2021/10/02

教育・言語・差別 その1

教育・言語・差別 その1


筆者は、明治新政府の教育行政に関して、ほとんど資料らしい資料を持ち合わせていません。

既に入手しているごくわずかな史料や研究論文の精読・解析によって、この論文を執筆していますが、なかなか困難がともないます。

筆者は、無学歴・無資格であるがゆえに、自己の能力については十分認識しています。無学歴・無資格に相応した学力しか持ち合わせていないことは、他者からの指摘をまたず、認めざるを得ません。しかし、筆者は、従来の部落史研究者の研究事例を前に、「ほんとうにそうなのだろうか・・・」、といつも疑問の思いを持ってしまいます。

前項で紹介した内藤素行は、伊予・松山藩の「穢多」について、近世幕藩体制下において「穢多と平民を区別する事はこれ我国一般の風習であります。」といいますが、「朝廷に於いて同等に取扱へといふ御沙汰」が出た以上は、「穢多と平民を区別する」ことなく、同じ「平民」として教育を受けさせようとするのです。

しかし、なかなか両者がお互いを受け入れる状態には達しません。その理由として、筆者は、近世幕藩体制下の数百年間に渡る両者の関係の葛藤があるように思います。すでに、繰り返し述べてきた通りですが、「旧穢多」は「非常・民」であり、「旧百姓」は、庄屋等の村方役人をのぞいてそのほとんどは「常・民」でしかありません。明治になってからも、「旧穢多」と「旧百姓」との間の関係は継続していたのですから、一片の布告(「穢多非人等ノ称廃止」の布告)が出されたとしても、両者の関係はおいそれとは改定することはできませんでした。

その理由は、明治政府が、近世幕藩体制下の司法・警察機構の解体に際してとった、政策のあいまいさに原因があります。明治4年の布告によって、近世幕藩体制下の「旧穢多」身分が完全に、近代中央集権国家の「新平民」に移行することができていたとしたら、「旧穢多」は「非常・民」から解放され、「新平民」・「平民」としての天下の道をまっすぐに歩むことができたことでしょう。しかし、明治政府は、「試験」を実施し、優秀な者には、近代中央集権国家の「非常・民」として、その職務を継続する余地を残していたのです。正規の「警察官」になることができなかった「旧穢多」は、「警察の手下」として「探偵」に従事することになったのです。当時の「探偵」は、現代警察の「私服刑事」のようなものですが、彼らの職務は、「密偵」として、人の秘密をあきらかにすることによって、その報酬を得るというところが、人民の間で問題視されていきます。当時の「警察権」を背景に「悪辣」な「犬」として社会的批判をあびることも度々ありました。

明治13年発行の『司法省蔵版・全国民事慣例類集』は、あまり史料として採用されているのをみかけません。筆者の推測では、『全国民事慣例類集』は、近世と近代とが意図的に併存させられているからです。どの箇所が近世で、どの部分が近代なのか容易に判定し難いからです。

しかし、『部落学序説』の命題を踏まえると、渾然とした状態から、近代の「穢多村」の近代的情報を入手することが可能になります。

「専ラ官ノ警察ノ手先ヲ為ス」
「専ラ警察探偵ノ事ヲ任ス」
「番非人ハ村々ニ居住セシメ捕盗警察ヲ業トシ・・・」
「番非人ハ民間捕盗警察ヲ為シ・・・」
「穢多ノ宗門改ニハ村役場ニ呼ビ爪印セシム」
「穢多・非人ノ戸籍ハ・・・役場ニ於テ関係スル事ナシ。」
「非人ハ専ラ官ノ警察ノ手先ヲ職トスル・・・\
「穢多ハ別ニ宗門改ヲ為シ近傍村役場ノ管轄ニ属ス。」
「穢多ハ長吏ト唱ヘ・・・警察ノ手先ヲ為ス」
警察ノ手先ヲ為シ些少ノ給料ヲ受ケ・・・」

『全国民事慣例類集』のこれらの表現は、従来の部落史研究においてはあまり重要視されてこなかったものです。「警察」という概念は、明治以降において使用されるようになった言葉ですが、調査にあたった明治政府の「司法省」及び「地方官」の間では、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、近代「警察」と同等の存在として認識されていたように思われます。と、同時に、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告のあとも、近代警察の「探偵」・「手先」として、近代警察システムの中に組み込まれていたことを示しています。

「旧平民」(旧百姓)の目からみると、確かに、「穢多・非人」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告によって、近世的身分から、他の「士・農・工・商」身分と同じように解放されているけれども、その一部は、近世に引き続き「非常・民」として、従前の警察業務に関与しているので、「旧平民」の間からは、「旧穢多」を「非常・民」として、引き続き警戒する雰囲気があったように思われます。

近世幕藩体制下の「穢多」は、明治4年以降、「旧平民」の「外」にではなくて、「旧平民」の「内」に存在するようになったのです。「旧平民」は、近世幕藩体制下において「安寧警察」・「宗教警察」であった「旧穢多」に対して、警戒の思いをもち続けたのではないかと思います。

筆者は、「旧穢多」・「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が芽生えだすのは、明治30年代に入ってからのことであると考えています。明治20年代までは、「穢多・非人」に対して、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として見方が後退し、「人種起源説」的見解がかもしだされていきます。「人種起源説」の発生場所になったのが、当時の小学校に於ける教育現場であったと考えます。なぜ、近代教育の現場から、「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が生み出されていったのでしょうか・・・。

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