2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 10 山口県における近代警察と「旧穢多」との関係にこだわる理由

「旧穢多」の受容と排除 その10 山口県における近代警察と「旧穢多」との関係にこだわる理由

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を、「被差別部落」の人々はどのように語り継いできたのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者としては、幕末・明治を生き抜いてきた「被差別部落」の人々が、どのようにその時代と「被差別部落」の人々が置かれた状態、そして生きることへの闘いを次の世代へ伝承として語り継いでいったのか、非常に興味のあるところですが、筆者は、その伝承に耳を傾ける機会は、ほとんどありませんでした。

筆者の「先祖」で、幕末・明治を生きたひとは、吉田向学(実名)です。曾祖父にあたります。そして、明治を生きたひとは、祖父・吉田永学です。それから、私の父、私と続くのですが、曾祖父や祖父がどのようにその時代を生きていったのか、私の父から、少しく聞かされたことがあります。

江戸時代の身分(百姓)・職業、近代に入ってからの生き方、そして、曾祖父・祖父・父へと受け継がれてきた「家訓」・・・。それは、ほとんど人生の失敗の経験から学んだ教訓ばかりですが、いつのまにか、私もその「家訓」を、自分の娘に語って聞かせるようになっていました。娘が大学・大学院を卒業して、社会人として歩みはじめたとき、私の父から教えられたことをそのまま、先祖伝来の家訓として娘に伝えました。

といっても、宮本常一著『家郷の訓』に出てくるような内容のある家訓ではありませんが・・・。

同じ話は、私と姉が聞かされたようですが、妹と弟は、その話を一切聞かされていないようです。

姉は、曾祖父・祖父・父の歩んできた道を、自分の足(車)でたどったことがあるそうですが、私はまだ一度もありません。

いずれにしろ、筆者の曾祖父の生きていた明治は、船の白い航跡がやがて青い海の色に吸収されてしまうのとおなじく、今となっては、父から聞いた話以上のものは、青い海の中に飲み込まれてしまっていて、白い航跡の記憶をたどることは不可能です。

しかし、山口の地に棲息するようになって、ときどき驚きの思いを持つことがありますが、それは、山口の地に住んでいるひとは、「差別」・「被差別」の立場を問わず、かなり詳細に家と先祖の歴史を持っているひとが多いということです。

教会の役員をされている方も、近世幕藩体制下の徳山藩の庄屋を代々されていた家系で、石垣で囲まれた家の広大な庭の一角には倉があります。年貢米と、飢饉対策用の米を保管するだけでなく、犯罪者を一時収監する座敷牢もあったようです。家には、近世幕藩体制下の「捕亡」に用いた十手・六尺棒・刀剣があったということです。徳山市立図書館の郷土史料室の論文の中にも言及されていたりしますので、間違いないでしょう。古文書(庄屋文書)も残っておられるとかで、同じ百姓身分といっても、庄屋の末裔である教会役員の方と、普通の百姓の末裔である筆者とは、その歴史の受け止め方にかなり違いがあるようです。

しかし、それでも、少し先祖の歴史を遡ろうとすると、途端に、五里霧中の状態に陥るそうです。「・・・だと聞かされているが、定かではない」という、漠然とした状態に直面することになります。多くの民衆(百姓)は、先祖の歴史をさかのぼっても、すぐ、「忘却」の壁にはばまれて先へすすめなくなってしまいます。

ところが、多くの「被差別部落」の人々は、「江戸時代300年間に渡って差別されてきた・・・」と、その歴史を語ります。近世・幕藩体制下から近代・明治天皇制の時代へ変革の時代をどのように生き抜いてきたのか・・・、語り継いでいる人も少なくありません。「百姓」の目からみると希有なことです。

筆者が直接耳にした話は、この『部落学序説』執筆の原点ともなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話だけですが、その被差別部落と家で語り継がれている伝承は、上記の伝承、「江戸時代300年間に渡って差別されてきた・・・」とはまったく異質なものでした。

その村の浄土真宗の僧侶は、被差別部落のひとの中に、「夢の中で白馬にのったひとがあらわれて、この村から出ていきなさい」という夢を見たひとがいるが、その人は出ていかなかったという話をしておられました。出ていかなかったひとりに、私が浄土真宗の僧侶に紹介してもらって尋ねた被差別部落の古老の家の「先祖」もおられたのではないかと思います。

明治4年の太政官布告が、「被差別部落」の人々に重大な影響を与えていればいるほど、そのできごとは、何らかの形で語り伝えられていっているのではないでしょうか・・・。「江戸時代300年間に渡って差別されてきました・・・」という日本歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」とは別な伝承が、現実に、存在しているのではないでしょうか・・・。

しかし。幕末から明治初期、その先祖がどのように変革の時代を生きぬいっていったのか、確かな記憶・伝承に基づいて語ることができるひとは、今日、極めてまれなようです。

平成の大合併によって、山口県北の寒村にある、ある被差別部落は、新「岩国市」に吸収合併されてしまいました。近世幕藩体制下にあっては、長州藩の枝藩である岩国藩の百姓は、年貢が高い岩国藩をきらって、萩本藩に復帰することを願っていたと思われますが、この平成大合併に際しては、まったく反対に、旧本藩領の村が、旧岩国藩に吸収されることを望んだ・・・ということになります。

農道を車で走っていて思うことがあります。「岩国市の境をこえるとそこは山口市、なぜ・・・?」 

こんど、「岩国市史」が書き直されるときは、8市町村による「地域学的研究」が必須になります。岩国市だけでなく、他の6町村を包含した歴史を書こうと思うと、岩国市と6町村をひとつの地域として歴史を考え直す「地域学的研究」を避けて通ることができなくなります。長州藩本藩とその枝藩である岩国藩をひとつの地域として認識しなければならなくなります。

新「岩国市史」が、他の6町村の固有の歴史をそのまま受け入れ、ひとつの地域の歴史として、実証主義的に研究し、書き直しされるなら、「被差別部落」の歴史の執筆も、「地域学的研究」を踏まえたあらたな段階に達するのではないでしょうか・・・。逆に、6町村の固有の歴史を無視して、旧「岩国市史」を補足、部分的改竄にとどめてしまうなら、6町村の「被差別部落」の歴史は見直されることなく、新「岩国市史」の中に埋没してしまうことになるでしょう。

「山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・」という表現は、「岩国市の北にある地区・・・」という表現になるのでしょうが、『部落学序説』の筆者としては、「岩国市の北にある地区・・・」という表現はしっくりきません。「山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・」は、山口県(周防)・島根県(岩見)・広島県(安芸)の「国境」にあるのですから、「山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・」という表現が一番にあっています。

これからも、「山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・」という表現を使い続けます。

今日、福島勝一著『謂われなき差別の底から』と中山英一著『私を変えた源流 人権文化の創造者たち』を読み比べました。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を、「被差別」の側からどのように受け止めておられるのか、確認しようと思ったのですが、山口のひと・福島勝一も、長野のひと・中山英一も、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を、「解放令」として受け止めています。その解釈に際しては、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のプロパガンダを紹介するにとどまっています。

中山英一は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「長吏」について、詳細な記述をしていながら、その「長吏」が、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、どのように、「非常民」として生きていったのか・・・、その受容と排除の葛藤状態についてはほとんど言及していません。中山は、なぜ、あるはずの「受容と排除」の葛藤状態になぜ触れようとしないのか・・・。「賤民史観」は、今日においても、「被差別部落」の人々から本当の歴史を奪い続けているのでしょうか・・・。筆者は、「差別とは、そのひとの本当の歴史を奪い、代わりに、みじめであわれで気の毒な他の歴史を押しつけることである・・・」と思っていますが、中山英一は、明治4年の「解放令」の本当の意味について、触れようとはしないのです。

『部落解放史 熱と光を 中巻』(解放出版社)45頁にこのような記載がありました。「長野県でも解放令後の警役の続行と手当ての支給をはかり・・・、山口県・・・では警役の人選と継続を命じた」。筆者は、それにまつわる伝承が、今も、長野県・山口県のどこかで息づいているように思います。

この『部落学序説』第4章で、一生をかけて部落解放運動に従事してこられた「被差別部落」の人々のこころのなかにさへ存在している沈黙と闇の世界に光をさしこみ、歴史の本当の事実・真実を明らかにしようと試みてきました。成功しているとは思われませんが、隠されてきたことを明るみに出すこと・・・、「偽りのリアリティ(false reality)」・「共同幻想」を解体すること・・・、その作業を続けていきます。

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