2021/10/02

明治5年学制の隠された意図 その3

明治5年学制の隠された意図 その3


明治新政府は、維新後の日本に、近代中央集権国家を確立するために、短期間の間にさまざまな施策を打ちだします。

その施策は、岩波の日本近代思想体系の各巻の表題にもあらわれていますように、「天皇制、官僚制、警察、軍隊、宗教、教育、法制度、経済、憲法制定、学問、言論、新聞、出版、歴史学、科学、翻訳、芸術、都市計画、村制度、民衆支配、風俗、性の管理」等、多分野に及びます。明治新政府の官僚・役人総動員したとしても、複雑多岐に渡る国政の多分野に、日本の近代中央集権国家に相応しい施策を計画し実施していくことは、多くの困難に直面したであろうことは想像に難くありません。

それぞれの分野、単独で、立案すればこと足りるわけではありません。統一された近代中央集権国家に適う施策にするためには、そのほかの関連する施策との綿密な摺り合わせが必要になります。明治新政府がそのためにとった政治的手法は、PLAN・DO・SEEではないかと思います。

PLAN・DO・SEE というのは、情報処理の世界では、情報処理システム構築の技法として採用されているもので、その作業の効率化を図るため、PLAN・DO・SEE、つまり、計画・実行・評価が実施されます。

明治新政府の個々の施策を批判・検証するとき、日本の歴史学者の多くは、「DO」のみに関心を集中させる傾向があります。しかし、『部落学序説』の、無学歴・無資格の筆者は、明治政府がどのような施策を実施したかという「DO」だけでなく、「DO」がどのような意図のもとにどのような設計・「PLAN」をもって実施され、実施されたあとは、どのように批判検証・「SEE」がなされたか・・・、という一連の流れの中に明治政府の「DO」を捉えようとします。

明治5年の「学制」実施に際して、明治政府が具体的に遂行した「学制」の「DO」を見るだけでなく、「DO」の背後にある「PLAN」を明らかにしようとして、木戸孝允の《普通教育の振興につき建言書案》や、伊藤博文の《国是綱目》をとりあげました(岩波日本近代思想大系『教育の体系』に集録されているのでだれでも読むことができます)。

「DO」の背後にある「PLAN」を見たからには、「DO」の後に続く「SEE」を見ないほうはありません。明治政府が、明治5年に「学制」頒布を実施したあと、その「DO」をどのように「SEE」したのか、明治政府中央からは、文部省の要職にあった西潟訥が、東北・北陸諸県の巡回視察をもとに、教育のあり方についての考え方を述べた文書」《巡視巧程説諭》と、地方からは、明治5年から13年まで、愛媛県の学事(学区取締)に従事していた内藤素行の文章をとりあげてみましょう。

『教育の体系』の解説者・山住正己によると、《巡視巧程説諭》の著者・西潟訥は、「新潟出身の官僚。1838~1915。明治4年文部省に出仕、学制制定準備にも加わる。5年文部省少丞、6年文部中督学。4年に大隈重信に宛てて、「天下ノ大計ハ先ズ学校ヲ設ルニアルノ説」を建白、「富国開明其施多端ナリト雖モ、遂ニ一学ニ帰ス」と述べるなど、一貫して普通教育の重要性を説いた」人物だそうです。西潟訥は、「欧米の教育論・教育事情を紹介、啓蒙的役割」を果たしたといいます。

「巡視巧程」というのは、山住によると、「学制試行後、各地の学事の進渉状況を巡視し、その結果をまとめた報告書」のことで、文部省要職である西潟訥がこの報告書を読んで批評した記録が、《巡視巧程説諭》なのです。

西潟訥の《巡視巧程説諭》は、まさに明治政府の、明治5年の「学制」頒布のPLAN・DO・SEE(計画・実行・評価)のSEE(評価)にあたるもので、西潟訥の「評価」の仕方から逆に辿っていきますと、明治5年「学制」の PLAN(計画)・DO(実行)がより明確になってくると思われます。DO(実行)段階で伏されていたことがらが、PLAN(計画)とSEE(評価)をあわせ検討することで、その姿が明らかになる可能性を秘めています。

西潟は、「人皆小学ノ教育ヲ受クベキ事」という文章の中で、国語教育の重要性を説いています。中央から地方へ、地方から中央への情報伝達は、「言語」を伝達手段として行われます。文書においては、文字を通して、口頭においては、音声を通して伝達されます。

しかし、日本で使用されている言語は、「風土ニヨリテ基調ヲ異ニシ、習俗ニヨリテ其辞ヲ別ニス」というのです。「風土」(地理的・自然的環境)と「習俗」(文化的・歴史的環境)によって違いがあり、「一国ノ中猶且ツ東西ノ言語通ゼザルモノアリ」というのです。西潟はい一例として、「陸羽ノ民ニ於ケル薩隈ノ民ニ於ケル、其言語全ク相通ゼザル例を取り上げています。

東北の陸奥・出羽の人々と、九州の薩摩・大隅の人々の使う言葉は、同じ日本語とはいえ、「全く相通ぜざる」異国のことばのようであるというのです。「言語通ゼザレバ情実審カニシ難ク、猶外国ニ至ルガ如シ。其不便モ亦以テ知ルベキノミ」。西潟は、明治5年の「学制」頒布以降、小学校でなされる国語の授業は、「其不便」をとりのぞくために実施されているというのです。

西潟のこの言葉は、重要な意味を持っていると解釈されます。「風土」・「習俗」による「言語」の違いは、同じ日本の中にあっても、「外国に至るが如し」と受け止められるというのです。幕末・明治初頭にかけて、日本が諸外国に対して開国し、日本に外国人を受け入れるに及んで、まさに、外国人を外国人として認識する最も大きな要素は「言語」だったのです。居住の自由によって、自分の郷(くに)を離れて、異郷の地を旅することができるようになったことで、日本人は、「内なる外国」を認識するようになったのです。

西潟は、各地からの巡回視察の報告に目を通しながら、とくに、「辺陬僻遠ノ小学ニ在リテハ、必十分会話ノ課ヲ授クルヲ要スベシ」といいます。小学校生徒に、「正韻通語」(日本の東西で通用する、現代でいう標準語)を習得させることが極めて重要であるといいます。

筆者は、「正韻通語」の学習によって、日本の近代中央集権国家における徴兵制によって召集された「兵士」は、日本全国一律の命令、軍事情報の一元的管理が可能になると、明治政府が考えたのでではないか想定するのです。

西潟は、「土音土語ヲ脱セザル」「土人」の小学校教師を排除して、「通語ヲ能クスル他国ノ教員」を雇用することをすすめるのです。「此、日進開化ノ大関係ニシテ、忽カセニスベカラザル所ナリ」という言葉に出てくる「日進開化ノ大関係」の中に、明治政府の「学制」と「軍制」の密接な関係の認識が含まれていたと推定するのです。

四国・讃岐の徴兵反対一揆の際、讃岐の「旧平民」(旧百姓)が、「血税反対闘争」の枠組みの中で、新設されたばかりの小学校48校を襲撃、放火、棄毀の暴挙に出たのは、小学校教育が「学制」と「軍制」の密接に結びついていることを見抜いた、賢明なる「旧平民」(旧百姓)の明治新政府に対する批判・抗議があると思われます。

一方、四国・松山(愛媛県)で、「学区取締」に従事していた内藤素行は、明治5年の「学制頒布」当時の「穢多」と「小学校」について、速記録の形で、その記憶を残しています。

内藤は、「松山藩に於ける穢多の制度並に明治以後に於ける取扱の実歴」という「口伝」を残しています。その内容は、『部落学序説』がこれまで説いてきたところを援用すれば、これまでの誤解が氷解することになります。

内藤は、松山藩9郡における「村々には大概穢多が住んで居った」といいます。「穢多」と「穢多以外の者」の関係は、「親しみ深い」ものがあったというのです。日頃、穢多と顔を見合せながら生活している「武士」・「百姓」は、「穢多」に親近感を抱いていたというのです。しかし、長州藩もそうですが、すべての村に「穢多」が在住するわけではありません。ある場合には、事件や取締があるときにだけ、「穢多」が姿をみせる村もあるのです。そのような村は、「穢多」に親近感を持つことなく、権力の末端機関に対する恐れをもって「嫌う傾き」があるというのです。

つまり、四国・松山藩の「百姓」にとって、顔見知りの「穢多」には親近感を抱くが、見知らぬ「穢多」に対しては嫌悪感が先立つというのです。この「百姓」と「穢多」の関係は、現在の「市民」と「警察」に関係とたやすく類比して考察することができます。

内藤は、松山藩の「穢多頭」は、「大きな屋敷を構へまして、塀を以て廻らして一寸望んでも大きな住居に驚きます。」と証言していますが、当時の「藩の役所」の一般的な建物であった瓦葺き屋根を持つ「穢多屋敷」であったと思われます。現代の「警察署」を想定すれば、よろしいかと思います。「穢多頭」は、「半右衛門」と呼ばれ、大小の両刀差しを許されていたといいます。両刀差しは、「藩士」にのみ許されたもので、松山藩の「穢多頭」は与力以上の藩士階級であったと思われます。その「役務」は司法・警察に関することで、司法・検察・法務・警察・刑務など多岐に渡ったと思われます。その「役務」に対する藩からの報酬・「家職」は、死牛馬処理に伴う皮革に関する利権で、「穢多頭の年中の収入は巨額なもの」といいます。内藤は、処刑についても詳述しています。近世幕藩体制下の死刑執行人・刑務官として、プロとしての知識と技術を持っていたといいます。

内藤は、明治5年の「学制」頒布についてこのようにのべています。

「私共の県に於きましても小学校設置といふことが起こりましたが・・・、小学校を設けるには中々苦情があった、・・・私も学区取締を命ぜられ・・・松山城下の近傍を受持って皆廻りました。所が小区内の町村吏員に於きましては此学校を設けることついてはあまり奮発をしない。」

「平民」も経済的理由で消極的であり、その他に、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもを一緒に教えることに問題とみなす「旧平民」が増えていったといいます。

「旧平民」の親にとっては、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもが共に同じ小学校で学ぶことによって、旧「常・民」である「旧平民」の様々な情報が、旧「非常・民」である「新平民」に流れ、将来不都合なことになるのではないかという不安や警戒心が広がっていったためではないかと思います。中には、「穢多の席」を別にする小学校も出てきます。内藤は、問題解決のために東奔西走したといいます。「穢多の席」を嫌がる「新平民」の親と子は、「穢多のみの小さい学校を造って教育する」場合もあったということです。

注目すべきは、内藤素行の、この速記録は、大正2年に、「穢多」と「穢多村」を懐古するという形で、口述筆記されたものです。「旧穢多」に対して「特殊部落民」という、官製の差別用語が投げかけられていた時代に、内藤は、「特殊部落民」という概念を一度も使用しないで、「新平民」として呼び続けていることです。「特殊部落民」という視角・視点・視座に毒されていない人々は、「旧穢多」(新平民)のほんとうの姿を、どこかで、評価しているようです。

明治31(1867)年2月27日、「海南新聞」に掲載された「愛媛県の被差別部落の美風」を伝える記事は、浄土真宗門徒の倫理観を身につけ、日々、農作業に勤しみ、農産物の加工品を商い、財をなして、教育費の支出をおしまず、正式の校舎を「旧穢多村」に建築して、資格をもった小学校の教師に「旧穢多村」の児童の教育にあたらせたという話が紹介されています。その記事は、「普通人民の設立せる学校に比して就学数決して遜色なきなり。」と伝えています。「旧穢多」の親たちは教育熱心で、その子どもも、「皆熱心に愉快に学校に従事せり。」というのです。筆者は、その「旧穢多村」は、よき小学校教師にめぐまれたからであると思います。

讃岐と伊予、四国の隣接する2つの県は、「旧穢多」の末裔に対して、異なる環境を提供していたのかもしれません。

次回、「教育・言語・差別」をテーマにして論述を続けます。

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