2021/10/01

「被差別部落」概念と「同和地区」概念の亀裂

「被差別部落」概念と「同和地区」概念の亀裂

前説で、山口県新南陽市の「被差別部落」の人々が、市内の「被差別部落」をどのように受けとめていたのか、その住人のことばを引用しながら紹介しました。

「被差別部落」という概念は、「同和地区」の指定がされた地域と、未だ「同和地区」の指定がされていない地域の包括概念・上位概念として使用されていました。

具体的に言えば、「被差別部落」とは、「同和地区」指定がなされている「北部落」・「南部落」・「東部落」と、「同和地区」指定がなされていない「西部落」を含んでいました。

その4ヶ所の「被差別部落」のうち、近世幕藩体制下の「徳山藩」の山陽道沿の「穢多村」の流れをくむのは、筆者が「ごんごちの里」といっている、部落解放同盟新南陽支部のある「被差別部落」・「南部落」と、国鉄・新南陽駅の操車場建設によって、解体されて、「被差別部落」住民が離散していった「西部落」の2ヶ所です。

あとの2ヶ所、「北部落」と「東部落」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出された以降に、その当時の「行政」によって作られた「被差別部落」です。

新南陽市においては、「被差別部落」は、近世幕藩体制下の「封建遺制」として「残存」している「被差別部落」だけでなく、「昭和」という現代の一時期に、新しく創設された「被差別部落」を含んでいたのです。

筆者は、この話を、新南陽市の「被差別部落」の中にある隣保館で開かれていた「解放学級」で耳にしたとき、大きな衝撃を受けました。ひとつは、「被差別部落」は、過去の固定された地域にとどまらず、今もなお、新たに作り出されている地域であるということに対して・・・。もうひとつは、新たに作り出される「被差別部落」は、住民・市民に対して秘密裏に行われているということに対して・・・。

近世幕藩体制下の「穢多」の在所から切り離されて、その歴史と無関係に作りだされた2ヶ所の「被差別部落」は、時間的には、「東部落」は、戦前に作られ、「北部落」は、戦後において新たにつくられているといわれます。

「東部落」は、戦前の「融和事業」によって、「部落差別」を解消するための行政的施策によって新しくつくられたもので、「北部落」は、戦後の「同和事業」によって、「部落差別」を解消するための行政的施策によって新しくつくられたものです。戦前の「融和事業」も戦後の「同和事業」も、「部落差別」の解消を唱えつつ、「部落差別完全解消」ではなく、「部落差別拡大再生産」に帰結している・・・のです。

筆者は、1988年5月20日に、被差別部落」内の隣保館で行われた「第1回糾弾交渉」に陪席させてもらって耳にしたこの話に、驚きの思いを持たざるを得ませんでした。新南陽市の「市営住宅差別条例事件」に対する「糾弾会」の席上、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、このことについても、鋭く、新南陽市「同和行政」を厳しく批判していたのです。

そして、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、このような意味のことを抗議していたのです。

「新南陽市「同和行政」によって、行政の都合で同和地区指定された「北部落」の住民は、自分たちの、昔から「被差別部落」ではない「在所」が、いつのまにか「被差別部落」扱いされていることについて何も知らない。

最近、その住人の子弟は、就職に際しても、結婚に際しても、うまくいかない。就職試験は決まらず、結婚話はなぜかうまくいかない・・・。なぜなのだろう・・・、彼らは考えても、その理由が分からない。「同和地区」指定されたが故の「被差別」のなせるわざであるとは夢にも考えていない。

新南陽市の「同和行政」は、市民のひとりでも部落差別を受けることがないように、施策をとらなければならないはず・・・。しかし、その「同和行政」が、ある市民を「被差別」の奈落の陥れるような施策をして許されるのだろうか・・・。

私たちは、「部落」に住む住人がひとりも差別されない社会をつくるために部落解放運動に参加している。「部落差別」を受けることの厳しさとつらさを知っているが故に、歴史的にも地域的にも、「部落」でない人々が「部落」として新たに差別されるようになることを黙って見過ごすことはできない。即刻、「北部落」の「同和地区」の指定を解除し、その住民に、ことの子細を説明して謝罪すべきである・・・。

「同和対策事業」の「主体」である新南陽市「同和行政」が、不正行為によって、国の同和対策資金を窃取することは、真正な「同和対策事業」に対する誤解をも引き起こしかねない。新南陽市「同和行政」は、国から窃取した同和対策資金を国に返還し、「同和対策事業」の原点に立ち戻り、「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されることのない社会を作るべきだ・・・」。

筆者は、はじめて、門外漢として陪席を許された、その「糾弾会」において、部落解放同盟新南陽支部のひとびとが、新南陽市「同和行政」に対して、「同和対策事業」のあるべき姿を、冷静かつ理論的に説得している姿を見て、彼らが展開している「部落解放運動」は、「「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されることのない社会を作る」営みであると認識するにいたったのです。

一般的には、「部落差別問題・同和問題については触れない方がいい・・・」、「寝た子を起こすな・・・」といわれますが、「部落差別問題・同和問題」を避けて通るということは、山口県の「同和行政」によって、歴史的にも地理的にも「被差別部落」ではない地域が「同和地区」指定され、その住民は「同和地区住民」にされる・・・、そのような「不正行為」・「不法行為」があっても、それに目を塞いで生きろ・・・、ということを意味します。一般の側からも、「「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されること」を許さないと訴えることが必要なのではないか・・・。そう思ったことが、筆者をして、部落解放同盟新南陽支部との交流を「継続」させることになりました。

筆者が、部落解放同盟新南陽支部のひとびとを、「尊敬」の思いをもって接するようになったのは、部落解放同盟新南陽支部の人々の運動の姿勢によります。筆者の、部落差別問題との取り組みは、「「主体なき同一化」を特徴とする随伴者」(藤田敬一著『同和こわい考』)のそれではなく、田所蛙治氏がいう「「同盟の運動に寄り添う」ようなことを発想の原点に持っている」日本基督教団の牧師・信徒とは異なるスタンスで「部落問題」と取り組んでいるのです。

筆者のさそいで、その糾弾会に一緒に陪席した、日本基督教団西中国教区の牧師たちは、「部落解放同盟新南陽支部の話はにわかには信じ難い。国や地方行政が、新たに被差別部落を作っていってるなんて、何かの誤解ではないか・・・」との感想をもっておられました。彼らは、再び、糾弾会に陪席することはありませんでした。

藤田敬一氏がいう、「部落問題の真の解決と人間解放を求める人びとの「共感と連帯」に支えられた共同の営みとしての部落解放運動・・・」(前掲書)、「両側から越える・・・」営みの行き着いた先が、筆者の『部落学序説』の長文です。

「新南陽市・市営住宅差別条例事件」糾弾会・・・。その3年後、藤田敬一氏も「差別-被差別の現在を凝視する」という論文を掲載されている『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社)の中で、神戸生まれの「部落民」、「血統的にはサラブレッドのような「賤民の後裔」」を自称する灘本昌久は、「新南陽市・市営住宅差別条例事件」糾弾・・・を、硬直化した、表面的・形式的で貧困な発想のもと、「運動史上の汚点のひとつ」と断罪して切って捨てています。灘本は、その書に収録された対談の中で、「なんでぼくは運動をしてるのかなぁ・・・」とつぶやいていますが、その論文の中では、こうも語ります。「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。したがって、部落を部落として取り出されること自体を不快に感じる。どんな部落の呼称を生み出しても不快であることには変わりはない・・・」

灘本昌久は、筆者にとって、最も遠い「部落民」でしかないように思わされます・・・。

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