2021/10/02

明治5年学制の隠された意図 その2

明治5年学制の隠された意図 その2


明治政府の「学制」制定の動きは、戊辰戦争終結と共にはじまっているといっても過言ではありません。

明治元年12月、長州萩藩士・木戸孝允は、近代中央集権国家の「兵制」を視野にいれつつ、近代中央集権国家に相応しい「学制」を提言していきます。

木戸は、戊辰戦争終結後の「一大急務」として、「一般人民」を近代中央集権国家の国民に相応しい存在足らしめんために、先進諸外国の教育制度を取り入れ、「全国に学校を振興」し、「一般人民」の教育の機会を提供することを建議するのです。筆者は、木戸の「兵制」・「学制」に一貫する精神は、「国の為に尽くすの心」の育成にあったのではないかと思っています。

木戸は、「一般の人民、無識・貧弱の境を離るあたわざるときは王政維新の美名もとうてい空名に属す」と言い切るのです。もし、明治政府が、人民を、近代中央集権国家の国民に育成する教育に失敗したとすると、それは明治維新そのものに失敗したことになるというのです。

「学制」を考えるに際して、「兵制」をあわせて考えるのは、木戸孝允だけでなく、明治2年1月、当時兵庫県知事であった伊藤博文についても同じでした。伊藤は、「版籍奉還後の国是(国の施政方針)として構想」した『国是綱目』において、「万民ヲ視ルニ上下ノ別ヲ以テ軽重ス可ラズ」として、近世幕藩体制下のすべての身分(役務と家職)を解放し、住居移転の自由と職業選択の自由を保障し、「全国ノ人民ヲシテ世界万国ノ学術ニ達セシメ、天然ノ智識ヲ拡充セイム可シ」というのです。人民に、「有用ノ学業」を提供すべきであると主張するのです。

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、明治5年2月から明治9年11月までに執筆された17編の小冊子の合本のことであって、その内容は、すでに、明治政府の「学制」論議の中で、趣々論議されてきた内容なのです。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」ということばは、福沢諭吉発案のことばではなく、同種のことばは、長州藩の枝藩である岩国藩の藩士の教育理念のなかにも登場してきます。福沢自身、「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず<と言えり>」と、そういう説があると言っているのですから、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を福沢諭吉のことばとして生徒に教えるのは好ましいことではありません。

筆者は、伊藤博文と福沢諭吉の「教育理論」を比較検証した結果、伊藤博文のそれに深い共感を覚えると共に、逆に、福沢諭吉のそれに限りない嫌悪感をもたざるを得ないのです。

福沢は、「無学」ということについて、著しい偏見を振りまきます。「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と断言するのです。「凡そ世のなかに無知文盲も民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず」。福沢諭吉の軽佻浮薄な論法は、明治政府の教育行政の中で迷惑がられ、時として、否定される場面もあるのです。

福沢諭吉は、やがて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」、人間みな同じである、富める者も貧しき者もみな同じ人間である、そうなら、富める者の子弟を集めて教育してどこが悪い・・・、と居直って、エリート教育を開始するのです。福沢は、教育も一種の「事業」とみなして、「元来学問教育も一種の商売品」であるというのです。「商売品」だから、「其品格に上下の等差ある可きは誠に当然」として、教育に、「上等・中等・下等」という値段付けをするのです。福沢は、「慶応義塾」という「上等の教育」を購入するものには、「学歴」を保障し、それを購入することができないものに対しては、「愚民」というレッテルを貼って省みないのです。福沢は、明治20年頃には、当時の国立大学の民営化を主張し、「高等教育を私学の手に委ねる」ことを主張するようになっていったのです。福沢は、高等教育の機会を、「上等の教育」を相応の値段で購入することができる「社会の「富裕層」に限定的に与えよう」(天野郁夫著『学歴の社会史 教育の日本の近代』平凡社ライブラリー)と画策するのです。

一部の富裕層に対する「エリート教育」ではなく、日本のすべての人民に対する「一般教育」こそ、近代中央集権国家建設の最優先課題であると主張した木戸孝允や伊藤博文の見解・施策とは似ても似つかぬ、下劣・通俗極まりないものだったのです。明治25年の慶応義塾の授業料は、「年額30円」、「東京で下宿生活をする費用」を加算すると、最低でも、年間130~140円が必要であったといいます。月額10円以上必要になります。明治24年の警察官の初任給は8円。明治19年の小学校教員の初任給は5円。消防士は臨時職員で出場一回につき10銭。地方の公務員(教育職・警察職)の収入では、子弟に「上等の教育」を買ってやることなど不可能だったでしょう。福沢は、「上等の教育」を「銭」で購入することのできない人々に、「憐れむべくまた悪むべきもの」・「愚民」として蔑視のまなざしを向けていきます。「無学なる者(愚民)は貧人となり下人となるなり」という見解を強固にしていきます。

明治新政府の打ち出した「学制」を、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で評価することは、歴史の事実をまったく無視した虚妄であるとしか思えません。

高校の参考書に、福沢諭吉の思想を、「天賦人権思想に基づいたもの」という説明がなされたり、「1872(明治5)年の学制の「被仰出書」がどのような理念を打ち出しているかを読み取ってもらいたい。そして、その立身出世主義・実力主義・平等主義の基礎になったのが福沢諭吉の思想であることに注目したい。」(『詳説日本史史料集』山川出版社)という説明がなされたりしているのは、歴史の事実に著しく反するように思われます。「被仰出書」は、「教育は銭なり」という、教育者としてあるまじき妄語に帰結する福沢諭吉ではなく、真剣に、日本の近代中央集権国家に相応しい教育・学制を提唱した、木戸孝允・福沢諭吉・箕作麟祥・西潟訥・内田正雄・瓜生寅・辻新次・河津祐之等によって形つくられていったのです。

「兵制」確立のために「学制」の確立は避けて通ることはできませんでした。近世幕藩体制下の諸藩の軍事力のように、諸藩で通用するくにのことばだけでは不十分でした。3府41県に渡って、それぞれのくにの言葉が共存している状態では、近代中央集権国家にふさわしい行政組織や軍事・警察組織をつくりあげることは不可能でした。3府41県すべてに渡って通用する「通語」(西潟訥著「巡視功程説諭」岩波日本近代思想大系)の導入が必要でした。「学制」は、その背後に、小学校教育によって日本全国に「通語」を普遍化させ、「通語」をもって、統一的人民支配の装置にしようとしたのです。小学校の教育でなされる「通語」の教育は、「国民皆兵」による軍人養成の重要な機関でもあったのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、48にのぼる建設されたばかりの小学校を襲撃、放火、棄毀に及んだのは、讃岐の「旧百姓」が、「学制」の背後に、「国民皆兵」のための教育装置としての小学校の存在に気づいたからに他なりません。「讃岐の徴兵反対一揆」は、讃岐の懸命な「旧百姓」の懸命な判断、抗議行動だったのです。

日本の全国津々浦々の小学校で展開された「通語」の教育・・・、それは、やがて、「旧百姓」の上だけでなく、「新百姓」・「新平民」になった「旧穢多」の上にも、深刻な影響をもたらすことになるのです。(続)

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