2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その7 明治4年廃藩置県以前の山口県警察

 「旧穢多」の受容と排除 その7 明治4年廃藩置県以前の山口県警察

『部落学序説』の中に、「図」を入れた文章を作成しようとすると、少々時間がかかります。

「図」を入れないで「文字」だけで文章を作成する場合、ウインドウズに付属している「ワードパッド」を使用して全文を作成、その後、ココログのエディター上にコピー&ペーストすればすみますが、「図」が入るとなると、文章は「ワードパッド」で作成、「図」は「ペイント」で作成、その後、ココログのエディター上で両者を連結するという3段階の作業になります。

『部落学序説』は、いままで「書き下ろし」で作成してきましたが、これからも「書き下ろし」を続ける以上、「図」のはいった文章については、文章と図を交互に登録を繰り返すことになります。

今回の、「「旧穢多」の受容と排除 その7(明治4年廃藩置県以前の山口県警察)」についても何回か再登録を繰り返すことになりますので、1回のアクセスですべての文章を閲覧することができない場合もあります。あらかじめご了承のほどよろしくお願いします。

「部落学」の祖・川元祥一は、その著『部落差別を克服する思想』の中で、「日本の警察制度は、明治維新以後、ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転・・・」していると指摘しています。

近世の安定した司法・警察システムと違って、近代の司法・警察システムは、①めまぐるしく、②理解に苦しむほど、③複雑な変転をしているという、川元の指摘の正しさは、日本全国すべての都道府県に存在している各「県警察史」を一読すればわかります。

筆者が読んだ「県警察史」は、『山口県警察史』だけですが、何度読み直しても、近代中央集権国家の山口県の司法・警察システムの全体像を把握することはできないのです。それぞれの時代の個々の司法・警察システムの概略は理解できるのですが、その変革・再編成を、時間的・通時的・歴史的枠組みの中で把握しようとすると、その全体像が「霧」の中に霞んでしまう・・・、その結果として、『山口県警察史』を1度や2度読んでも何もわからない・・・、という印象を抱いてしまうのです。

筆者は、そういうことで、何度も、『山口県警察史』を「完全に把握」することについて挫折を経験させられました。

「解釈学」上、一読して内容が単純明解なものより、その内容が複雑で難解なものの方に、歴史の真実が宿っていると判断されますが、そういう意味では、『山口県警察史』を「完全に把握」する努力をすることで、より「歴史の真実」にたどりつくことができるのではないかと思って、『山口県警察史』の記述をもとに、近世・近代の長州藩・山口県の司法・警察システムの変遷と、そのシステムの中へ、「穢多の類」(包括概念)がどのように「受容」されたり「排除」されたりしていったのか、その実態をあきらかにしようと努力してきました。

各都道府県の「県警察史」は、『山口県警察史』だけでなく、近代部落差別の淵源を尋ねる上で、貴重な資料であるといえます。しかし、多くの場合、各「県警察史」と部落差別問題は、切り離されて別個のものとして研究されるのが一般的です。それでもこの問題に関心を持つ学者・研究者は、「被差別部落の人々は、警察の手下として利用される場合があった・・・」という、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的見解を踏襲するにとどまります。

今回、『山口県警察史』の記述をてがかりに、明治以降の、山口藩・山口県の司法・警察システムの変遷と、そのシステムの中に、旧「穢多」(包括概念)がどのように受容・排除されていったのか、その足跡を確認したいと思います。

しかし、近代山口県の司法・警察システムも、冒頭で紹介した部落学の祖・川元祥一の言葉のとおり、「めまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転」をしていることに代わりはありません。

難解なことを分かりやすく説明する手法に「図解」による方法があります。

「無学歴」・「無資格」の筆者は、「図解」による説明方法について習ったことは一度もありません。「50の手習い」で受験した、通産省の情報処理技術者試験(第一種・第二種・シスアド)の受験勉強を独学でしていたとき、通産資料調査会発行『図解合格マニュアル』を使用しました。そのとき、「図解」の有用性についてはじめて認識しました。

『標準用語辞典』によると、「図解」(explanatory diagram)について次のような定義があります。「図解とは、要約・短文化した言語やデータ(data)を円や三角形、四角形などで囲み、これらを結んで論理の展開を図示したものである。したがって、理論を図式化するときに作成者の力量が問われることになる」。

「理論を図式化するときに作成者の力量が問われる」・・・という言葉を前に、『部落学序説』の中に図式を取り込むことにためらいの気持ちをもったことがありますが、今回、使用する「図解」は、「拡散図解(diffusion diagram)という、一番オーソドックスな方法にとどまりますが、近代部落差別成立の過程を「特性要因図(special quality primary factor diagram)を用いて作成するのもいいかな・・・と思っていますが、その図式を作成するためには、『部落学序説』を完成させる必要があります。そのあとで、はじめて近代部落差別成立の過程を「図解」することができます。

すでに『部落学序説』において「図解」をこころみていますが、実際に、「図解」する段階で、「図解」の難しさに直面しています。簡単に「図解」すると、分かりやすくはなりますが、その代償として、ある部分を削除してしまうという危険がありますし、少し詳細に図式化しようとすると、その図式について、さらに二次的な説明が必要になるなど、だんだん、悪循環に陥ってしまう危険性があります。

今回、『山口県警察史』の該当個所を「図解」するにあたって、その「図解」の内容が、『山口県警察史』の内容紹介だけでなく、「図解」を作成するものの「理論」(『部落学序説』の解釈原理)が背景にあり、その「図式化」に際しては、「無学歴」・「無資格」である『部落学序説』の筆者の「力量」に大きく限定されているということを前提に、以下の文章を読んでいただければ幸いです。

近世幕藩体制下の長州藩の組織図を簡単に表現しますと、「図1:長州藩の穢多非人の配置場所」


のようになります。「藩」(萩)の下に、他の藩で「郡」といわれている「宰判」があり、その「宰判」の下に、支配下の「村」が存在します。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多非人等」(穢多・茶筅・宮番)は、ほとんどが「宰判」(代官所・御茶屋)の支配下にあり、宰判廻りの「穢多」(狭義の穢多)と村廻りの「穢多」(茶筅・宮番)がいます。茶筅の給与は藩庁から支給され、宮番は村費から支給される違いがありますが、「非常時」の出動、探索・捕亡・糾弾という職務については大きな違いがありません。長州藩とその枝藩は、幕府の要請に基づき、司法・警察に関与する「穢多非人等」を「穢多」という概念に統一しようとする傾向が強く働いています。徳山藩などは、すべての名称が廃止され「穢多」というひとつの概念に集約されて表現されています。近世幕藩体制下の司法・警察システムについてはこれ以上深入りしないようにして、明治以降の山口藩・山口県の司法・警察システムを図式化していきます。

図2は、廃藩置県前の明治4年3月、山口藩は、前年の12月に出された「三府并開港場取締心得」

に基づいて「御管内取締心得」を布告しましたが、『山口県警察史』の執筆者が、その「末文」から推測したことを、『部落学序説』の筆者が図式化したものです。

『山口県警察史』の文章を引用しながら、若干の説明を加えますと、山口藩主毛利敬親は、「明治元年(1868)十月、新政府から示された「藩治職制」に基づいて・・・全国に率先して藩機構の改革を行」います。同年11月には「防長藩治職制」を公布して「聴訟局」・「監察局」を創設します。この「聴訟局」は、明治4年の廃藩置県・「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告以降の「聴訟課」の母体になったといわれます。

「聴訟局」は、長州藩の「公事掛(評定所)と盗賊改方を合併したもの」で、その事務内容は、「聴訟(民事裁判)・断獄(刑事裁判)・および犯罪人の捜査・逮捕という司法警察事務」です。「聴訟局の職員として」、「主事」・「断獄方以下(断獄方・書記・筆者)」は、警察キャリアとして「藩士」階級から任命されました。山口藩庁は、そのキャリアのもとに下部組織を構成します。その下部組織は、「断獄方付・・・10人・・・新規の聴訟局打廻り5~6人、目明し2人」から構成され、その出自は「中間に相当する者」であったといいます。「聴訟局」の司法・警察システムは、「一部名称は変わったが、内容そのものは旧藩当時のままの体制で運用された」といいます。

「監察局」は、近世幕藩体制下の「直目付・目付」に該当するもので、「政治警察や職員の勤怠監察」等を担当していいわれます。

明治3年7月には、「聴訟局の事務分掌は「掌案」と「司鞫」(しきく)に別れ、掌案は今日の判事および検事の職を補助するもの、「司鞫」(しきく)は司法警察を扱ったものと思われる」そうです。

『山口県警察史』によると、山口藩庁の司法・警察システムの担当者は、キャリアとその下部組織ふくめても30~40名に過ぎません。山口藩庁は、その下の宰判・村にも、司法・警察の下部組織(『部落学序説』の筆者は「警察本体」という)として担当者が配置されます。そのほとんどは、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民をそのまま組み込んだものです。

宰判には、「内廻り・目明し・手先」が配置され、村には、「村方役人・目明し・手先・宮番」が配置されました。この「手先」というのが、近世幕藩体制下の長州藩の司法・警察である「非常・民」であった「穢多・茶筅」のことです。図2で、水色の四角は、近世幕藩体制下の司法・警察「非常・民」としての「穢多非人等」を指しています。

明治元年から明治4年の廃藩置県までの、山口藩庁・山口県庁の司法・警察システムの「本体」として、「打廻り」・「村方役人」とともに、近代警察官として、「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」が組み込まれていたのです。当時の人民と顔と顔をあわせて警察業務を遂行していた警察本体は、宰判と村に配置された、「内廻り」・「村方役人」・「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」だったのです。

明治初期の司法・警察システムの中で、「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」は、犯罪者の探索・捕亡・糾弾にかかわる、社会的になくてはならない存在であったのです。

次回、『山口県警察史』の文章をてがかりに、明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」に関する太政官布告のあと、「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」は、どのように、近代警察システムのなかに「受容」と「排除」に曝されていくのか、検証を続けたいと思います。注目すべき箇所は水色の四角形と線で図示します。

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