2021/10/01

弾直記と明治維新 4.現代の部落解放運動家に継承されざる弾直樹

弾直記と明治維新 4.現代の部落解放運動家に継承されざる弾直樹


『盥の水を箸で廻せ』(中川書店)の著者・東岡山治は、1930年11月23日、広島県福山市の被差別部落に生まれたといいます。

「幼いときからたくさんの差別を受けてきた」そうですが、あるとき、「部落民宣言」をして、「全国六千部落、三百万人への差別に対する怒りに燃えて立ち上がり、解放運動をはじめた」といいます。

「日本の差別社会をこわすことが私の使命」として、「誇りと自信」を持って生きてきたといいます。

その東岡山治は、どのような歴史観を持っていたのでしょうか。

東岡は、「私なりの解放史」を述べて、「賤民」の歴史と認識しているようです。「賤民」概念は、引用文の中にではなく、東岡の地の文に出てきます。

古代・中世のそれぞれの時代の「賤民」は、その時代の衰退と共に消滅してしまったといいます。「賤民制は、二度の変動期によって消滅したのである。すなわち、賤民は昔からそうであったのではない」といいます。

東岡は、「賤民」と「賤民制」は消滅したけれども、「人間を差別するという考え」は、近世にまで引き継がれ、17世紀、徳川幕府によって、「士・農・工・商・えた・非人」という「差別階級に人民は分断された」といいます。

東岡の理解では、「士・農・工・商」の間だけでなく、近世の「賤民」である「えた・非人」の間にも差別は存在していたことになります。差別されていた「賤民」の中に、さらに、「えた」・「非人」という差別が存在していたというのです。

近世の「賤民」である「えた・非人」も、「・・・同志の全国的連帯もなく、ただ上に対して服従のみで、批判は許されず、下に強く優勢的姿勢でいきざるをえなかった」といいます。「穢多」は、その上にいる「武士」に対して絶対的服従を余儀なくされた分、「えた」より下の身分である「非人」に対して、「優越的姿勢」で生きてきたのでしょうか・・・。

東岡は、このような幕藩体制を、「人間同志の人格的破壊体制」と呼びます。

東岡は、「幕府の搾取に苦しむ農民」の「唯一の慰め」は、「どんなに苦しくとも「えた・非人」よりはましだと思わされて耐えてきたこと」であるといいます。

東岡の理論によると、同じ「賤民」の中にあっては、「えた」の「唯一の慰め」は、「どんなに苦しくとも「非人」よりはまだましだと思わされて耐えてきたこと」なのでしょうか・・・。

東岡は、自分とその先祖は、「えた」に属していて「非人」ではないと考えているようです。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の研究者や教育者によって、「穢多」は「穢れ多し」、「非人」は「人に非ず」と解釈されてきました。「穢多」も「非人」も等しく差別語ないし差別表現であるはずなのですが、東岡は、「穢多」については、「穢れ多し」のイメージを退けるために、音によって、「えた」と表現します。そして、「穢多」より下の身分である「非人」については、音によって、「ひにん」と表現するのではなく、文字通り「非人」と表現するのです。

近世幕藩体制下の「身分差別」は、現在の東岡の意識の中にも大きな影を落としているようです。

この『部落学序説』では、「士農工商穢多非人」という図式を廃棄しました。近世幕藩体制下の歴史資料を分析すると、そのような図式は存在していなかったということが明らかになったからです。「士農工商穢多非人」という発想は、近代において、歴史学者によって提唱され、教育者によって、日本の津々浦々の国民に流布されたことがらなのです。

『紀州 木の国・根の国物語』の著者・中上健次は、その旅のおわりに、「私は、自分が被差別部落とは何なのか、差別、被差別とは何なのか、何ひとつわからないのに思い至る・・・」と語りますが、中上は、「この部落差別なるものが封建遺制であるとは、私は思わない。」といいます。そして、「差別は現にある」というのです。

中上は、「たとえばこうである」と実例をあげて言及していますが、中上は、「差別とは構造の事を指す」といいます。「その構造的差別は、ひとの眼につきにくい。構造的差別が露呈する事はほとんどない」といいます。

東岡は、「穢多・非人」という身分構造を、「えた・非人」と表現することで、「穢多」を「穢多」と表現することは許さないが、「非人」は「非人」として表現することは何ら問題ではないと、無意識のうちに判断しているようです。

東岡は、「賤民史観」だけでなく「愚民論」の上にも立脚します。

東岡は、近世幕藩体制下の「虐げられた」民としての「農民」の「唯一の慰め」は、「自分より下におかれた者に対する憎しみを持って生きるということ」であるといいます。「貧乏と差別の苦しみにつきおとされた農民の心の安らぎは、「えた、非人」を下におくということ」だというのです。東岡は、さらに言葉を重ねます。「武士」だけでなく、「町人や商人」までもが、「寄ってたかって農民を差別する」というのです。彼等によって差別された「農民はその近くにいる「えた、非人」をさげすんで、それを徹底的に憎むことによって心の安らぎを覚えたのです。」というのです・・・。

東岡は、「えた・非人」を「差別する仕組みに非常な憤りを感じる」といいます。しかし、東岡は、「えた・非人」の構造の中の「非人」を無意識的に視野の外に追いやるのと同じく、東岡がいう「虐げられた農民」を「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」に満ちあふれた存在として視野の外に追いやるのです。

私は、東岡に尋ねてみたいと思います。

近世幕藩体制下の「農民」は、そんなどうしようもない、みじめであわれな精神の持ち主だったのかと・・・。

この『部落学序説』でとりあげた、由緒正しき百姓の末裔である筆者の先祖たち、つまり、近世幕藩体制下の「百姓」は、決してそのような存在ではありませんでした。なにしろ、自分の土地を耕し、自分で作ったもので生きていたのですから。

藩主や藩士が不正を働き、「百姓」をあざむき、私服を肥やし、その反動として、「百姓」を困窮に追いやったときは、何らためらうことなく、「天理人事に相背き候」と主張して、「百姓一揆」に訴えたのです。

その訴えが通ると、百姓一揆の首謀者たちは、子々孫々の繁栄を祈りながら、当時の法に従って粛々と刑場の露と消えていったのです。その、正義を貫き通すという、「百姓道」の凛々しさは「武士道」のはるかに及ばないところのものです。

天明六年(1786年)、備後国福山藩で、百姓一揆があった際、鉄砲を構えて、一揆の鎮圧を図ろうとする武士や穢多に対して、福山藩の百姓はこのように語りかけるのです。「汝等に打たるヽ物は鳩や雉計りなり。御百姓をば何とて打取る事成べきぞ」(「阿部野童子問」)と叫んだといわれます。また、「士農工商天下の遊民・・・天下諸民皆百姓なり。其命を養ふ故に農民ばかりを百姓と云ふなり。汝等も百姓に養るなり。此道理を知らずして百姓杯と罵るは不届者なり。其処をのけて通せ。」(「遠野唐丹寝物語」)といったといいます。

近世幕藩体制下の百姓一揆の件数は、青木虹二著『百姓一揆の年次的研究』によれば、「2967件にたっし、1年間の平均は10.6件になる。これに、都市騒擾380件と村方騒動990件を加えれば4000件を越え、今後の研究によってなお総件数は増大するであろう」と言われます(岩波日本思想大系『民衆運動の思想』)。

東岡の「百姓」理解、「農民」理解は、極めて、屈折したもので、差別的なものです。

「祈りと愛をもって差別させない、差別を見抜く人を育てるために私は生まれてきた」、「差別する人を変えていく闘いを続けている・・・」と語る東岡の、「百姓」理解、「農民」理解は、その差別性の故に、唖然とさせられるものがあります。

東岡は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、「藩士」や「士雇」同様、「非常民」として、百姓一揆に際しては、権力側にたち、それを鎮圧する側であっことについては、常に、沈黙します。「同心・目明し・穢多・非人」によって、打ち下ろされる十手や六尺棒によって、どれだけたくさんの百姓が涙を流したことか・・・。東岡は、一片の考察すらしないのです。

しかも、東岡がいう、同じ「賤民」に属する「非人」について、「穢多のさらにその下位にとじこめられた人々である」といいます。

「非人たちは、そして被差別部落の人々は、牛や馬を殺すことはあっても、人の生命を殺す刃をもっていなかった。生命の尊さを誰よりも身にしみて感じていた人々が、どうして人を殺すことができようということである。どんなに貧しくとも差別に耐え、人の生命をいとおしむ心を失わなかったのである。・・・人間として尊い生命を守ることを欠落させた武士階級は、不浄を不浄と感じなくなった人々であるともいえるのではないか」。

東岡の中には、現在の被差別部落の人々は、純粋無垢に、「いわれなき差別」を受けてきた人々であるという認識があるのかもしれません。

しかし、私は、この世の中に、「いわれなき差別」などありはしないと考えています。差別を本当に取り除きたいと思うなら、その差別の背景にある「いわれ」を「いわれ」としてきちんと受け止めてこそ、本当の差別なき社会をもたらすことができるのではないかと思います。

東岡の「部落民」理解は、東岡の「人間としての優しさ」(筆者の言葉)が作り出した「虚構」・「幻想」ではないかと思います。

東岡の語る言葉を信じた、被差別部落の青年が、ある日、ある時、歴史資料をひもとき、東岡の語る言葉がすべて歴史の事実とことなることを確信したとき、その青年はどのような状態に陥ることになるのでしょうか。

何度も同じことを語りますが、私は、人間としての偉大さは、現実から目を背けて、「虚構」・「幻想」の中に逃げ込むことではなくて、また、そうすることで、「差別」の現実から逃亡することではなくて、歴史の事実は事実として、「所与の人生」を受け止めて生きていくことにあると思います。

筆者は、『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治を、個人的に批判・中傷しているのではありません。

部落解放運動に、「誇りと自信」を持ってきた東岡にして、なお、無意識に身にまとっている差別性は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」や「愚民論」に起因するものであると思っています。

差別・被差別を問わず、私たちの中から、「賤民史観」や「愚民論」を取り除かなければ、既存の差別社会を根底から覆すことはできないのです。

私は、『盥の水を箸で廻せ』を繰り返し読みながら、ふと、思うのです。この書の著者・東岡山治は、「不幸にして、被差別部落に生まれてきた、単なる差別者でしかないのではないか・・・」と。近世幕藩体制下の関八州の穢多頭・弾左衞門の「思想」と『盥の水を箸で廻せ』の著者の「思想」との間に共通性が乏しい事実は、「東岡山治は、もしかしたら、穢多の末裔ではなく、私と同じ、由緒正しき貧乏百姓の末裔ではないか・・・。近代に入って、明治政府の民衆切り捨て政策によって、なんからの事情で、被差別部落に移りすんだ、ただの百姓の末裔ではないか・・・。」と思わさせられるのです。

その場合の被差別のしるしとしてあるのは、『部落学序説』第1章~3章で見てきた「穢多」の「役務」と「家職」に対する本当の歴史ではなく、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のみになります。「賤民史観」をどんなに取り繕っても、部落解放の真の姿を描くことはできません。

「弾直記と東岡山治」との間、近世の「穢多」と現代の被差別部落の人々との間には、越えることのできない、暗くて深い断絶があることを示しています。

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