2021/10/02

「賤民史観」と遊女 その2 差別社会の中の「前理解」

「賤民史観」と遊女 その2 差別社会の中の「前理解」

明治維新以降、構築されてきた近代中央集権国家・明治天皇制国家・・・、それは、「総体」として「差別システム」の社会です。

その国の制度・システムが差別的に構築されている社会にあっては、その差別は、公教育によって、国民の隅々まで周知徹底されます。そういう差別社会に身を置いているとき、それらの差別とは何のかかわりをもたないで、超差別的に生きるということはほとんど不可能です。

日本の中産階級・知識階級の中には、「私は、差別者ではないし、差別的体質ももっていない。」と豪語するひとがすくなからずいます。

部落差別問題に関する筆者の乏しい経験からしても、「私は、差別者ではないし、差別的体質ももっていない。」と力説しながら、被差別部落の側にその身を擦り寄せていく学者・研究者・教育者の姿を何度も目にしました。

『部落学序説』の筆者の目からみると、そういうひとに限って、他者の差別性を批判・糾弾することに熱心です。先進的に「差別しない」で生きている立場から、後進的な「差別しながら」生きているひとびとに対する批判・糾弾が展開されます。

『部落学序説』の筆者は、所属している宗教教団の中にあっては、常に、「先進的」な立場ではなく「後進的」は立場にたっていると断定されてきました。部落差別だけでなく、在日韓国人・朝鮮人差別、女性差別、労働者差別、人種差別、障害者差別などの差別問題を担う「先進的」な牧師・信徒・運動家からも、筆者の「後進性」を指摘されてきました。筆者は、いつも、問われながら、その問いになんとか自分なりに答えようと努力してきました。なかなか、納得のいく仕方でその問いに答えることはできないのですが・・・。

しかし、問われ、問われ、問われ続ける中で、「なにかおかしい・・・」と感じはじめたのです。彼らはほんとうに、部落差別問題・部落解放運動に「先進的」に関わっているのだろうか・・・と、彼らの思想と言葉の背後に見え隠れする、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」や「愚民論」の存在に疑義の念を抱くようになったのです。

誰でも、クリスチャンになるためには、洗礼を受けなければなりませんが、その洗礼に先立って、求道者会で信仰問答を学ぶことが義務づけられます。その信仰問答のテキストのひとつに、『ハイデルベルク信仰問答』があります。

その第1問に、「生きるにも死ぬにも、あなたのただひとつの慰めは何ですか」という問いがあります。

この問いは、信仰告白の最初のことばであると同時に最後のことばです。

当然、この信仰問答に目を通したことがある、日本基督教団のある牧師は、このように語ります。つい、「ある牧師・・・」という表現をしていますが、彼は、東岡山治といって、戦後の日本基督教団の中で最初に部落民宣言をした牧師で、現在も日本基督教団部落解放センターの実質的な指導者です。

その東岡山治が、その著『盥の水を箸で廻せ』の中でこのような意味のことを語っています。

問:「農民の唯一のなぐさめ」は何ですか。
答:「農民の心の安らぎは、「えた、非人」を下におくということです。自分より下におかれた者に対する憎しみを持って生きるということが、虐げられた農民の唯一のなぐさめ」です。

原文そのものを掲載します。「貧乏と差別の苦しみにつきおとされた農民の心の安らぎは、「えた、非人」を下におくということです。自分より下におかれた者に対する憎しみを持って生きるということが、虐げられた農民の唯一のなぐさめだったのです。幕府は諸大名を差別し、さらに諸大名は一般武士を差別する。武士はまた町人や商人を差別する。そしてそれらの多くの人たちが寄ってたかって農民を差別する。その農民はその近くにいる「えた、非人」をさげすんで、それを徹底的に憎むことによって心の安らぎを覚えたのです」。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からすると、東岡山治のことばは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」の典型です。

彼は、同志社大学大学院を卒業した被差別部落出身者ですが、「学歴・資格」をもった被差別部落出身の彼は、「学歴・資格」をもった知識階級・中産階級の学者・研究者・教育者と同質の差別思想の担い手であるといえます。

「農民の唯一のなぐさめは何ですか。」という問いに、「被差別部落のひとびとを差別することです。」と答える彼の思想は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」・「愚民論」そのものです。

近世・近代・現代を通じて、「貧乏百姓」の末裔である筆者は、うまれてからこの方、いちども、そんな「なぐさめ」(部落差別)に依拠して生きたことはありません。筆者の父親の倒産によって、貧乏と病気の悪連鎖の中、家族全員が苦闘していたときも、そんな「なぐさめ」(部落差別)に依拠したことはいちどもありません。

こどものころ、徳島県美馬郡の農家の末っ子としてうまれた筆者の母は、こどもころから病弱であったとかで、弱い立場のひとびとに対するやさしい気持ちの持ち主でした。母から聞かされたのは、「ほかのひとと自分をくらべないで、自分と闘って自分に勝つことができるひとになりなさい・・・」ということばでした。

東岡山治が、「農民」を侮蔑的・差別的にみるのは、彼自身が、被差別部落出身者といっても、ほんとうは「被差別者」ではなく「差別者」の立場にたっている証拠でしょう。

東岡山治が原田伴彦のことばを流用して、「士族には、今日の金額で、5兆円の補助金を出し、救済の道を開いたのに、被差別部落には何ひとつ援助しなかった・・・」といって、「農民」の存在を彼の視野の外に追いやるのは、東岡山治が、農民に対する、癒しがたい差別性をもっていることを物語っています。

彼の論法は、旧「武士」階級の基督者に対しては有効な戦略かもしれませんが、旧「百姓」階級の基督者である筆者にとっては、唾棄すべき、まったくの差別的言辞でしかありません。『部落学序説』の筆者の視点・資格・視座からすると、彼の論法は、居直り強盗・説教強盗と同質の論法に思えてなりません。

近代・現代の差別的な社会の中に、生まれ、育ち、教育を受け、社会通念を共有しながら生きているものは、いやおうなく、差別教育を受けてきたことを、長い人生の間のいつかの場面で認めざるを得なくなるでしょう。「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。・・・わたしは、なんというみじめな人間なのだろう・・・」。新約聖書の「ローマ人への手紙」の著者・パウロのことばに類した状況に直面せざるを得ないのです。(続く)

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