2021/10/02

 もし、江藤新平の警察制度が実施されていたとしたら・・・

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その10)

明治新政府の政策の方向性を決める大きな要因に外交問題があったことは、『部落学序説』において繰り返し言及してきました。

明治新政府に対する欧米各国からの期待は、明治新政府が近代的中央集権国家を確立して、欧米各国の「国民」の日本滞在中の安全を保障されることでした。

しかし、明治新政府の「要職」は、その努力もほどほどに、明治5年に期日を迎える、当時「日本の国辱」として受け止められていた「不平等条約」(治外法権の受容と関税自主権の放棄)の早期撤廃に関心を集中し、明治新政府の「要職」の多くの人員を外交使節団として欧米各国に送り出します。

建国間もない時期、明治新政府の「要職」が、国内の政治的不安要素を残したまま、欧米各国の「物見遊山」に終わってしまったとあとで酷評される海外出張に出たことは、現代においては信じられない暴挙ですが、日本の近代中央集権国家の創設を願う、明治新政府の「要職」のひとりは、このように考えていたといわれます。

彼は、当時において、「敏腕豪胆なる大政治家の為すべき大事業は条約改正を舎て他に之あらざりし」として、「満々たる野心」を高言します。もし、彼によって条約改正問題が解決すれば、明治新政府の中で、彼の地位は不動のものとなり、「政治的主導権」は彼の手に落ちることになったでしょう。「肥前出身のやり手」であった彼の言動に「我慢」できなかったのは「薩長主流派」(毛利敏彦著『明治六年政変』)でした。

その中でも、彼の政治手腕に危機感を感じたのは大久保利通でした。彼は、岩倉具視と「謀議」して、彼の条約改正の使節としての派遣の阻止に動きます。その裏工作と根回しの結果、明治4年9月上旬には、彼から「岩倉使節への転換が生じた」のです。

彼は、そのときの心境をこのように綴ります。「蓋し、使節派遣の事は、素と世の発議にかかり、余は自ら進んで使節の任に当たらんことを望み、且、時の内閣の大立者、政治の原動者として重望を嘱せられる木戸、大久保の如きは、留まりて内政の整理に尽瘁するこそ宜しからんと思いしに、世は意外の点に結果を見るものにて、留まるべしと思いし木戸、大久保は外に出で、往かんと思し余は往く能わずして内に留まり、内外の衝に当たりて其実務を掌握するの大任を負わざるべからざるに至りしこそ、是非なけれ」。

当初、条約改正の外交使節団は、「大使1名、副使1名、理事官若干名の小規模なもの」でしたが、「敏腕豪胆なる大政治家の為すべき大事業」に参画すべく、新たに結成された外交使節団は、木戸、大久保の政治的野望という「妄想」が膨らむにつれて拡大の一途をたどり、外交使節団派遣の真意(不平等条約改正問題)が希薄になっていきます。単なる「外国視察隊」に変容していく様をみて、彼は、外交使節団の失敗と挫折を予期したに違いありません。

彼は、木戸や大久保の「権力奪取」必死の動きとは違って、政局を冷静に分析・判断して、「薩長の軋轢、官吏の衝突の為め」決めれば決めることができる問題すら混乱をきたらせ、「諸般の改革、革新」の阻害となる人々を、できる限り、「海外に派遣し・・・其間に充分なる改革、整理を断行するにあり」と決意するにいたるのです。

明治4年11月12日、岩倉使節団は日本をはなれます。条約改正によって、大事業をなしとげた「敏腕豪胆なる大政治家」の名をほしいままにしようとしていた岩倉、木戸、大久保は、こともあろうに条約改正交渉の「委任状」をもたないまま、旅立つのです。このことからして、岩倉使節団の外交は成功するはずもありません。岩倉の背後にいて画策・謀議した大久保利通の政治責任は軽からざるものがあります。

岩倉使節団と大久保利通は、「信用を失い、面目は丸つぶれになった」のです。条約改正交渉は途中で打ち切られ、「すべては徒労に終わった」(この項、ほとんど毛利敏彦著『明治六年政変』の抜粋です)のです。

岩倉使節団の外交交渉失敗は、そのあと「さまざまの深刻な後遺症を生み出した」のです。使節団は、20カ月半に渡って、彼らが抱いた妄想に過ぎない「蜃気楼」を追いかけて、欧米各国を20カ月半に渡って漂流するのです。放浪の末、出発点の横浜港の帰着したのは明治7年9月13日のことでした。

「岩倉使節団」が条約改正交渉失敗という辛酸をなめ、その代わりに何らかの成果を持ってかえろうと欧米各国を放浪している間に、「留守政府」を担った、実務派・大隈重信と理論派・江藤新平は、主な長州・薩摩派閥の「要職」がいない間、日本近代中央集権国家建設のため、着々と政治改革と近代化を推進していくのです。大隈も江藤も、岩倉・木戸・大久保の条約改正交渉に期待することなく、しかし、条約改正を緊急を要する課題として、条約改正の障碍になっている国内外の問題をひとつひとつ着実に解決していくのです。

「留守政府」がとった政策は、単なる「欧米模倣」ではありません。日本の法制度・法制史の精神・伝統を保持しつつ、取捨選択して諸外国の制度を導入するというものでした。「留守政府」としての政治手腕は、「先進国に指摘される以前に旧弊をなおそう」(小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』)とするものでした。

「西洋文明の実地体験から得られた意欲や抱負よりも、みずから招いた外交上の失敗による痛手のほうが大きかった」(毛利敏彦)岩倉・木戸・大久保より、国内政治・外交問題に「予想以上に成績をあげた」「留守政府の施策」が際立っていきます。

毛利敏彦は、その著『明治六年政変』で、「留守政府の施策」として、次のものを列挙しています。

明治4年12月 華士族・卒の職業選択の自由の許可
明治5年01月 卒身分の廃止・全国戸籍調査
明治5年02月 秩禄処分・土地永大代売買を解禁・近代的所有権の法認
明治5年03月 神社仏閣の女人禁制廃止
明治5年04月 僧侶の肉食・妻帯・蓄髪許可・東京大阪間電信開通 
明治5年08月 家抱・水呑百姓の解放と農民職業の自由・近代教育制度創設・裁判所体系整備
明治5年09月 新橋・横浜間鉄道開通
明治5年10月 人身売買禁止と娼妓・年季奉公人の解放
          (士族の帯刀義務解除)
明治5年11月 徴兵告諭布告・太陽暦採用・国立銀行条例制定
明治6年06月 キリシタン禁制高札の撤去
明治6年07月 地租改正布告

毛利敏彦は、これらの他に、「国憲編纂と国会開設の計画、法典整備、司法制度確立、太政官制改革、全国郵便制度実施・宮廷の粛清と簡易化など、めまぐるしいばかりの新政策を次々に打ち出した。」といいます。

明治6年5月、岩倉使節団と抜けて単身帰国した大久保利通は、「留守政府」が成し遂げた建国の諸政策を見て自失呆然としたのではないかと思います。「江藤新平」の政治的成功と「大久保利通」の政治的失敗・・・。大久保利通は、日本の温泉でからだをやすめながら、謀略・暴力による「留守政府」からの政権奪取をはかったようです。

『部落学序説』の筆者としては、大隈重信(「彼」)と江藤新平等によってなされた「留守政府」(真正の明治政府)によってなされた諸政策の中から、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を成立せしめた、諸外国からの「圧力」(拷問問題・外国人襲撃問題・キリシタン弾圧問題)に関する明治新政府の諸政策に注目せざるを得ないのですが、「留守政府」は、日本にいて、欧米諸国を条約改正交渉のために放浪する岩倉使節団のなしえなかったことを現実化するのです。大隈重信は、日本国内にあって、彼が、条約改正交渉の大使として実施しようとしていたことを実施したのでしょう。江藤新平という強力な理論家・政策家の助けを得て・・・。

留守政府は、諸外国にその政策を支持されます。その肯定的評価を背景に、形の上で切り捨てた、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」・「旧穢多・非人」を、あらためて、かつてのように藩に帰属する警察としてではなく、近代中央集権国家の警察として再組織しようとしたのであろうと思われます。

司法卿としての江藤新平は、日本の司法・警察の歴史と伝統、制度と精神を尊重しつつ、日本の司法・警察をゆるやかに近代化しようとしたのではないかと思います。大久保利通をはじめとする長州・薩摩派閥による「謀略」と「暴力」としか言いようのない「権力」によって、抹殺されることがなかったとしたら、「旧穢多・非人」の明治政府による処遇は、そして、「旧百姓」による「旧穢多・非人」に対する視線は、現代の部落差別につながるような視線にはなりえなかったと思われます。

岩倉使節団を投げ出して中途で帰国した大久保利通が、政敵・大隈重信、江藤新平等を排除し、どのように明治新政府を私物化していったのか、興味あることがらですが、これ以上深入りすることはやめて、大久保利通をはじめとする長州・薩摩派閥による「旧穢多・非人」の実質的排除の方策を検討してみましょう。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告に見られる「半解半縛」政策は、大久保利通の警察行政のもと、国民から反感をかうような陰険な「半解半縛」政策に変質させられていきます。大久保利通の「半解半縛」政策こそ、近代部落差別の無視しがたい要因に数えることができます。

*「半解半縛」は、『部落学序説』の筆者の造語。「半分解放され、半分拘束されている」という意味。「旧穢多・非人」は明治4年の太政官布告によって表面的・形式的には「警察」の仕事から離れたようにみえるが、実際は、近代警察になくてはならない専門的知識と技術をもった現場「警察官」として組み込まれ、場合によっては利用され切り捨てられていった存在であるという意味で、「半解半縛」という言葉を使用しています。キリシタン弾圧史の明治政府による「半禁半許」説からヒントを得たものです。

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