2021/10/02

「賤民史観」と遊女7 見よ、しえたげられる者の涙を

「賤民史観」と遊女7 見よ、しえたげられる者の涙を

『部落学序説』を書きはじめてから1年4カ月が経過しました。

執筆計画では、原稿用紙300枚程度にまとめる予定でしたが、今となっては、この執筆計画は完全に失敗であったと認めざるを得ません。

今日現在で、原稿用紙2700枚を超えているのですから、大幅超過です。

原稿用紙300枚というのは新書版1冊分の原稿量ですから、原稿用紙2700枚は新書版9冊分に該当します。こんな長文、誰も読まないのではないか・・・、という不安がわいてくるほど、長くなってしまいました。

昔、「下手な文章ほど長くなる・・・」ということばを見たことがありますが、『部落学序説』は、まさにその典型です。文章が下手であるだけでなく、執筆内容も洗練されていない粗雑なものが多いことは、すなおに認めざるを得ません。

これだけ、長文の文章をかきますと、どこかで、矛盾が発生するのが常です。

しかし、さいわいなことに、執筆のために大幅な時間を費やしているにもかかわらず、論理・内容ともに、致命的な矛盾は来していないようです。

『部落学序説』を書きはじめてから今日まで、その執筆者である筆者の変わらざる「視線」があります。

その「視線」を学んだのは、ある法学書に接したことに端を発します。その法学書というのは、ラートブルフ著『法学入門』です。『法学入門』の中表紙のウラに、このようなことばが記されていました。

見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しえたげる者の手には権力がある。

このことばは、『旧約聖書』の「伝道の書」第4章1節のことばです。

ドイツのルーテル教会の敬虔な信者である法学者・ラートブルフによって、聖書という岩の一部が切り出されるとき、切り出されたその聖書のことばは、法学者・ラートブルフの座右の銘としての響きをもって筆者に迫ってきました。

この聖書のことばは、私の内側から私を変えていく力となったのです。

この聖書のことばは、法学者・ラートブルフの、法学者としての視線(まなざし)がなんであるかを語ったものです。「視線」というのは目の動きのことです。ラートブルフが、社会の底辺で苦しむ民に目を向けるとき、その目はどのように動いているのか・・・。

ラートブルフによって、その著・『法学入門』に記された聖書のことばは、「見よ、しえたげられる者の涙を。」というよびかけのことばではじまっています。「見よ!」と語りかけることばは、私の視線を、「しえたげられる者の涙」に向かわせます。

法学の学徒は、なによりもまず、「しえたげられる者の涙」の意味を知らなければならない。スイスの哲学者アミエルは、人間の涙は、インドの妙薬の数ほどある・・・、といいましたが、「しえたげられる者の涙」は、私達の想像を絶するほどの意味があるといいます。法学の学徒は、少なくともその意味をたずねもとめるものでなければならないというのです。

「しえたげられる者」は、常に社会から孤立させられます。疎外され排除されます。そこには、「彼らを慰める者はない。・・・」という悲惨な現実があります。誰ひとり、その涙の意味をたずねもとめるものはいない。法学の学徒は、せめて、その意味をたずねもとめるものでなくてはならない・・・。

なぜ、彼らは慰められることはないのか・・・?

ラートブルフは、「見よ、しえたげられる者の涙を」と語ったあと、法学の学徒の目を「しえたげる者」に向かわせるのです。そして、彼らの手を見よ、といいます。

法学者・ラートブルフは、法学の学徒に、このように語りかけます。

「しえたげる者の手には権力がある」。

『旧約聖書』の「伝道の書」第4章1節のことばは、法学者・ラートブルフの、法学者としての生き方を示唆するとともに、法学者・ラートブルフが、その学徒にすすめた、法学者としての生き方をも指し示しているのです。

現役の法学者が、その学生に、このようなことばを語りかけることは、決して、ありふれたことではないのです。なぜなら、多くの法学者は、この『旧約聖書』の「伝道の書」第4章1節のことばと、まったく逆なことを教え、またその学生は、それを学ぶのが常だからです。

法学者・ラートブルフは、地面にひれ伏し泣く、「しえたげられる者の涙」をまず見て、そのあと、なぜ、彼らがしえたげられ涙をながさなければならないのか、その涙の意味を知るために、彼らの上に立ちふさがる「しえたげる者」を見よ、というのです。この目の動き、それが、法学の学徒としての視線であり、まなざしでなければならないというのです。

しかし、多くの法学者は、そのようには教えません。まったく逆のことを教えているのです。

「まず、権力を見よ。権力の意志を慮ったのち、その権力によってしえたげられる者を見よ。」と教えるのです。そのような法学者や法学の学徒は、権力の「しえたげられる者」に対する視線をもって、その「しえたげられる者」を見るようになるのです。そのとき、彼らの目に映る「しえたげられる者」の姿は、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在としてその眼底に映るようになります。

「しえたげられる者の涙」は、その敗北と屈従の涙以外のなにものでもなくなります。

まず、権力を仰いで、その下で、苦しむ、「しえたげられる者」を見るとき、その「しえたげられる者」は、限りなく、「賤しい」民に見えてきます。

法学者、あるいは、法学の学徒の前には、2つの視線(まなざし)があるのです。そのいずれの視線(まなざし)をもって、世の中に出ていくのか・・・。『法学入門』の著者・ラートブルフは、その読者に二者択一を迫ってくるのではないかと思います。権力の彼岸に立つか、此岸に立つか・・・。

法学者・ラートブルフによって、『旧約聖書』という岩から切り出されたこのことばは、強烈な衝撃を私に与えました。

若かりし日、私は、ラートブルフの『法学入門』を通して、「相対主義」ということばを学びました。法的「相対主義」といってもいいかもしれません。「法」は、どのような「法」も相対的な位置しか持つことができないのです。

ラートブルフは、「相対主義」を唱える背後に、絶対的な存在(「しえたげられる者の涙」の原因が、「しえたげる者の手」にある「権力」であることを天にあってご覧になっておられる神)を確信していたのだと思います。時間と空間を超えて存在する神の臨在を信じていたからこそ、すべての法を「相対主義的」に考察できたのだと思います。

『部落学序説』のかきおろしをはじめてから今日まで、筆者のかわらざる視線(まなざし)は、ラートブルフが、『旧約聖書』から切り出した「伝道の書」第4章1節のことばに記された視線(まなざし)です。筆者は、この視線(まなざし)を棄てたり、この視線(まなざし)から離れたりすることは今後もありません。筆者は、昨日・今日・明日と、この視線(まなざし)を終生もち続けることになります。

筆者の無学歴・無資格のなせるわざか、他のひとがわずか数行で書き切ることを、筆者は、多くのことばを積み重ねなければなりません。




「自分一人だけが助かるよりも滅びてしまう方がいい。自分が正しいと思う考えを人に分かたずに自分だけ正しくしようと思うのは人類に害を及ぼすことになる」(『アミエルの日記(四)』(岩波文庫全8巻))。

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