2021/10/02

「賤民史観」と遊女1 「遊女」に対する筆者の前理解1

「賤民史観」と遊女 その1 「遊女」に対する筆者の前理解


『部落学序説』の第4章・第9節に、「警察と遊女と部落と」という題をつけました。しかし、筆者にとっては、「部落」ということばより、「遊女」ということばの方がずっしり重い感じがします。「部落差別」より「女性差別」の方が、本質的に重い差別ではないのか・・・、と考えるからです。

『部落学序説』の筆者である私は、「男性」ですから、「女性」の方から、「女性でないものに、どうして女性の痛みがわかるか・・・」と詰問されそうですが、それが、たとえ答えに窮する問題であったとしても、筆者は、そう答えざるを得ません。

「賤民史観」と遊女と題して、近代の「遊女」(売春)について言及しようとするとき、筆者の手元にある資料の少なさを歎かずにはおれません。無学歴・無資格であるがゆえに、手の内をさらすのを常とする筆者は、ここでもまた、この論述のために使用する資料を明らかにします。

上野千鶴子著『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)
総合女性史研究会『日本女性の歴史 性・愛・家族』(角川選書)
沖浦和光著『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(文春新書)
池田弥三郎著『性の民俗誌』(講談社学術文庫)
赤松啓介著『差別の民俗学』(ちくま学芸文庫)
山川菊枝著『武家の女性』(岩波文庫)
高橋貞樹著『被差別部落一千年史』(岩波文庫)
日本近代思想体系『家と村』(岩波書店)
日本近代思想体系『差別の諸相』(岩波書店)

資料的には制限のある世界で、この《「賤民史観」と遊女》というテーマについて論述していきます。

『部落学序説』が「序説」(プロレゴメナ)である以上、筆者が「遊女」(売春)について、どのようなイメージ(あるいは偏見・予見)をもっているかを明らかにしたうえで、 《「賤民史観」と遊女》というテーマについて論述を展開していきたいと思います。

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「遊女」・・・

そのことばは、筆者にとって、非常に重いひびきがあります。

筆者は、高校2年生のとき、スウェーデン・ミッションの教会で聖書を学ぶようになり、高校3年生の冬、スウェーデン・ミッションの宣教師から洗礼を受けてクリスチャンになりました。

その宣教師は年輩のグンナル・クリスチャンソン先生と、若いカーリン・アッセルヘード先生でした。この二人の宣教師は、筆者のものの見方・考え方に大きな影響を与えました。キリスト教の信仰だけでなく、神学・哲学・政治学・文化学・人類学・・・、多方面に渡ってことばに尽くせない影響を受けました。

あるとき、日本人牧師から、「教会学校の教師をしないか・・・」と誘われて、「ひとを教えるなどとんでもない・・・」と思ったのですが、強引にすすめられるので、小学校5・6年クラスの助手をすることにしました。

教会学校の小学校5・6年の担当をしていた教会員のAさんは、とても熱心なクリスチャンです。わかりやすいことばで小学生たちに聖書の話をしておられました。小学生もAさんを信頼して、助手をしながら、私も彼女から多くのことを学びました。

そのAさんが、福音主義教会の主催する「聖会」に、ほかの教会員の方々と参加された次の週のことです。いつもあかるく元気に小学生に話しかけるAさんの顔がくもり、声にも元気がありません。小学生たちも、「A先生、今日、少し変! 吉田先生、話し聞いてあげたら・・・」といいます。小学生にうながされて、おとなの礼拝が終わったあと、A先生に、「なにかあったのですか・・・」と尋ねました。すると、A先生は、聖会ですごくショックな話を聞かされて、「このまま、わたしのようなものが教会学校の先生をしていていいのかどうか、迷ってしまって・・・。本当のことをみんなの前ではなして、教会学校の先生をやめようと思うの・・・」というのです。

Aさんと私は、教会学校のクラスのある2階の部屋に行きました。スウェーデン宣教師の指導で、年齢に関係なく男性と女性がひとつの部屋にはいるときは、ドアと窓を開けたままにしておくこと・・・、というのが習慣になっていました。そのときも当然、ドアと窓はあけっぱなしにしていたのですが、礼拝が終わるとほとんどの信徒はかえってしまいますので、ほかのひとに聞かれてまずい話でも聞かれる可能性はほとんどありません。

そこでAさんはこんな話をはじめたのです。

「私は、実の兄に、大阪の遊廓に売られたんです。でも、それがいやで、なんども逃げ出したんですが、すぐ、兄に見つかって遊廓に連れ戻されました。今回もそこを逃げ出して、この地に住むようになったんです。こんなわたしでも救ってくださるとイエス様を信じてクリスチャンになったんです。でも、最近、そんな自分を隠して、こどもたちに教え続けることに自信がなくなって、それで、こどもたちの前で本当のことをいって、土下座したあやまろうかと思っていたの・・・」。

Aさんは、その教会のほかの信徒の方々同様、「やさしくて、きれいで、信仰深い・・・」クリスチャンであると思っていましたので、私は、彼女の「告白」に驚いてしまいました。私は、こころの中で、イエス様に祈っていました。「イエス様、私にこの姉妹に語りかけることばをください・・・」。

「教会学校の先生をやめる必要はないと思います。こどもの前で告白して謝る必要などありません。そんなことをしたら、先生を慕っているこどもをただ悲しませるだけです。先生だって、好きなこどもたちと離れるのは耐えられないんじゃないですか。クリスチャンソン先生も私と同じことを話されるとおもいます・・・。」

そのあと、いろいろなことを話したのですが、いまでは、すべて忘却のかなたにおいやってしまいました。

そのとき、「遊廓に売られる」・「遊女になる」・・・、それが、女性にどんなに精神的苦痛と悲しみをあたえるものであるのか、知りました。「遊廓」・「遊女」・「売春」・・・、そのことばを聞くたびに、あの明るくて、常にこどもに力と勇気をあたえていたAさんの悲しみに満ちた表情を思い起こすようになりました。

その後も、Aさんと一緒に、小学校5・6年生クラスを教えていました。その話題には、Aさんは二度と触れられることはありませんでした。

こんな話をするのは、『部落学序説』の筆者が、「女性差別」をする側に立っていない・・・ということを主張する、あるいは自己弁明するためではありません。むしろ、「遊廓」・「遊女」・「売春」に携わる人びとに対して、差別的な体質をもっていることを確認するためです。

『部落学序説』で、部落問題をとりあげる筆者の立場を「差別(真)」におきました。「穢多」・「非人」・「部落民」・・・について考えるときだけでなく、「遊廓」・「遊女」・「売春」・・・について考えるときも、筆者の立場は、「差別(真)」であると認めざるを得ません。

筆者が、病院の検査室で臨床病理検査に従事していたとき、看護婦さんがやってきて、「少し手伝って!」というのです。病床についたまま起き上がることができない患者さんの体重測定をするというのです。患者さんを抱えたまま体重をはかって、そのあと私の体重を差し引いて患者さんの体重を算出するというのです。

看護婦さんについていった病室は、性病患者が入院している部屋でした。その部屋には、梅毒患者のおばあさん2人が入院していました。医者や看護婦さんから聞いた話では、昔、遊廓にいた女性とかで、そのとき、梅毒に感染し、末期症状に入っている・・・ということでした。

看護婦さんは、「あなたは、そちらのおばあさんを抱っこして体重計に乗って・・・」と指示されるので、ちいさくなったおばあさんを両手ですくいあげるように抱えて、体重計にのりました。看護婦さんは、もうひとりのおばあさんに、「さあ、おばあさんは、わたしがおんぶしてあげますからね・・・」と話しかけました。すると、そのおばあさん、「わたしも、あのおばあさんのように、若い男の人に抱っこされて体重を測ってほしい・・・」というのです。私は、そのおばあさんの声を聞いて、一瞬、ゾッとしたのです。寒けが、背中の中を通り過ぎて行きました。私は、抱えていたおばあさんをベットに戻すと、その部屋を出てしまいました。そして必要以上に自分の手を逆性石鹸液で消毒したのです。

なぜ、寒けがしたのか、ゾッとしたのかわかりません。

しかし、その瞬間、自分の差別性に気づいて、非常に落ち込んでしまいました。

イエス様は、病人を癒すために手をさしのべられた・・・。それは、非常に勇気のいることであると感じたのです。筆者とイエス・キリストの教えとの距離の隔たりと、筆者自身の中にある差別性に、いやおうもなく直面させられたのです。

その日、家に帰って、母にその話をしたら、母から、「あなたって、冷たいのね。体重測るだけなのだから、そのおばあさん、だっこしてあげたらよかったのに・・・。お年寄りは大切にしなければ・・・。自分で好き好んでそんな病気になったわけではないのだから・・・。」ということばが返ってきて、筆者はますます、自分の中にある差別性を認めざるを得ませんでした。

この世の中には、いろいろな差別があります。差別があるところ、差別者と被差別者が存在します。

筆者は、二つの出来事(出会い)を通して、筆者自身の中に、矛盾した思いが同居していることを知ったのです。それ以来、どのような差別に対しても、「私は差別していない・・・」、「私は差別しない・・・」と断言することはできなくなりました。

梅毒の末期患者のおばあさんに対して投げかけた、自分の中にある差別的なまなざしが、いつも、ちらついてしまうからです。筆者の記憶の中に刺さった刺(とげ)のようなものです。その刺は、抜こうとしても抜くことができない刺です。

上記の資料の中で、そんな筆者に、一番しっくり入ってくる資料は、上野千鶴子著『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)です。さまざまな資料を紹介してくれるのは、総合女性史研究会『日本女性の歴史 性・愛・家族』(角川選書)と日本近代思想体系『家と村』(岩波書店)・『差別の諸相』(岩波書店)です。

沖浦和光著『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』・池田弥三郎著『性の民俗誌』・赤松啓介著『差別の民俗学』・山川菊枝著『武家の女性』・高橋貞樹著『被差別部落一千年史』は、批判検証の対象として引用します。

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