2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その6

 「旧穢多」の受容と排除 その6

明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、「旧穢多非人等」の「排除」はどのようにすすめられたのでしょうか。

大日向純夫著《日本近代警察の確立過程とその思想》をてがかりに検証してみましょう。

前回は、「受容」をとりあげましたが、今回は「排除」の諸相をとりあげます。大日向が、「具体例を列挙してみる」として、「旧穢多非人等」の「排除」例としてとりあげているのは、「兵庫県」・「鳥取県」・「島根県」の3県です。これらの県は、すべて西日本です。

大日方が、「排除」の具体例として東日本についてまったく触れていないのは、東日本と西日本の、近世幕藩体制下における司法・警察システムが制度的に大きくことなっていたからではないかと思います。

『部落学序説』で主張する「ケ・ケガレ(気枯れ)・ハレ」と「ケ・ケガレ(穢れ)・キヨメ」の二重循環説からみますと、東日本のキヨメは、犯罪を置かした人に対して、充分弁明をすることのできる機会を提供しているように思われます。いわゆる「逃れの場」といわれるもので、罪を問われたものは「逃れの場」に身を寄せることで、正当な裁判を受けることができるのです。その「逃れの場」が牢屋としての機能も持ち合わせていますので、火付・強盗・殺人というよほど天下の大罪を犯さない限り、牢屋は本質的に必要なくなります。たまたま凶悪犯罪が発生すると、当時の官憲がまずしなければならないのが牢屋の修復作業であるという場合も珍しくありません。

しかし、西日本では、東日本のような「逃れの場」が整備されていたという記録に遭遇したことはありません。長州藩の支藩である徳山藩の浜崎の獄舎などは、かなり、ひとの出入りが多かったらしく、武士・町人・百姓が入り交じって入牢・出牢を繰り返していたといわれます。東日本と違って、西日本の牢屋(揚屋)は完全に外界から隔離された世界でした。

当然、「穢れ」(法的逸脱)にかかわる、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」である「穢多非人等」に対しても、東日本と西日本ではその受け止め方が大きく異なっていたと思われます。

【鳥取県】

近世幕藩体制下、幕府の府令(1778年)によりますと、「中国筋の穢多、非人、茶筅の類」が、司法・警察としての「非常・民」であるにもかかわらず、法的に逸脱し、「盗賊、悪党など世話致す」事態に陥っていると指摘しています。現代でいえば「相次ぐ警察官の不祥事」とでもいいましょうか、しかし、その不祥事はあとをたたず、それでは、近世警察の権威を失墜してしまうので、「足軽差出し、召捕へ」厳重に処罰するというのです。

1580年(天正8年)『雲陽軍実記』には、このような記載があります。「彼(鉢屋)が同類を河原者と言い、茶筅を作る故に、茶筅とも言う。鉢をたたく故に、鉢屋とも号す。又、町屋の非常を糾す故に、番太杯とも言うなり」。「非常」に際して「糾弾」する側が、「糾弾」される側に立たされる・・・、というのは極めて異常なことで、「非常・民」の本旨にはずれています。

西日本では、近世警察官が役人として、このように好き勝手なふるまいをしていた地域もあることを示していますが、このような地域では、旧「穢多非人等」に対する「平民」の受け止め方はかなり複雑なものがあったと思われます。

大日方は、東日本・西日本の各県で、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、「旧穢多非人等」が、あらためて、近代警察に「受容」されていく「他方で、非人を警察業務から排除しようとする動きが進んでいく。」といいます。

大日方は、「鳥取県」を「受容」と「排除」の両方に加えていますが、鳥取県も近世幕藩体制下では「鉢屋」が近世警察の一翼を担っていましたが、大日方は、明治5年、「鳥取県では、「捕亡取締」の設置を発表した際、往々「不正ノ弊」があるとして、従来の鉢屋(被差別身分)を一切廃止した」といいます。

大日方は、「賤民史観」に立脚しているので「従来の鉢屋(被差別身分)」という注をわざわざつけていますが、「(被差別身分)」に重点をおいて、大日方の文章を読んでいきますと、「鉢屋」排除の原因は、「不正の弊」ではなく、「被差別」に重心が置き換えられるようになると考えられます。

『部落学序説』の筆者としては、『雲陽軍実記』に記されているように、中世末期・近世全期間・明治初期、いわば中世・近世・近代の3つの時代に渡って、「鉢屋」は「町屋の非常を糾す」、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」であったのですから、大日方がしたように、「従来の鉢屋」という言葉に「被差別身分」という注をつける必然性は一切無かったと思われます。

【島根県】

島根県では、明治5年8月、「士族からなる24人の邏卒を編成して松江市街を巡邏させることとしたが、その際、各区レベルでは旧鉢屋が「取締下勤」などの名目で使用されていた」といわれます(大日方)。しかし、「士族」出身の「邏卒」は、近代警察官の職務を遂行することはできなかったといいます。

「士族」出身の「邏卒」は、「探偵・逮捕活動には不向き」であったそうです。「武士」という、軍事に携わる「非常・民」の職務は、「城を屠すること」にあり、より具体的には、城を守っている敵方の武士を殺戮することにあります。そのための武術しか身につけていない「士族」出身の邏卒は、犯罪者を生きたまま捕らえるのではなく、その場で切り捨ててしまうという、近代警察としてはあるまじきふるまいに走った可能性があります。探索・捕亡・糾弾には、それなりの専門的知識と技術が必要であるということを、島根県は再確認するのです。

そのため、どうしたのかといいますと、「捕亡吏」を、「警察業務」に対してほとんど「素人」にひとしい「卒族」と「平民」から採用し、そして、近世幕藩体制下の「非常・民」であった「玄人」をその配下の「手附」として組み込むのです。

近代警察の「素人」(ネス)に「玄人」(エタ)が管理されることに、「玄人」(エタ)が黙って服従したとは考えられません。「人を抑圧したり、脅かしたりするなど「不正ノ挙動」」があるとして、明治6年11月に、「旧鉢屋は全面的に警察的活動から公式には排除されるに至った」のです。「公式には」という大日方の表現は、「非公式には」、その専門的知識と技術故に、「旧鉢屋」(旧穢多非人等)は、深く近代警察とかかわりを続けるようになるのです。文字通り「警察の手先」(司法省版『全国民事慣例類集』第1篇第1章第1款 農・工・商・穢多・非人ノ別)に甘んじるようになるのです。警察本体から「警察の手先」への転落・・・といってもいいでしょう。

この「転落」は、大日方や川元が指摘しているような「差別」が原因ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての彼等が、近代警察システムへ移行するに際しての「不適合」が原因であったと考えられます。近世幕藩体制下の司法・警察に慣れ親しんだ彼等は、近代警察システムに順応することができず、結果、「警察の手先」に甘んじざるを得なかった・・・、それが、「旧穢多」の「排除」の本当の理由ではないかと思います。

【兵庫県】

近代警察官は、その職務の報酬として、官から給料を支給されます。その職務の公正上、その給料以外の金品の受領は堅く禁止されていたと思われますが、「兵庫県」の「穢多非人等」は、近世幕藩体制下の「旧弊」・「弊風」を忘れることができず、町や村の「祝儀」・「不祝儀」に際して「米銭」を要求したり、「祭礼」に際して「店から品物または金銭を取り上げたりする」ので「不都合」であるとの理由で「非人番の廃止」が決定されます。

「兵庫県」の例をみても、明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降の、「旧穢多非人等」の「受容」と「排除」は、決して、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「旧穢多」(包括概念としての「穢多」)に対する「差別」などではあり得なかったのです。彼等が、近世から近代へ、時代の流れにのることができず、既得権としての「旧弊」・「弊風」にこだわり、近代警察官たりえなかった当然の成り行きとして、近代中央集権国家の警察システムから「排除」されていったというのが、より妥当な解釈ではないでしょうか・・・。

部落学の祖・川元祥一は、「「明治」政府は・・・種々の社会的機能をはたしていた部落にたいして棄民政策をとる。そのため歴史の中の関係性が見失われ、差別ばかりが残るのである。」(『部落差別を克服する思想』14頁)というのですが、それは、川元部落学が、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の枠組みから一歩も外に出ていないことの自己証言の言葉です。

「非常民」から「常民」へ・・・、多くの「旧穢多非人」は、自己変革に失敗していったのです。大日方や川元祥一のように、それを「差別」と認識するのは、果たして妥当性があるのでしょうか・・・。

次回、「山口県」における「旧穢多」の「受容」と「排除」について検証してみましょう。それを明らかにするためには、文章の積み重ねだけでは非常に困難です。図解のかたちで説明します。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...