というのは、誰を慮ってのことなのかといいますと、欧米諸国のことではないかと考えます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」という役名をそのまま用いることは、欧米諸国から誤解を受け、その結果、日本国家、あるいは、明治新政府の崩壊につながる要因ともなっていたため、東京府は明治政府に速やかにその役名の改正を求めたのでしょう。

『弾直記願』を分析することで、弾直記が、近世から近代へ、どのように時代の波を乗り越えていこうとしたのか、その心中を察することができると思います。

弾直記の上申書は、「不肖賤劣の身を顧みず、尊厳を涜冒したてまつるの儀、恐懼至極に御座候」ではじまります。

弾直記がいう「不肖賤劣の身」という表現は、弾直記の謙遜からくる、単なる敬語表現であると考えられます。弾左衞門みずから、「不肖賤劣の身」と言っているのだから、弾左衞門をはじめとする穢多は、その本質において「賤・劣」であったとする部落史研究者や教育者に遭遇しますが、それは、まったくの曲解といえます。「謙譲表現」を使っているから、その人の本質は「賤・劣」であると断定するのは、少なくとも学識や良識のあるひとに相応しくありません。

弾直記は、弾左衞門としてのルーツを尋ねて、「鎌倉右大将」(源頼朝)による、司法・警察である「非常民」としての「御取建(おとりたて)」を取り上げ、父祖から受け継いだ伝承を披露します。「関八州長吏・・・支配」の委任を受け、「諸皮革」(家職)と「刑獄取扱御用」(役務)に従事してきたといいます。幕末期にあっては、弾左衞門支配下にあるのは、「長吏・非人・猿引・乞胸・ササラ」の「五職」のみで、「五職」でもって、司法・警察である「非常民」としての職務に従事してきたといいます。

しかし、「御大政復古」に際しては、「鄙賤るぎ」(身分がいやしくて虫けらのようなものという意味)でしかない弾左衞門に対しても、「至仁の聖恩」を示され、「前職旧の如く取締向御委任仰せ付けられ候」といいます。

近世幕藩体制下の司法・警察として「非常民」の職務を担ってきた「穢多」に対しては、「天皇」は、その功績を評価して、王政復古後の新政府においても、同じ「非常民」としての職務を与えられたということに対して、弾左衞門は、「厚生の天恩と偏に有り難く」感じて、どのようにしたら、この「天恩」に報いることができるのか、「日夜痛心」したというのです。

弾左衞門は、司法・警察である「非常民」としての「五職の道を購究し、一廉の御奉公」に励みたいというのです。

そして、幕藩体制から明治新体制に移行した今、「諸国に散在」する「穢多」を、新政府が指向している中央集権国家の司法・警察に相応しく、全国組織として改変し、その「規則」も全国共通のものにしたいと、弾左衞門の描く「青写真」を述べるのです。

弾左衞門は、「長吏・非人」は、近世幕藩体制下においては、「獄屋番御用」・「刑者取扱」・「諸獣物皮革類」に従事してきたといいます。しかし、弾左衞門は、「その根底を研究つかまつり候えば、刑法囚獄に携わり候御用向は軽からざる事」であるといいます。弾左衞門の言葉には、「穢多」にとって、司法・警察としての「役務」は、その「家職」である皮革と比べて、より重要なことがらであるという響きがあります。

しかし、弾左衞門は、皮革は、軍需品としての「国家の器用」に資するものであり、また、同時に、司法・警察である「非常民」が、その職務を遂行するための経済的基盤を構成するものであり、明治新政府においても、「穢多」の「家職」として、皮革に関する「職業」を認めてほしいと訴えるのです。

弾左衞門は、「さすれば右長吏どもの内にて篤実勉励の者、人撰し除名相願い、右を目的に責励致させ、自然遜謙・自責相互に誡め合い、諸御用向大切に相勤めさせ・・・」るというのです。

そのために、弾左衞門は、「御国内一般に右醜名御除去成し下し置かせられ候よう、地に伏して懇願たてまつり候」と綴り、明治政府に金五百両の税金を自主的に納付するむね約束して、「誠恐誠惶、頓首百拝」で「賤称除去願」を結びます。

この13代弾左衞門・弾直記の文章から、何を知ることができるのでしょう。

『部落学序説』において、これまで究明してきたことをあわせ考えると、次のように言えるのではないかと思います。

①明治政府は、初期の段階で、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」を、明治新政府下の司法・警察として採用する意志を持っていた。
②弾左衞門は、中世・近世という時代の波を越えて、司法・警察である「非常民」として、自信と誇りを持って生きてきた。近世から近代への移行期においても、「非常民」として、その職務に仕える意志を持っていた。
③弾左衞門は、「家職」(皮革)よりも、「役務」(司法・警察としての非常民の職務)に、「穢多」の本分があると思っていた。
④弾左衞門は、「穢多」の「役務」・「家職」は、「常民」の目かみれば「賤業」と映るかもしれないが、「穢多」は、そのことを誇りに思いこそすれ、手放す意志は持っていない。
⑤弾左衞門は、明治新政府の下での、新しい時代の、司法・警察である「非常民」であるために、「穢多」という「醜名」が除去され、別な名前が付与されることを望んでいた。
⑥弾左衞門は、「昨日、非常民であった」、「今日も非常民である」、「明日も非常民であり続けたい」・・・、という、明確なアイデンティティを持っていた。

『部落学序説』第1章~3章で論じてきた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の姿と、弾直記の「賤称除去願」に示される「穢多」の姿は、ほとんど一致していると思われます。

しかし、時代の潮流の中で、あがらうすべもなく、弾直記の描いた、近代の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の末裔としての姿は、単なる青写真で終ってしまいます。明治政府が直面した外交上の深刻な問題の故に、弾直記の夢は露と消えてしまったのです。

弾直記は、「喜びながら逝去した・・・」のか、「失意のうちに死亡した・・・」のか、筆者は、沖浦和光の説がより真実に近いのではないかと思います。沖浦はこのようにいいます。「1871年(明治4)8月、賤民制度の廃止によってこれまでの関八州の穢多頭としての支配権をすべて解除された。軍靴を中心に皮革加工等の事業を経営していたが、大資本の進出によって大きな打撃を受けて倒産、失意のうちに死亡した」。過ぎし歴史のかなたから、弾左衞門・弾直記の無念さが聞こえてくるようです。

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