2021/10/01

某中学校教師差別事件の概要

某中学校教師差別事件の概要

日本基督教団西中国教区のちいさな教会に赴任してきて26年・・・、西中国教区が、無学歴・無資格の筆者に割り当てた唯一の役は、設立されたばかりの部落差別問題特別委員会の委員でした。

筆者、教区総会期4期8年に渡って、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員をしてきましたが、9年目にその委員を辞任して以来、無役で現在に至っていますが、その委員をしている間に出会った、部落解放同盟新南陽支部の方々から、山口県の教育現場で起こっている様々な差別事件に関する資料を提供されました。

それらの資料は、筆者、散逸することがないようにファイリングしていますが、どの差別事件も深刻です。読んでいて、差別事件が発生する日本社会の<風土>、学校教育の<現場>が持っている深刻な差別性を前に、筆者、語るべき言葉を失うことも少なくありません。

筆者、「差別者」の範疇にはいる存在ですが、それでも、差別事件の「糾弾要綱」に目を通していて、「差別者」の側の論理に唖然とさせられ、それに抗議する「被差別者」の側の論理に驚かされます。「差別」に対して、「怒り」だけでなく、「悲しみ」すら感じさせられます。

1980年12月10日(水)、山口県A市A中学校の理科室の授業で、その差別事件が発生します。

その理科の授業を担当したいたのがA教諭でした。

その授業をうけていた生徒は、3年4組の44名・・・。A市立A中学校は、校区に、近世幕藩体制下の徳山藩で、司法・警察の職務に従事していた、徳山藩北穢多村の<末裔>の方々が住む被差別部落を含んでいました。当然、44名のクラスの中には、被差別部落出身のこどもたちも含まれます。

このA教諭・・・、「理科」の先生ではあるのですが、同和教育に熱心な教師として、自他共に認める存在でした。A教諭の、学校教師として同和教育に携わるときの基本的な姿勢は、「人権尊重の精神」(A教諭の言葉)でした。A教諭にとって、同和教育は、「人権教育」の一環であり、同和教育を通して、生徒たちに、「人権尊重の精神」を育んでいくことは、中学校教師としての彼の基本理念であったようです。

しかし、A中学校における同和教育の時間は、それほど多くはありません。

A中学校における同和教育について、A中学校校区にある被差別部落の生徒は、このように語っています。「同和教育の時間といったら、副読本を使い、読んで、先生がその感想を求めて終わる。みんな、ほとんど聞いていない。内職している者や態度で拒否している者がいる。そんな時間は、みんなやる気がないし、おもしろくない。次第に、教科の自習の時間にかわってしまう・・・」。

それは、学校同和教育における、差別・被差別を問わず、生徒たちのすなおな反応であったと思われます。

A教諭は、同和教育の時間的不足を補うべく、A教諭の、中学校教師としての全てのいとなみの中で、主体的に同和教育を実践していたようです。

そのA教諭が、理科室で、フレミングの法則を教えていたとき、A教諭の指の出し方を生徒に模倣させます。親指・人指指・中指の3本を、3次元的に直交させて、親指を導体の向き、人指指を磁界の向き、中指を起電力の向きとして具体的に教えていたのですが、A教諭の指の出し方をみながら、44人の生徒はそれを模倣しようとします。

しかし、中には、フレミングの法則の指使いとは異なる出し方をする生徒もいます。

そのとき、A教諭は、生徒が将来、「差別行為」をしないように指導する必要を感じて、自分の親指を曲げて、「4本指」を生徒の前に突き出して、「4本指を出してはいけない・・・」と指導します。

すると、「男子の生徒たちが、「どうしてか?」と声をあげた。」といいます。

A教諭は、生徒の<問い>に納得のいく<答え>を出さずに、「それは言えない・・・」と答えたといいます。

しばらく沈黙のときをおいて、A教諭、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したといいます。

生徒は、そのような言葉を語るA教諭の真意を理解できず、「殺されるって、どうしてか?」とさらに質問を続けたといいます。

しかし、A教諭は、生徒たちの質問に、生徒たちが十分納得のいく説明をすることなく、「4本指」の話を中断し、フレミングの法則の説明に戻ったといいます。

後日、山口県教育委員会、A市教育委員会、A中学校は、A教諭のこの指導は、「同和教育に熱心な教諭の差別をなくすための指導」であったと弁明することになります。問題があったとしても、それは、「差別事件」ではなく、説明不足で生徒に誤解を与えた「失言事件」として決着しようとします。

A中学校に通う、被差別部落出身の生徒は、男の子もいれば女の子もいます。

しかし、A教諭、なぜか、女の子に対して、「部落民」であることを自覚させようとして、彼なりの「部落民告知」を実践しようとします。A教諭が、被差別部落出身の女子中学生に部落民であることを自覚させ、そのあとどのような指導をしようとしたのか・・・、A教諭は説明することはありませんでしたが、同じ月の1980年12月19日、「光合成に必要な条件を指で数えたとき」、そのクラスにいた、被差別部落出身の女生徒と目と目があう形で、4本指を出した・・・、そうです。

A教諭は、そのとき、その女生徒の「表情が変わったことに気づいた・・・」といいます。A教諭の視線と、突き出された、その「4本指」にとまどう女生徒・・・、A教諭は、女生徒をどまどいの中に残したまま、授業を続けたといいます。

A教諭の行為、特定の女生徒に対しては明らかな差別行為・・・、しかし、その他の生徒にとっては、「光合成に必要な条件を指で数えた」に過ぎない、何でもない行為・・・、という極めて巧妙かつ狡智な方法を採用したと思われます。学校教師による生徒に対するイジメはいつもこのような形で行われます。

その女生徒の話を聞いた、その母親、「言うに言われぬ憤りに襲われた・・・」といいます。母親は、「先生だからといって、そんなことを言っていいはずがない。とにかく学校に電話しよう。」とするのですが、女生徒は、母親に、「学校に抗議の電話をすると、あとで、私がいやな目に合うからやめて!」と母親を静止したといいます。

A教諭によって、有耶無耶にされた1977年に引き起こされた、被差別部落の女生徒に対する「差別事件」の記憶が消え去らない中、再び起きたA教諭による「差別事件」・・・。母親は、1980年12月26日に開催された「促進学級保護者会」で、A教諭の「差別行為」について、「問題提起」することになります。その娘さんが、A教諭の「4本指」をめぐる差別行為を明らかにしたことで、A教諭から、<嫌がらせ・イジメ・疎外・排除>にさらされることを危惧していることを含めて・・・。

A教諭の「差別行為」について、「促進学級保護者会」でその事実を知らされたA中学校校長は、翌日12月27日、校長室にA教諭を呼び出して、「事情説明」を求めます。

そのとき、A中学校校長は、生徒の保護者から指摘された事件の「事実確認」を、A教諭の語る説明だけをてがかりに了解していきます。「人権尊重の精神」にとみ、山口大学教育学部の教授を父親に持ち、「同和教育の熱心な推進者」であるA教諭の説明は、全面的に信頼に足りうるものとし、間違いがあったとしても、それは「差別事件」ではなく「失言事件」でしかない・・・、との方針のもと、A中学校校長は、A教諭に問題解決を「一任」させるのです。

現在、大分県の教育委員会による、教職員採用試験不正採用汚職事件・・・、それは、大分県の教育界だけの話ではありません。筆者が棲息している山口県においても、過去に同じ汚職事件が問題化したこともありますし、それが明らかになる前までは、<コネ採用>はなかば一般化・常識化して、<公然たる秘密>でした。父親が、山口大学教育学部教授、そして本人が、同和教育の先進地、兵庫県での同和教育の実践者・経験者という実績の持ち主であれば、その周囲の教職員たち、やがては山口県の教育界の幹部になるA教諭のために、その<失敗>を取り繕って将来のために<恩>を得る・・・、ということは決してめずらしいものではありませんでした。A中学校校長の行動パターンには、その<慣習>が滲み出ています。

A教諭が、事件前も事件後も、自己の教育者としての基本的な理念とする、「人権尊重の精神」、その精神は、誰よりもまず、教育者自身に向けられていくのです。「人権」が尊重されなければならないのは、A教諭の「同和教育という名の差別指導」で傷ついた、被差別部落の生徒たちではなく、そのことで、被差別部落の人々から「糾弾」を受ける可能性のあるA教諭自身であると認識されるのです。

A教諭、フレミングの法則を教えているとき、生徒に、「4本指」を出す差別行為をしないように指導したことを認める一方、その授業の際、生徒44人から質問はなかった・・・、授業中に、そのことをめぐって生徒とやりとりをした記憶は一切ない・・・、問題提起をしている被差別部落の生徒が<誹謗中傷>しているかのように、事件の責任を被差別部落の生徒の側に転嫁しようとします。

しかし、1977年の、A教諭による、被差別部落の女生徒に対する「差別事件」のように、「一対一の席」での「差別発言」ではありませんでした。そのときは、<知らぬ、存ぜぬ、記憶なし>を言い張って、「差別事件」をうやむやにすることができました。その女生徒に<うそつき>とラベリングしたまま・・・。

しかし、今回の「差別事件」・・・、A教諭の言動を目の当たりにしていたのは、ひとりではありませんでした。クラス44人の生徒が、A教諭の「差別事件」の証言者になったのです。被差別部落出身であると否とを問わず・・・。

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