2021/10/02

教育・言語・差別 その2

教育・言語・差別 その2


「余は・・・旧穢多の塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり。」

明治22(1889)年2月14日、「大円居士」の筆名で『東雲新聞』に「新民世界」と題する文章を投書したのは、土佐藩の「下級武士」(足軽身分)であった中江兆民でした。「士族のために打たれ、踏まれ、軽蔑されて、憤発することを知らざりし旧時の民(新平民)」の境涯を我が身に引き受けて、「新平民」を「異類視」(「新平民」を異民族の末裔とみなす説)することに敢然と反論していく様は、中江兆民の言動に批判的な論敵さへ、「然りといえども、余は大いに居士の人となりを愛す。」と言わしめる程です。

この当時、まだ、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に直結する「特殊部落民」というあきらかな差別用語はまだ登場してきていません。「部落」という概念すら、まだ、一般的に使用されていない時期です。「旧穢多」を表現するに、「新平民」という概念が一般的にもちいられていた時代、中江兆民は、当時、次第に芽生えつつあった「旧穢多」の「起源」に対する「人種起源説」に、明白な「否」を突きつけるのです。

中江兆民は、その妻の出自である「旧穢多」身分が、近代中央集権国家、明治天皇制国家のイデオロギーによって、非日本人的・非臣民的存在として排除されていく様を、黙って容認することができなかったのでしょう。「穢多の起源の問題はどうでもいい。旧穢多の置かれた社会的地位の改善こそ、旧穢多の緊急の課題だ」とはいいませんでした。兆民は、「吾らの家系のゆえを以て、吾らを異類視し、吾らを下等視すると謂うか。吾らの先祖はインド人なるか、支那人なるか、ペルシャ人なるか・・・、さらにその先祖のまた先祖に遡るときは・・・。吾らこれを記憶せざるなり。」として、台頭しつつあった「旧穢多」に対する「人種起源説」を全面否定するのです。

中江兆民という「大変人」に対して、対極にあるもうひとりの「大変人」・鷗村漁客が『大円居士に答う』と題して、「旧穢多」の「人種起源説」を擁護・証明しょうとするのです。

中江兆民が、図らずも、歴史に、「被差別部落」の「人種起源説」萌芽の時代の状況を、文字に刻印して残すことになったのは、「被差別部落」の淵源をたどる人々にとって、かけがえのない道標を設定したことになると、『部落学序説』の筆者は、中江兆民を評価します。

筆者は、すでに、中江兆民についてはいくつか文章を残していますので、ここでは、中江兆民の論敵、鷗村漁客の教説をとりあげてみましょう。

漁客は、中江兆民が、「新平民」が社会から排斥されつつあることを熱心に説くが、排斥されつつある、その理由については一考だにしないことを批判します。漁客は、「新平民」が社会より排斥される「その原因は種々」あると指摘します。そして、「種々」ある中でも、主な理由を「列挙」します。

かれらが言語の転訛なり、
かれたが行状の乱暴なり、
かれらが根性の剛愎なり、
かれらが衣服の奇怪なり、
かれらが身体の臭穢なり、
かれらが飲食の粗悪なり、
最もはなはだしきものはすなわちかれらが気力と知力に貧なるにあり。

漁客は、「新平民」が社会的に排斥される理由を箇条書きに列挙したあと、その理由を展開していきます。漁客は、漁客がそう確信する「証拠」を提示します。

漁客が証拠としてとりあげる最初のものは、京都宇治郡山科にある「旧穢多の小部落」の中に設置された小学校の教師の語る証言です。その「旧穢多村」にある小学校の校舎は、「風に吹かれ雨に打たれ、半ば欹斜する」状況にあるといいます。その小学校教師として、「旧穢多」のこどもの教育に携わっている人が、漁客を尋ねてきてこのように話していったというのです。

彼は、長年に渡って、「屠家の子弟を教育」してきたというのです。その中で、いちばん、教育・指導に「困難」を覚えたのは、「旧穢多」のこどもが話す「言語の矯正」であったというのです。

たとえば、山科の「旧穢多村」のこどもは、「子供」を「ころも」と発音し、「めでたし」を「めれたし」、「釣瓶」を「つぶれ」と発音するというのです。その小学校教師は、「旧穢多村」のこどもが、そのような発音をするとき、「抱腹して絶倒するに堪えたり」というのです。

当時の文部省の要職・西潟訥は、日本の社会には、「風土」・「習俗」の違いによる方言の存在を認めていますが、その小学校教師の「方言」理解は、異常なものです。彼は、「方言」を使う、「旧穢多村」のこどもをみて、「憐れみ」の思いを持つというのです。

その小学校教師は、高みにたって、低き立場にある「旧穢多」のこどもの、文化的低位、文明開化の遅れを「憐れみ」、「心を尽くし力を竭せり」というのです。その小学校教師は、彼の言葉の通り、小学校教師の良心をかけて、「旧穢多村」のこどもたちの教育にあったであろうことは想像に難くあいません。しかし、彼は、努力のかいなく、「一つもその効応を見」なかったというのです。小学校教師である彼の努力に対して、「旧穢多村」のこどもたちから思ったほどいい成果がかえってこないことを知った、この小学校教師は、「今やまさに鞭を擲たんとす」と、体罰をもってしても、「旧穢多村」のこどもの方言を矯正して「通語」を話せるようにしようというのです。

山科の「旧穢多村」の小学校の教師からこの話をきかされたとき、「これ言語の転訛にあらずや」とつぶやくのです。「転訛」は、「なまり」のことで、「方言」のことです。「方言」というのは、生まれ育った地に深く根ざしているものですから、山科の「旧穢多村」のこどもならずともなかなか取り除くことは容易ではありません。それに、そもそも、「なまりはおくにの手形・・・」、それを取り除く必要があるのかどうか・・・。

当時の文部省要職の西潟訥は、「陸羽ノ人ノ薩隅ノ民ニ於ケル、其言語全ク相通ゼザルガ如シ」といいますが、東日本(陸羽ノ人)と西日本(薩隅ノ人)との間で、言語(方言)が通じないだけではありません。日本全国津々浦々、この言語(方言)による意志伝達の困難さは、明治を遠く隔たった今日においても存在しているのです。それを、当時の文部省は、公教育において、全国津々浦々に共通し通用する「通語」(標準語)を採用しようとします。

しかし、文部省の趣旨を間違って解釈する小学校教師は、山科の「旧穢多村」のこどもの転訛を、体罰をもって矯正しようとします。彼の所作は、山科のこどもたちが生まれながらに身につけてきた言語・ことばを奪うことにつながってしまいます。教育効果が十分に発揮できない、その小学校教師は、「旧穢多村」のこどもたちの天来の学力に低さの性として、こどもたちに低い成績をつけてしまったと思われます。そして、山科のこどもたちの「智力」・「気力」の少ないのは、彼らが、本来「日本人」ではないからだと・・・、こころの中で理由付けをしていきます。

漁客は、小学校教師に大いに賛同し、文章の末尾でこのように語るのです。「ああかれらは社会がこれを排斥するにあらずして、すなわちかれら、おのおのみずから社会より排斥せらるるの種を下すものなり」。

そして、山科の「旧穢多村」のこどもたちの、「通語」(標準語)を習得することの難しさを前に、かれらの「無気力、無智力」は、「支那・朝鮮にて智恵もなく、身代もなく、生計を成すにあたわざる者が・・・はるばる波濤を越えて、日本にきた」、そういう、「無気力、無智力」の末裔であると断ずるのです。

漁客は、西潟訥がいう、「風土」・「習俗」の違いから生ずる「方言」を、それにとどまらず、「人種」・「民俗」の違いにまで普遍化するのです。

既述の内藤素行は、愛媛県の教育官吏として、学制頒布に基づく小学校設置に尽力していきますが、内藤は、伊予・松山藩の「旧穢多村」のこどもたちの「転訛」についてはいちども言及していません。あえていえば、「旧穢多村」の親も子も、「威張る」ということが、「平民」からの排除に結びついていったと思わされます。内藤の場合、明治13年までの経験談です。明治31年の漁客の時代になると、「旧穢多」に対して、その起源の「人種起源説」的傾向が一段とすすみ、あることないこと、「旧平民」と「新平民」の違いに「人種起源説」的説明が付加されていったと思われます。

漁客が、中江兆民に、「旧穢多」の社会的排斥の理由として提示した「転訛」と「異類視」は、まったくの虚妄・虚説であるといわざるを得ません。

京都府宇治郡山科の「旧穢多村」だけでなく、日本全国津々浦々の「旧穢多村」が同じような、「異類視」に曝されていったのではないかと思います。中江兆民の「旧穢多」に対する「異類視」への全面否定と反論は、日本の部落史を見直し、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を批判・検証、とりのぞいていくときの、重要は史料になると思わされます。この中江兆民の提言、部落解放史においても、適切な評価がなされてきたとは言えない状況にあります。

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