2021/10/02

部落差別完全解消への提言(図解)

部落差別完全解消への提言(図解)


筆者が生まれた家は海に面していて、石段があり、小さな船が発着できるようになっていました。



引き潮のときは、砂浜があらわれて、そこにはいろいろな生き物がうごめいていました。

筆者がその中でも興味があったのが「潮まねき」でした。「潮まねき」というのは、小さなカニのことで、オスのはさみは片方が異常に大きく、「潮まねき」のからだと同じくらいあります。

「潮まねき」の甲羅は、とてもきれいな色をしていて、なにか、海の生きた宝石のように思っていました。

なんとかして、その「潮まねき」をつかまえて自分のものにしたい・・・、こどもごころにそのような衝動を覚えたことがありますが、しかし、ちいさなこどもがこの「潮まねき」をつかまえることは至難のわざです。

というのは、つかまえようとして、そっと近づいていくのですが、気配を察した「潮まねき」は、さっと、もののみごとにそれぞれの穴の中に一斉に姿を消してしまうのです。点と線の単位ではなく面の単位で「潮まねき」は姿を消してしまうのです。

2002(平成14)年3月末をもって、国は、同和対策事業・同和教育事業の終了宣言を出します。

そのとき、それまで部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事していた学者・研究者・教育者・運動家・政治家、そして、いままであまり『部落学序説』で取り上げることはしませんでしたが、マスコミの関係者も、一瞬にして、部落問題・同和問題から手を引いてしまいました。

その身の処し方の見事さ、筆者にとっては、幼いころにみた「潮まねき」が一瞬にしてその穴の中に逃げ込み姿を消してしまう光景を重ね合わせてみるほどでした。

前回、「どうすれば部落差別はなくなるのか」という主題で執筆しましたが、「どうすれば部落差別はなくなるのか」という問いに対して適切は答えを提示するためには、「誰がどのようにして部落差別をつくっていったのか」という問いに対する充分な解答が手元にある必要があります。

「部落差別はだれがつくったのか?」
「部落差別はどのようにしてつくられたのか?」

これまでの『部落学序説』は、その問いに対する充分な答えを提示してきました。「被差別部落」の起源については、いろいろな説があります。政治起源説・職業起源説・宗教起源説・人種起源説・・・など。『部落学序説』の筆者の立場は、何度も言及してきましたように、広義の政治起源説です。「差別」は、「権力」によってつくりだされます。特に「国家権力」によってつくりだされます。

それでは、「部落差別はだれがつくったのか?」という問いに対して、「国家権力がつくった」と答えを出すことで、充分満足することができる解答を入手することができるのか・・・といいますと決してそうではありません。「国家権力」は通常「国家権力」として具体的に存在しているのではなく、「国家権力」は、その権力が分散された形で存在しているからです。

『部落学序説』は、「部落差別はだれがつくったのか?」という問いに対して、「部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事していた学者・研究者・教育者・運動家・政治家である」との答えを提示することになります。

日本の近代以降の社会に「部落差別」をつくりだしたのは、明治以降の日本の歴史学と歴史教育の担い手である、学者・研究者・教育者・運動家・政治家・・・、その中でも、「学者・研究者・教育者」であると考えています。近代部落差別をつくりだし、多くの「被差別部落」のひとびとを部落差別の奈落に突き落とした「戦犯」は、「旧穢多」の末裔を「賤民」とみなした、「賤民史観」に立脚する学者・研究者・教育者・・・たちです。

『部落学序説』の筆者である私から、「賤民史観」の持ち主、またはその伝播者として名指しで批判された学者・研究者・教育者は決して少なくありません。戦後の部落史研究に指導的役割と大きな影響を与えた学者・研究者・教育者も筆者の批判の対象になっています。大学という高等教育の場で、小・中・高の教師を養成した学者・研究者は、社会科目・歴史科目の担当者に、その「賤民史観」に彩られた歴史を、本当の歴史として児童・生徒に教えるよう指導してきました。「学者・研究者」と「教育者」の間にある知的階層の序列は厳しいものがあります。

日本の明治以降の教育制度の中で、「教育者」の多くは、文部省の出す、国の教育政策の忠実なしもべとしての地位にあまんじてきました。「教育者」の依拠するのは、同じく国の高等教育機関である大学の「学者・研究者」の研究成果でした。その「学者・研究者」は、歴史学を「国家の、国家による、国家のための歴史学」と位置づけ、それぞれの時代に応じて、国家の施策を先取り・追従する形で、国家から制御・管理され、また、「学者・研究者」も自己制御・自己管理してきました。

日本の歴史学、特に、部落史研究は、ボトムアップ式に、地方に散在するさまざまな「穢多非人」あるいは「旧穢多非人」に関する資料収集と研究成果を集大成し批判検証のうえ総合するという形式を採用することはありませんでした。たとえ、そのような研究をするひとが登場してきたとしても、早晩、部落史研究の世界から排除・駆逐されていきました。

日本の歴史学は、明治以降、今も昔も、トップダウン式に遂行されてきたのです。日本国家の高等教育機関である大学の「学者・研究者」によって、近代日本の歴史に組み込まれることを是認された個々の歴史の出来事だけが、一般史・部落史の「正史」の中に組み込まれてきたのです。

歴史をふりかえると、そこに綴られた歴史は、必ずしも、明治天皇制国家・近代中央集権国家としての「国」に都合のいいものばかりではありませんでした。「国」は、文部行政という名目で、「国」とその為政者に不都合と思われる歴史の事実を、「触れない」・「研究対象として認めない」・「国内政治・外国交際問題に抵触する問題の研究・公表は許可しない」・「もし官の承諾なしに実行するものがあれば厳罰をもって処する」・・・ことで徹底的に隠蔽しました。

特に部落史の研究に際しては、「学者・研究者」の科学的(学問的)情熱が注がれる場合がすくなく、戦前の部落史研究の枠組みが、戦後においても、そのまま、ほとんど何も変わらない形で踏襲されることになりました。そして、日本の歴史学に内在するようになった、日本の歴史学上の差別思想・「賤民史観」は、戦後一貫して、ますます強固に主張されるようになったのです。

「賤民」は、「賤民」と呼ばれるに相応しい実体・実態があったから「賤民」とされ、「穢多」は、「穢れ多い」という実体・実態があったから「穢多」とされたと解釈する「学者・研究者」があとをたちませんでした。

その結果、それに携わってきた「学者・研究者」によって、「賤民史観形成史」まで執筆されるようになりました。沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く 戦後思想の流れの中で』(解放出版社)はその典型です。沖浦自身によっても、その研究は、「部落解放研究史」として認識され、決して、差別的な「賤民史観形成史」として認識されていないことは、問題の深刻さを物語っています。

『部落学序説』の筆者からみると、日本の歴史学に内在する「賤民史観」は、「被差別部落」の人びとを、昔、拘束してきた、そして、今も、拘束し、これからも、拘束し続けるであろう差別の鉄鎖なのです。日本の歴史学に内在することになった「賤民史観」をとりのぞき、「被差別部落」のひとびとの精神世界を差別の鉄鎖から解き放たない限り、部落差別の完全解消はありえないのです。

日本の「部落差別」が、「学者・研究者」から「教育者」へ、「教育者」から「国民(被差別部落のひとびとを含む)」へと、トップダウン式に教育・指導が徹底されてきたことを考慮すると、日本の社会から部落差別をとりのぞくための最も有効な手段は、同じトップダウン式に「賤民史観」を取り除くいとなみではないかと思います。

しかし、かつて、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に奉仕してきた「学者・研究者・教育者」が、自らを問い直し、批判検証の上、主体的に差別思想としての「賤民史観」を取り除く作業を遂行することができるのかどうか・・・。かつて、「皇国史観」に従って、戦争に強力した「学者・研究者・教育者」が戦後、手のひらを返すように「民主教育」に転身したときと同じように、さしたる自己批判・自己変革もなしに、世の流れの中に迎合してしまったのと同じ結果にいたらないか、という危惧の思いを持つひともおられるのではないかと思います。

筆者の中には、まだ、「学者・研究者・教育者」に対する尊敬の念が残っているのでしょう。『部落学序説』執筆にあたって、散策した歴史学・社会学・宗教学・民俗学・政治学・・・などの研究者の研究姿勢とその論文の内容に深く感銘・感化を受ける場合が少なくありませんでした。学会の動きとは別なところで、「学者・研究者・教育者」の良心はいまもなお健在してその生命力を脈々と伝えていると信じています。

本当の科学(学問)は、その研究のいとなみの中に、自己批判・自己検証を含んでいるものです。みずからの科学(学問)の科学性(学問性)を問うことのできない「学者・研究者・教育者」は、単なる「思想家」に過ぎません。他者がつくった「思想」の単なる伝播者に過ぎません。そういう「学者・研究者・教育者」らしからぬ「学者・研究者・教育者」には、あまり期待を寄せる必要はありません。彼らは、本質的に、時代と状況に左右され、場合によっては、「賤民史観」を放棄し、実証主義的研究に徹する道を選択することもやぶさかではないでしょう。世の流れに、いつでも身をゆだねて、うまく生き延びていくことができるでしょうから・・・。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、それに気づいた「学者・研究者・教育者」によって徹底的に取り除かれていかなければならないのです。そうしないと、いつまでたっても、日本の社会から、「賤民史観」に裏打ちされて部落差別を完全解消へ導くことはできないでしょう。

その際、「学者・研究者・教育者」は、トップダウン式の部落史研究方式に加えて、ボトルアップ式の研究方法をもっと考慮しなければなりません。戦後の部落史研究の流れの中で、「賤民史観」という差別思想の存在に気付き、「賤民史観」に充ちた一般説・通説に違うような研究と論文を公表している「学者・研究者・教育者」は少なくありません。彼らは、「賤民史観」を固守する「学者・研究者・教育者」によって排除・疎外されてきましたが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に、歴史学者・研究者として、その魂を売り渡すことはなかったのです。

「賤民史観」に依拠する「学者・研究者・教育者」が、部落史上の「例外」として、その「正史」の叙述から排除した膨大な歴史資料・伝承を、「賤民史観」から切り離して、「賤民史観」に依拠することなく、実証主義的に見直すべきです。部落史の「例外」は、決して「例外」ではなく、「賤民史観」を克服するための、ひいては、日本の社会から部落差別を除去するための極めて貴重な史料群・資料群なのです。

この文章の冒頭に掲載している図は、「賤民史観」を取り除くための方策を図示したものです。

Ⅰ(黄色の円
)は、近代歴史学が、学術用語として「賤民」概念を導入する以前の歴史上の「穢多・非人」の状態をしめしています。「等身大」の「穢多・非人」像です。

Ⅱは、Ⅰ(
)を核として、近代歴史学によって、「穢多・非人」をあらわす学術用語として「賤民」概念が導入され、皇国史観的「賤民史観」構築の基礎作りがなされた状況をしめしています。それは、核()のまわりを取り囲む殻()として表現されています。政治用語・行政用語として「特殊部落民」という概念が創設される前の時代までをさします。

Ⅲは、日本政府によって、「国内政治・外国交際」の要請から「旧穢多非人」を「特殊部落民」として「棄民」扱いされるようになった時代の「賤民」概念をさしています。Ⅰの核(
)を取り囲む殻()の上に更に、「唯物史観」的「賤民」概念の外延・内包が付加され、新しい殻()が付加された状態を示しています。

普通、「歴史観」が見直されますと、古い歴史観はとりのぞかれ、新しい歴史観が、歴史の核の殻とされます。ところが、こと部落史についていえば、水平社運動の時代の、それにかかわった人びとの個性と多様性にみちた言動を考慮するとき、「古い歴史観がとりのぞかれ新しい歴史観が導入された・・・」という形ではなく、歴史の核(
)の上に、「皇国史観」という殻()や「唯物史観」という殻()が重層的に付加された状態であることに気づかされます。相反する「皇国史観」()と「唯物史観」()とが、「賤民史観」という枠組みの中で、共存・融合の相互補完的役割をになうようになるのです。

戦後、部落史研究はどうなったのかといいますと、Ⅰの歴史の核(
)に立ち戻ってそこから研究しなおされるのではなく、Ⅲの「皇国史観」()と「唯物史観」()に共通する「賤民史観」を前提にして、戦後の部落史研究が再開されるのです。

戦後導入された「未解放部落」概念・「被差別部落概念」、また国の同和行政によってつくられた「同和地区」概念は、戦前の「皇国史観」(
)と「唯物史観」()を取り除くことによって、部落史の見直しの道を開いたのではなく、逆に、戦前の「皇国史観」()と「唯物史観」()の殻の上に戦後の新しい殻()をかぶせていったのです。

そして、「賤民史観」的枠組みは、戦前の「賤民史観」(「皇国史観」(
)・「唯物史観」())と戦後の「賤民史観」とが渾然一体となって、「被差別部落」の人びとを「賤民」的実体として描く、すべての「賤」的なものをすべて投げ込むことができ、それを「被差別部落」の人びとに投げかけることができる「装置」として、思想的に無節操は融合型の「賤民史観」(Ⅴの)を創設していったのです。

「賤民史観」の構築は、今もなお現在進行形なのです。

「賤民史観」的研究の熱心な担い手である沖浦和光は、その著『「部落史」論争を読み解く 戦後思想の流れの中で』のあとがきで、このように綴っています。

「ところで、特に90年代に入ってからさまざまの視点から多様な部落史像が語られるようになった。活発な論争が展開されること自体は、歴史研究の水準を高める必須の契機なのだが、それにしても先学たちが苦心して蓄積してきたこれまでの研究成果を充分に咀嚼しない粗雑な仕事が一部にみられたことも、残念ながら否定できない」。

「先学たちが苦心して蓄積してきたこれまでの研究成果」が、「部落差別」の完全解消を目的とし、日本の社会の中から部落差別を取り除くことに貢献しているならともかく、どんなに歴史学研究の粋を尽くしていても「賤民史観」に基づく差別思想伝播の温床でしかないとしたら、「先学たち」に対する批判検証もやむを得ない場合もあると思われます。その場合でも、彼らが残した研究(Ⅴ)から、すべての「賤民史観」的「殻」(Ⅴ)をとりのぞき、Ⅵの研究状態を実現すべきです。

何度も指摘しますが、「賤民史観」は日本の歴史学(社会学・宗教学・民俗学・文化学・・・等)に内在する差別思想なのです。この差別思想を、「学者・研究者」の世界から取り除かれない限り、「教育者・運動家」の世界からも、差別思想は取り除かれることはないのです。「教育者・運動家」から差別思想が除去されないということは、一般のひとびとも被差別部落のひとびとも、その差別思想から解放されえない・・・、ということを意味します。

日本の知識階級・中産階級が自らの「差別思想」を払拭しない限り、部落差別は(部落差別だけでなく、近代的なすべての差別は)決してなくならないでしょう。

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