2021/10/01

弾直記と明治維新  3.忘れられた弾直記

弾直記と明治維新  3.忘れられた弾直記


明治初期に書かれた『賤称除去願』の著者・弾直記は、関八州の「穢多」頭という「賤称」こそ嫌いましたが、「穢多」身分として、「穢多」の「役務」と「家職」を忌避したわけではありませんでした。

むしろ、「穢多」の「役務」と「家職」により徹底して奉職することで、明治新政府に対しても忠節を全うしようとします。

そういう意味では、弾直記は、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティの持ち主でした。この『部落学序説』で、「穢多」を「衛手」(エタと読む・司法・警察官のこと)、そして、より一般的概念として「非常民」として把握してきたところに従いますと、弾直記は、「昨日、衛手であった」、「今日、衛手である」、「明日も衛手であり続ける」・・・、言葉を変えれば、時代を越えて、司法・警察の職務に従事してきた弾直記の属する「穢多」は、「昨日、非常民であった」、「今日、非常民である」、「明日も非常民であり続ける」という、強烈な、過去・現在・未来に渡って、自己とその背後にある父祖たちの「同一性」の主張の持ち主であると言えます。

今日の被差別部落の人々は、弾直記と同じようなアイデンティティを所有することができるのでしょうか。「昨日、部落民であった」、「今日、部落民である」、「明日も部落民であり続ける」・・・、過去・現在・未来に渡って、「部落民」であり続けるというようなことが可能なのでしょうか・・・。

『部落の過去・現在・そして・・・』の座談会で発言している中島久恵は、歴史的に追求すると、被差別部落出身であると言えるが、その父親は、既に、被差別部落から離れて久しく、被差別部落出身であるという意識を持っていないといいます。そして、中島自身も、父親と同じく、「自分をどう考えていいのかわからない・・・」といいます。

一端、失ってしまったアイデンティティを取り戻すことは難しいようで、中島は、「部落民としてのアイデンティティーという問題はすでに私にとっては、もはやある意味ではどうでもいい問題で。他の人のこととしては差別を受けて苦しむ人がいて大変なことなんだからやらないといけないと思うんだけど、自分のこととしてはどうでもいいことで。・・・」といいます。

同じ座談会で発言している灘本昌久は、「執筆者紹介」によると、「京都大学文学部史学科卒業。大阪教育大学大学院教育学研究科終了。・・・近畿大学、京都外国語大学などで非常勤講師をつとめる。」とあります。

灘本は、「血統的には・・賤民の後裔」であるといいます。「母方の祖父は、大阪の豊中水平社の創立者」であるそうで、「灘本という名字をもっているかぎり、いずれ部落であることがわかる」と思った母親から、被差別部落出身であることを知らされるのです。

そのとき灘本は、「私のアイデンティティーにそれほど大きい影響を与えませんでした。」といいます。そして、京都大学に入って、部落史ゼミに参加するようになっても、「学生の時は、まわりの期待にそむかないように部落民として行動」したといいますが、「本当は部落民であることを知る前と後ではアイデンティティーに何の断絶もない」と断言します。

灘本は、「いま、ものすごい難しい時代に突入している」といいます。そして、部落解放運動についても、「だいたい、アイデンティティーのはっきりしない集団の運動なんての本来はありえない」といいます。

『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社・1991年)の座談会に参加した、被差別部落出身の知識階級に属する人々には、部落民としてアイデンティティをほとんど意識することなく生きていっているという現実があります。
灘本は、同書で、《「差別語」といかに向きあうか》を掲載していますが、「新平民」・「特殊部落」・「被圧迫部落」・「未解放部落」・「被差別部落」という呼称の研究成果を披露しますが、「おわりに」でこのように語ります。
「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。したがって、部落を部落として取り出されること自体を不快に感じる。どんな部落の呼称を生み出しても不快であることに変わりはない。それを突破して、一人の人間として誇りをもって生きていくには、穢多の末裔であることを公言してはばからない(誇るわけでもなく、卑下するでもなく)強い主体を作ることが不可欠である」。

灘本昌久は、被差別部落出身として、京都大学文学部史学科で、部落史のゼミに参加していながら、その歴史研究から、「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。」という帰結に達するのは、なぜなのでしょうか。

灘本の言葉や思考の中には、最後の弾左衞門である弾直記のような、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティ、「穢多」であることに自信と誇りをもっている姿の片鱗すら確認することはできないのです。

先祖の歴史を「恥ずかしい」という言葉で認識せざるを得ないところに、灘本昌久の思想的限界があるように思います。

灘本に、その限界を余儀なくさせているもの、私は、それこそ、日本の歴史学に内在する、差別思想である「賤民史観」ではないかと思います。日本の歴史学の精神と研究方法に忠実であればあるほど、この「賤民史観」は、灘本の精神構造深く組み込まれ、そこから容易に脱出することはできなくなるのです。

「穢多」につながる歴史から、切り離されて生きてきた「部落民」にとって、そのアイデンティティ、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティを取り戻すことが難しいのと同様、「部落民」でないものが、その意図が何であれ、自分のものにすることはさらに難しいと思われます。

『部落民とは誰か』(現代思想)で、渡辺俊雄は、被差別「部落出身ではない」といいます。しかし、周囲からは、「学生時代から部落問題研究会とかの活動をしていたし、就職したのは部落解放研究所というところですから、そんなところで仕事をする人間に、部落民でない人間がいるはずはない」と見られ、結婚するときにも、そのことで反対されたといいます。

「披露宴の時には両親もでてくれなかった」といいます。

そのとき、渡辺は決心するのです。「自分は部落民だとは思わないけれども、世間はそう見ているんだな。それなら僕は部落民になろうと思った・・・」といいます。しかし、渡辺は、「部落民」として行動しようとすればするほど、「部落民」として発言しようとすればするほど、「部落民ではないという気持ちが抜けきれなかった」といいます。

渡辺は、どんなに被差別部落の人々と深くかかわろうと、彼らの持っている「感覚」や「思い方」を自分のものにすることはできなかったといいます。

そして、あるとき、発想の転換を要求されるのです。

「部落問題にかかわるのならば、部落民になることが必要だと思っていた。でも部落民にならなくてはいけないと思うのはものすごくしんどかった。だけど、そういう違いは元々あるんだし、その違いは違いとして認めたらいいんだし、部落民ではないからといって部落問題に真剣に関われないということではないんだ。部落だから見れる、感じられることもあるけれども、部落だから分からない、あるいは部落外だから見えてくる問題もあるのではないか・・・。違いを認めあえばいいんじゃないかというのが、今のところ僕の結論です。アイデンティティというような言い方で議論するのがいいのかどうか、僕にはわからない・・・」。

私は、渡辺俊雄の、生きることへの、あるいは学問することへの真摯さから出てくる言葉であると思われます。

差別とは何か。

それは、その人から、本当の歴史をとりあげて、その代わりに、「みじめで、あわれで、気の毒な」「賤民史観」を強制することであると。そのひとの歴史は、そのひとの人生についての「物語」です。その歴史・物語は、いつも真実に裏打ちされる必要があります。真実な「物語」は、その人固有のものです。

この『部落学序説』の執筆の動機・起因となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語った話は、近世幕藩体制下の「穢多」の末裔であると、今日の歴史学者・教育者によってラベリングされ、「被差別」の状況に置かれながらも、差別の風雪に耐えて、父祖の歴史・物語を忘れることなく、子々孫々語り伝えている、そのような歴史・物語のことです。

その歴史・物語は、被差別部落出身であろうとなかろうと、「行きずり」の研究や教育によって「私物化」することができる類のものではありません。

「穢多」の末裔ではないのに、「穢多」の歴史を「私物化」して、自分のものとすることができたと思った瞬間、その歴史は、真実な歴史ではなく、いつのまにか、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に拘束され変質してしまっているのではないでしょうか。

「穢多」の本当の歴史を忘却した、あるいは看過した、研究者や教育者は、「賤民史観」しか身につけることができず、より強固に、「賤民史観」の主張を繰り返すようになるのではないでしょうか。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が、近世から近代へ、どのように歴史の旅をしていったのか、その真実な姿を追求する歴史学的研究を妨げるのは、歴史学的研究そのものなのです。「賤民史観」という差別思想は、「穢多」と「旧穢多」の歴史にフィルターをかけ、歴史の真実から遠ざけてしまいます。

『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治は、「穢多」の末裔として、「日本の差別社会をこわすことが私の使命」といいます。『学問と「世間」の著者・阿部謹也は、「差別が残存している理由の一つに「世間」意識がある」と指摘し、「被差別民に対する差別意識はこのように「世間」と不可分のものであり、「世間」を抜きにしては考えられない。」といいます。阿部謹也は、「日本の「世間」をこわすことが私の使命」と主張していると考えてよいでしょう。そして、前2者と違って、学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な存在でしかない、『部落学序説』の筆者である私は、由緒正しき貧乏百姓の末裔として、「賤民史観」をこわすことに執念を燃やしているのです。

近世から近代への時代の変革が何をもたらしたのか、その真実は、「差別」・「被差別」の立場を問わず、「常識」や「通説」のかなたにあるのです。

『部落学序説』の第4章~6章は、「読者」に、「常識」や「通説」のかなたに忘却されている歴史的真実探求の旅へいざなうことを目的として執筆されます。

次回は、『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治について、その人と言葉を検証します。  

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