2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その9 明治4年「解放令」再検証

「旧穢多」の受容と排除 その9 明治4年「解放令」再検証

前回と前々回で、明治4年廃藩置県<前・後>の山口県の「近代警察」がどのように構成されていたのか、図をまじえて紹介しました。

図2(明治4年廃藩置県前の山口県警察)と図3(明治4年廃藩置県後の山口県警察)の図をそれぞれ新規に作成しながら思ったのは、近代山口県警察の組織・構成は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告(「賤民史観」上では「解放令」と呼ばれる)<前>と<後>では、ほとんど変更されていないということです。

図を作成するためのもとの資料は、いままで時間をかけて何度も読んできたのですが、今回、それを図式化して<前>と<後>を比較したことで、あらためて驚かされているのです。廃藩置県が実施され、旧幕藩体制が最終的に解体、近代中央集権国家を実現するため、新体制が構築されようとしたにもかかわらず、司法・警察システムについてはほとんど何も変わっていないという事実に・・・。

『部落学序説』の読者の方々は、ある意味、図2(明治4年廃藩置県前の山口県警察)をご覧になって、図3(明治4年廃藩置県後の山口県警察)がどのように提示されるのか、その衝撃的「変化」を期待されたのではないでしょうか・・・。

しかし、『山口県警察史』に基づいて図式化すると、変わったのは、近代司法・警察システムの組織の上層部の役職名の相次ぐ変更のみです。近世幕藩体制下の長州藩の司法警察システムは「掌案」・「司鞫」(しきく)と名称を変えていきます。「掌案」・「司鞫」(しきく)という言葉は耳慣れない言葉です。廃藩置県前後の司法・警察システムの改革は、主として上層部(警察キャリア)に対してなされ、下層部(警察本体)に対しては、近世幕藩体制下の司法・警察システムの組織・人員がそのまま継承して配属されていたのです。

「宰判」には、「打廻り・目明し・手先(穢多・茶筅)」が配置され、「村」には、「村役人、目明し・手先(穢多・茶筅)・宮番」が配置されていたのです。「下部組織」は「ほとんど藩政時代の制度がそのまま踏襲」されていたのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に身をおいて部落史を研究する学者・研究者・教育者の多くは、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を「穢多解放令」・「賤民解放令」・「部落解放令」と称したり、また「賤称廃止令」・「賤民制廃止令」と称したりします。彼らは、彼らが「解放令」と呼ぶ、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、旧「穢多非人」と呼ばれ、差別され虐げられた「賤民」の身の上に大きな変革をもたらした。「天皇の聖旨」に基づいて出された「解放令」は、「身分差別を廃止」するもの、差別なき社会への「歴史の前進」(渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』)であり、「内容、質が変わったことこそ、重要」(同書)であることを主張していることです。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、「解放令」として、「被差別民衆」の上に大きな変革をもたらした・・・、と強く主張する傾向があります。

しかし、『山口県警察史』によりますと、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、「賤民史観」に身をおいて部落史を研究する学者・研究者・教育者が提示するような熱気にみちた衝動はつゆも含まれていなかったのです。むしろ、逆に、冷静に、「穢多非人等」によって受容されていったのです。

どのように受容されていったのか・・・、『部落学序説』の筆者としてはこのように考えざるをえません。

明治4年の廃藩置県によって、旧幕藩体制は最終的に解体宣言がだされ、旧幕藩体制下の身分制度が廃棄されます。「武士」身分・「百姓」身分は、近代的身分制度、「士族」身分・「平民」身分に組み換えられていきます。「武士」身分は「士族」身分・「平民」身分に組み換えられ、「百姓」身分は「士族」身分・「平民」身分に組み換えられていきます。単純に「武士」身分が「士族」身分になったのでもなければ、「百姓」身分が「士族」身分になったのでもないのです。近世幕藩体制下の身分制度が解体され、近代中央集権国家の新たな身分制度が構築されていった、つまり、身分制度のスクラップ&ビュルトが実施されたのです。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」によって、旧「穢多非人等」は、他の「武士」身分・「百姓」身分同様、「身分」・「職業」の「世襲制」から解放されたのです。近世幕藩体制下の「穢多・非人」等は、近世的「家」を単位に、世代から世代へとその身分・家職・役務が世襲されていったのですが、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」によって、その世襲制から解放されたのです。

長州藩の場合、新百姓制度(「武士」身分が「百姓」になるための公的制度)と育(はぐくみ)制度(「百姓」身分が「武士」身分になることができる公的制度)、また社会的貢献度に応じて「百姓」身分に「武士」身分の特権が付与されるという公的制度が存在していましたから、世襲制といっても完全なものではありませんでした・・・。しかし、一部の例外を除いて、近世的「家」は世襲されていったのです。「武士」の家に生まれれば「武士」、「百姓」の家に生まれれば「百姓」・・・。「武士」身分の系譜に属する「穢多」の家に生まれれば、終生「穢多」として先祖代々の身分・家職・役務に忠実に生きていくことが要求されました。そこから、「血筋」ということがいわれるようになります。江戸時代後半に入りますと、「世襲」は「血筋」の継承を意味するようになっていきました。

『部落学序説』の筆者である私は、明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が意味するものは、この「身分」(「家職」・「役務」)の世襲制の廃止ではなかったか・・・と推測しています。明治政府の施策は多くの場合、国内向けの説明と国外むけの説明とがかけ離れている場合が多々みられますが、明治4年の廃藩置県と「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告も、国内問題と外交問題では異なる意味を持たされています。こと、「役務」については、「外交問題」との関連では、近世と近代の間に「不連続」が強調され、「国内問題」との関連では、近世と近代の間に「連続」が強調されます。

Kei14明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告によって、近世封建体制下の身分の世襲制度は解体されたけれども、旧「穢多非人等」の、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「役務」は、世襲制が廃止されたあとも継承されることになった・・・、図2と図3からこのことを読みとることができると思うのです。図4に図示してみます。

図4の上の図は、近世幕藩体制下の身分制度上では、「穢多非人等」は、近世の「家」単位で世襲されます。ひとりの「穢多」は「穢多」である父母から生まれ、「穢多」の伴侶を得ます。その間にできたこども達に「穢多」であることは世襲され、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の「役務」は連続して継承されます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」では、その「世襲」を踏まえて、「血筋」の問題にすり替えていきます。世襲が「血筋」の問題にすり替えられるのは、社会的に停滞をはじめた「武士」身分がみずからの「商品価値」を高めるために「家系図」を捏造しはじめたことに端を発します。江戸時代前半の「武士」は、「昔を語る」(系図を語る・血筋を語る)ことを恥として武士にあるまじきこととしていました)。

明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告がだされることによって、旧幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多非人等」も、近世的身分制度から解放されます(何回も言及しますが、決して、「穢多非人等」だけではありません。「武士」身分・「百姓」身分すべてが近世的身分から解放されます。天皇・皇族・將軍・藩主・神主・僧侶、海の民・山の民・田の民すべてが近世的世襲身分から解放されます)。その結果、図4の事態に直面したと思われます。

明治維新以降、近代中央集権国家の司法・警察である「非常・民」に組み込まれていた「穢多非人等」は明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降も、近代中央集権国家の司法・警察である「非常・民」として、「平民」とされたあとも、その職務を継承させられ、「穢多非人等」もそれを受容し、黙々と職務遂行にあたっていたのです。その職務をになった人々は、おそらく一家の「大黒柱」であったでしょうが、その家の、祖父母・こども・孫は、「平民」とされることによって、「非常・民」としての「穢多非人等」の世襲的な「家」の「家職」・「役務」に従事・継承する必要がなくなります。

明治政府は、その司法・警察システムのさまざまな職種を、「平民」もなることができる、単なる「職業」に変えてしまったからです。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以後、旧「穢多非人等」の末裔は、「常民」化され、「非常・民」であることを強制されなくなったのです。

それなのに、なぜ、近世幕藩体制下の身分制度上の旧「穢多非人」のように、本人だけでなく、その伴侶・祖父母・こども・孫まで旧「穢多非人」として排除されるようになっていったのか・・・、『部落学序説』でこれまで繰り返し言及してきたように、明治政府の、国内問題と外交問題を二重化し、明治政府が実施している施策の本当の意味を民衆に知らせなかったことが原因としたと考えられます。「よらしむべくしてしらしむべからず」、幕藩体制下の刑事裁判の判例について限定的にいわれていたことを、明治政府は、近代中央集権国家の民衆支配の原則として無制限に拡大していったことによります。国民には必要以上のことは知らせない・・・、明治政府は、ことがらをあいまいにすることで、それを民衆支配の道具として利用していったのです。

『部落学序説』は、「非常民」に関する学であって、近代警察に関する研究の書ではありません。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多・非人」が、近代中央集権国家の警察システムの中に受容・吸収・同化されたあと、明治の近代警察は、排除され、同化されなかった旧「穢多非人等」の末裔に、「特殊部落民」という概念を適用するのです。「特殊部落」という言葉が、旧「穢多」の末裔にあたえた衝撃は少なくありません。それは、最初から、国家によって見捨てられた「棄民」を意味していました。「特殊部落民」は、ある意味で、近代警察が作り出した警察用語(それゆえ行政用語)なのです。

なぜ、明治の近代警察が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「旧穢多」を「差別語」「特殊部落民」として取り扱うようになったのか、その過程を明らかにする意味でも、もう少し、この章・節・項の論述を続けていきましょう。

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