2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その11 明治期山口県警察と「旧穢多」

「旧穢多」の受容と排除 その11 明治期山口県警察と「旧穢多」

明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」に関する太政官布告が出されたあと、山口県においては、長野県・徳島県同様、旧「穢多非人等」が、近代中央集権国家の現場の警察官として、あらためて任用されていきます。

その任用例として、『山口県警察史』は、次の例を取り上げています。

明治5年5月8日、山口県庁聴訟課の直接の出先機関(旧藩時代の宰藩(郡)に設置)のひとつである「萩出張所の目明・手先の免職および任命」に際して、山口県聴訟課は、「次のような給与辞令が交付」したといいます。

一 日別米 五合宛
    萩下五間町 町人 大藤友松
右、萩目明手先申シ付ケ候ニ付、所勤中捕亡吏引当米ノ内ヲ以テ、1ツ書ノ通リ立遣シ候事。(毛利文庫『雑録』)

明治5年5月といいますと、江藤新平が初代司法省卿に任命された次の月ということになります。「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出された次の年ですから、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を示す用語を使用することはできなかったのでしょう。太政官布告の「平民同様」という表現に固守すますと、当然、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という旧身分名に変えて、「平民」という、近代中央集権国家の身分制度の身分名をもって「給与辞令」がだされるのが自然であると思われるのですが、この辞令は、慣用語を使用して「平民」ではなく「町人」に対して出されています。

旧萩城下の「下五間町の町人・大藤友松」に対して辞令が出されているのですが、長州藩では、「町人」と「百姓」という両概念には本質的な違いはありません。長州藩が「町」に指定した地域に住んでいる「百姓」が「町人」と呼ばれたのであって、その「町人」もなんらかの理由で、萩城下をはなれて近郷の村に住まなければならなくなりますと、当然「百姓」身分になります。

この「給与辞令」では、大藤友松は、「萩出張所」の「目明」の指揮下で、司法・警察の職務に従事する「手先」に任命されています。その給与は、「捕亡吏引当米」から支出されることが明記されていますから、大藤友松は、「国費」でもって、「警察官」として正規採用されたものと思います。

廃藩置県後、聴訟課の出張所には、近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「非常民」が「目明・手先」として配置され、村には、同じく「村役人・目明・手先・宮番」が配置されました。

『山口県警察史』は、「取締組」(説明略)同様、「司法警察を担当する打廻り・目明・手先は引き続き存置され、これが後に「探偵掛」「探偵下使」と呼ばれることになる」といいます。「司法・警察に携わった目明・手先の給料や旅費も民費によっていた・・・」とありますから、名目上は、「捕亡吏引当米」(国費)からの給与支給であったけれども実際は、「民費」(「民間の負担」という意味ではなく、県税・市民税という意味で「公費」の類)から支給されていたということになります。

当初から、村の費用(「民費」)で採用されていた「宮番」は、のちに、「請願巡査」になっていったといいます。

『山口県警察史』によりますと、近世幕藩体制下の長州藩の「宰判」(郡)に勤めていた「穢多・茶筅」は、やがて、「探偵掛」・「探偵下使」と名称が変更され、また「宰判」(郡)下の「村」に勤めていた「茶筅・宮番」は、やがて、「請願巡査」に名称が変更され、改革された近代警察の中に組み込まれていった・・・と思われます。

『山口県警察史』のこの記述は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であった「目明・穢多・茶筅・宮番」や、「久保の者」・「道の者」がどのように、明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、近代警察の中へ組み込まれ、吸収・同化されていったのか、その足跡をたどることができる重要なてがかりになります。

旧「穢多の類」は、「穢多非人等ノ称」が廃止されたあと、「探偵掛」・「探偵下使」・「請願巡査」へとその名称が変更され、近代警察の担い手として再雇傭されていきます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の専門的知識と技術が、近代警察のシステムの中に継承されていくことになります。

明治7年1月、江藤新平とその司法省官僚を排除した大久保利通は、近代警察システムを、江藤新平が主張していた「司法権」でなく、「行政権」に移行してしまいます。「行政権」のもとに置かれた、内務省管轄下の警察システムは、時の政治権力である「行政権」に忠実な「公僕」になっていきます。明治政府は、巧妙に、政治・権力の世界に、近代警察の捜査権が及ぶのを排除していきます(現在にも通底。現代の警察制度も権力の中枢に必ずしも警察権行使できない・・・)。

「目明手下」として採用された、旧萩城下の町人・大藤友松の給与は、日給月給のようなもので、その額は、1日米5合ということです。長州藩の枝藩である徳山藩では、「穢多」の給与は1日1升と藩法に定められていますから、廃藩置県後の近代警察の「目明手先」の給与が、その半分の5合ということは、極めて少額になります。近世幕藩体制下の「穢多非人」に容認されていた「家職」は、明治4年の太政官布告によってその特権を喪失していますから、「目明手先」としての給与が1日5号というのは極めて少なすぎます。生計を立てることができません。しかし、それでも、「給与辞令」が出されているのは、当時の警察官に対する給与体系と今日の警察官に対する給与体系が大きく異なっていたためです。

明治7年1月に内務省が創設、近代「行政警察」が構築されるようになりますが、その当時の「取締組(現在の警部補以下に相当)の年齢をみると最年長は45歳、最年少は19歳で、平均32.9歳であった。概して中高年層が多かったのである・・・」といいます。「警察官」は、体力だけでなく、犯罪者の探索・捕縛・糾弾には、知力(知識・経験)も必要とされます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多非人」は15歳になると公務に就いたと思われますから、「19歳」という年齢は、その職務経験が少ないとしても、「平均32.9歳」という数字は15年間、その職務に従事した経験があるということになります。最高齢の「45歳」になりますと、実に30年間の探索・捕縛・糾弾の職務経験があるということになります。近世幕藩体制下の司法・警察に、また明治維新後廃藩置県まで司法・警察に従事してきた「穢多非人」の「警察官」としての専門的知識・技術、職務経験をもった存在は、他の社会層(皇族・華族・士族・平民)の中には簡単に見つけることはできません。職務遂行上の「拷問」に際しては、専門的な知識・技術が必要とされたと思われます。

明治政府が、近代中央集権国家に相応しい警察制度の創設を企画・立案しても、実際の近代警察システム構築に際しては、その過程において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」、旧「穢多非人等」の知識・技術、職務経験に頼らざるを得ない部分があったと思われます。

明治政府は、明治8年3月「行政警察規則」を打ち出し、「従前捕亡吏・取締組・番人等ノ名称ヲ廃シ邏卒と改称」します。そして、「捕亡費」を「警察費」にあらためます。山口県は、この太政官達第29号に従い、明治8年4月に「取締組」を「邏卒」に改称します。明治政府は、「従来区々であった警察官吏の名称を「邏卒」に統一・・・ここにおいて我国の地方警察制度はようやく確立をみるにいたった」と記しています。

その後「明治8年中に3回の改正」が行われたこの規則は、「戦後の昭和23年まで「行政警察」の概念を規定した唯一の実定法として生き続けたのである。」といいます。大日本帝国憲法が発布・施行される以前に成立した『行政警察規則』は、大日本帝国憲法が発布・施行後も、そして、明治・大正・昭和という時代を越えて「「行政警察」の概念を規定した唯一の実定法」として機能し続けた・・・というのは、驚きです。


『行政警察規則』だけではありません。明治9年9月、川路利良大警視の「訓戒や説示を集めた」『警察手眼』も、同じ過程をたどります。「この訓示集は、明治初期における警察の使命と警察官の基本的なあり方を示したもの」で、「今日においても・・・全国的に愛読され・・・”警察官”のバイブルといわれる」そうです。

山口県は、この『警察手眼』を全県下の警察関係者に配布します。その内容は、

警察要旨
警察官ノ心得
警察官等級ノ別
署長心得
巡査心得
探索心得。


「警察官ノ心得」では、警察官は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」同様、「非常」に関与する職務であることが強調され、「口に警察ヲ唱テ身警察ノ行ナキ者、姿ニ警察ノ徴章アリテ心警察ノ人トナラザル者アリ、猛省セザルベカラズ」と、名実共に、近代中央集権国家の警察官に相応しい言行が求められています。「姿ニ警察ノ徴章アリテ」という言葉は、近代中央集権国家の司法・警察に関与する警察官が「制服」を着用、近世幕藩体制下の司法・警察に関与する「非常民」が幕末期、「渋染」の制服を身にまとうことを藩から強制されたり、胸に「皮」で作られて徴を付けることを強制されたりしたのと同じ流れの中で、欧米の「警察官」同様、制服を身にまとうことを要求されたことを示しています。

「巡査心得」では、「己ガ失態ハ上官ノ失体ナリ。上官ノ失体ハ己ノ失体ナリト心得ベシ
」と説かれ、警察組織が上から下まで一体であることが強調されています。警察組織内部の横の関係・「僚友」においては、「互ニ切磋琢磨ノ交義アリト雖モ、公私ノ両則ヲ犯セル以上ハ決シテ曲庇ス可カラズ。何トナレハ、公私ノ両則ヲ犯シ、六千人ノ体面ヲ汚ス罪人ナレバナリ。」といわれます。近代警察官が、「公法」・「私法」、いずれの法律を犯しても、近代警察に対する信頼失墜につながるから、それを察知した上は、「曲庇」(警察内部の庇い立て、もみ消し、隠蔽)することなく、上使に告発するようにという訓示でしょう。しかし、この教訓、「上官ノ失体」についても告発するように・・・という訓示は含んでいません。警察内部において、「下官」から「上官」への告発は堅く禁じられていたのでしょうか・・・。

「探索心得」は、「警察官ハ善人ヲ探知スルノ深切ナルコト、亦兇徒ヲ探索スルガ如クナルベシ」という言葉ではじまります。「警察官」として、一般人を職務質問するとき、「善良な市民」であっても「犯罪者」と思って職務質問しなさい・・・ということですから、一般市民としてはあまりこのましい訓示ではありません。現代社会においてもときどきみかける警察官の横柄な態度はこのあたりに根拠があるのかもしれません。

「探索心得」はさらに、「探索ノ道、微妙ノ地位ニ至リテハ声ナキニ聞キ、形ナキニ見ルガ如キ、無声無形ノ際ニ感覚セザルヲ得ザルナリ」という、今日の警察においても「千古不滅の名言」という言葉が続きます。警察官は犯罪捜査において、「声ナキニ聞キ、形ナキニ見ル」ことが求められているのですが、昨今、犯罪被害者が警察に訴えても捜査に踏み切ってくれない・・・、ということが指摘されています。その結果、犯罪者の犯罪がエスカレートして次の犯罪を生んでしまう、日本全国各地の警察の失体がマスコミで取り上げられています。その報道を見る限りでは、「『警察手眼』は、「今日においても・・・全国的に愛読され・・・”警察官”のバイブルといわれる」というのは実に怪しくなります。「声アリテソノ声ニ聞カズ、形アリテ形ヲ見ザル」・・・、そのような現実に堕しているのではないかと思わされます。

近世幕藩体制下の司法・警察に従事していた「非常民」のプロ(旧穢多身分)が生きていたとしたら、現代の「非常民」のアマチュアぶりに激怒したにちがいありません。

『部落学序説』の筆者としては、「部落学」に関心をもったことで、近世・近代の警察システムについて関心を持つようになりましたが、マイナス面ばかりではなくプラス面もみえるようになったことで、現代の警察システムにも関心を持つようになりました。

しかし、明治8年3月「行政警察規則」と明治9年9月『警察手眼』は、明治憲法成立以前の制定・発行でありながら、戦後の昭和23年まで実定法として続いていた・・・というのは驚きです。日本の警察システムは、最初から、旧憲法の枠の外に置かれていたのかもしれません・・・。

明治8年10月、「邏卒」は「巡査」に改められ、山口県でも翌11月実施されます。山口県の最初の体制は、「1等巡査1名、2等巡査6名、3等巡査8名、4等巡査31名の計46名であった」(のちに105名になる)そうですが、この数字は、当時の山口県の警察全体を指しているのではなく、いわゆる、キャリア・上層部を指しているに過ぎないと思われます。その要員で、山口県全域の治安を確保・維持できたとは考えることができないからです。

その謎について、『山口県警察史』はこのように答えます。「山口県では・・・引き続き「目明」「手先」を県の雇として採用し、聴訟課官員の指揮のもとに、かっての職能を生かしていた。このほか番人・宮番などと呼ばれ、村の醵出金による民間協力者も認められていた・・・」。「目明」は、山口県の部落史研究では「被差別民」に数えられます。近世幕藩体制下の「穢多」身分です。「手先」というのは、「目明」の「手下」ということですから、「穢多・茶筅・宮番」をさすことになります。山口県は、彼らの、近世幕藩体制下の司法・警察官としての「かっての職能」(探索・捕縛・糾弾)を評価し、「県の雇として採用」、つまり、今日的言い方をすれば、「警察職特別公務員」としてではなく「一般公務員」として、再雇傭していくのです。

廃藩置県後、「旧穢多非人」は、「特別公務員」としてではなく「一般公務員」として採用されていたのです。

「このほか番人・宮番などと呼ばれ、村の醵出金による民間協力者も認められていた・・・」とありますが、村に配置されていた村費による「宮番」を「民間協力者」というのは不適切であると思われます。まだ、近代的な意味での「地方行政」が確立する(「部落」概念が導入される)以前の話です。「宮番」も、実際は、町や村の町費・村費の公費で採用され警察の職務にあたっていたのですから、「地方公務員」に数えられてしかるべきです。今日の「民間協力者」という言葉のもっているイメージで、明治初期の「宮番」をみるのは好ましくありません。「宮番」は、純然たる当時の「警察官」であって、探索・捕縛・糾弾の職務を遂行していましたので、今日的意味での「民間協力者」という概念は極めて不適切です。「宮番」は、単なる「民間協力者」でも、「交通巡視員」でも、派遣された民間の警備員でもないのです。

明治9年10月、「行政警察規則の施行以来次第に警察組織が充実してきたのと、ともすれば権力をかさに不法行為を働く手先などの弊害を除くための措置」として、「従前定員目明ノ外・・・」、つまり、旧「穢多・茶筅・宮番」が廃止されます。

「権力をかさに不法行為を働く手先・・・」、明治4年の太政官布告が出されて丸5年後、山口県は、政府の指導のもと、「権力をかさに不法行為を働く手先・・・」の排除を決定します。「不法行為」の主な要因は、山口県が、「目明手先」を「日別米 五合宛」で再雇傭したことにあります。山口県は、基本給の少なさを、「目明手先」が警察職務遂行上に入手する課金(例えば、賭博摘発の没収金・若い女性の堕胎摘発による罰金等)で補おうとしたからです。

しかし、山口県においては、政府の指導にもかかわらず、実際は、「地方の治安維持機能が低下することをおそれて、醵出金による請負制度は残された」・・・といいます。

「この年、目明・手先は「探偵」「探偵下使雇」と改称され、山口県「警保課」・「各警察出張所」に再配置されていきます。

明治10年8月、この「探偵」「探偵下使雇」は、「巡査心得」と改められます。「心得」というのは、『広辞苑』によりますと、「下級のものが仮に上級のものの職務をつかさどるときの名称」だそうです。「探偵」「探偵下使雇」の系譜をひく「巡査心得」は、当時の警察官という「特別公務員」ではなく「一般公務員」として勤務していたのですが、その職務内容は警察職「特別公務員」と同等のものであった・・・と、『山口県警察史』は評価しています。

この文章を書きながら、『部落学序説』の筆者は「迷想」します。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、本当に、「解放令」・「部落解放令」・「穢多解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・「賤民制廃止令」・・・だったのだろうか、と。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底すると、「解放令」・「部落解放令」・「穢多解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」は、「賤民制廃止令」になってしまいます。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を「賤民制廃止令」とするのは、歴史上の曲解にあたります。

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