2021/10/03

「美作血税一揆」の真意(続)

「美作血税一揆」の真意(続)


「部落学」の提唱者・川元祥一は、その著・『部落差別を克服する思想』の冒頭で、「部落差別を克服するために新しい概念が必要になっている。しかも、それは外から与えられたものではなく、生活や歴史の内側から内在的に生まれ、創りだされるものだ。」といいます。川元は、「部落差別」が克服されたあとの世界を視野に入れて、「差別の観念や社会構造、制度が解体されたあとの、新しい人間関係を示す概念が必要」であるといいます。

「差別の観念」(心理的差別)や「社会構造・制度」(実態的差別)の両方が「解体」されたあとの、差別なき社会の「新しい人間関係を示す概念が必要」であるといいます。「新しい人間関係を示す概念」は、歴史の過去に対しても投影され、被差別・差別の両歴史が解明されなければならないといいます。

しかし、川元「部落学」の限界は、「新しい概念」を、「現代用語」・「学術用語」からではなく、使い古されて、固定観念と化した「古い概念」をさも「新しい概念」として、持ち出したことに見られます。「部落差別を克服するため」の「新しい概念」・・・、川元は、それを古語・歴史用語の中にしか見いだすことができなかったのです。

川元は、「穢多・非人」の「「役」を地域社会の分業とし、人々の関係性の基盤として見直すなら、そこに新しい概念が生まれる。」と断言するのです。そして、「そうした概念を、現代の資本主義社会の競争での差異と差別の構図をも考慮に入れながら抽出」するというのです。

その結果、川元が「抽出」した「新しい概念」は、「キヨメ」という言葉です。川元は、「キヨメ」(浄メ)という「役」(職業)を担った人々として、「穢多・非人」を見直すというのです。

川元は、「ケガレ」は、「穢多・非人」の本質からでてくる言葉ではなく、「穢多・非人」の「役」(職業)からでてくる言葉であるというのです。いわゆる、部落差別の由来としての「職業起源説」に、「部落差別を克服するため」の要因を求めるのです。

川元「部落学」がたどりついた結論は、身分的概念として、上下関係(貴・賤)で把握する「士農工商穢多非人」という図式に代えて、上下関係のない、職業的差異をあらわす「士・農・工・商・浄め役(旧「穢多・非人」)・諸芸(雑種賤民)」という図式を提案するのです。

川元は、「浄め役」を列挙して、「水番、山番、牢番、街道守、警備役、斃牛馬処理、皮細工、刑場の労役、神社・仏閣の浄め、・・・竹細工、藁細工」をとりあげます。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」の「浄め役」からの「解放」・・・ということになります。この布告によって、旧「穢多・非人」は、川元がいう、「水番、山番、牢番、街道守、警備役、斃牛馬処理、皮細工、刑場の労役、神社・仏閣の浄め、・・・竹細工、藁細工」等の「浄め役」から「解放」されたことになります。

「浄め役」からの「解放」は、「穢多・非人」にとって、よかったのか、悪かったのか・・・。

川元の『部落差別を克服する思想』を精読していると、川元自身、まだ、「浄め役」からの「解放」は、「穢多・非人」にとって、よかったのか、悪かったのか・・・、まだ、確信を持つことができない状態にあると判断せざるを得なくなります。

川元の「「屠牛」を職業としていて打ち壊しにあった家」、「賤民解放令と美作国血税一揆」、「干ばつによる肉食禁止令と農民の意識」等の文章を読むと、川元の先祖は、近世幕藩体制下の「斃牛馬処理」の「浄め役」を明治になってからも継承していたことが推察されます。

幕末から明治維新にかけても、明治4年太政官によって、「斃牛馬処理」の権利が「穢多」の特権でなくなったあとも、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の布告がだされたあとも、川元の先祖は、「斃牛馬処理」の営みを続けていた・・・ということになります。つまり、川元の先祖を、「浄め役」から解放したものは、明治維新でも、皮革取り扱いの特権廃止でも、「賤民解放令」でもなかったということです。川元の先祖を「浄め役」から「解放」したのは、歴史と時代の皮肉といいますか、「美作国血税一揆」に参加した「百姓」たちの「新政府反対一揆」に起因します。

川元は、「私が育った家は、昔は、屠畜場を経営していた。・・・明治初期までやっていたようだ。・・・私の家の経済が破綻した原因・・・、家が斃牛馬処理というか、屠畜場を経営していたから、・・・「醜業」だとして・・・打ち壊しにあっていた。・・・つまり、私のその家は、ケガレとか不浄に触れて「醜業」をしているという理由で打ち壊しにあっている。時期は明治6(1873)年のことだ。・・・江戸時代から斃牛馬処理を主体に屠畜とか皮革関係の家業をやっていた・・・醜業・・・をやめさせようとして家を壊した。・・・結果的に・・・私の家は・・・廃業に追い込まれた。・・・一揆の・・・農民が直接手を下すのではなく、同じ部落の者に・・・打ち壊ししろと脅迫・・・村人の手によって私の家は打ち壊され、こわされたあと家業をやめる」といいます。

川元の文章をていねいにたどると、川元の先祖を、近世幕藩体制下の「斃牛馬処理」という「浄め役」から、実質的に「解放」したのは、明治維新でもなければ、皮革の特権廃止でもない、まして、明治4年の「賤民解放令」でもなかったということになります。川元の先祖は、皮肉にも、明治新政府に対する反対一揆を起こした「百姓」たちによって「実現」させられるのです。

「何が農民をそこまで動かしたのか、もっと奥の深いものを考えていかないといけない・・・。」と気づいた川元は、「農民たちの意識の何が大切で、何が間違っていたか・・・、いまからでも私たち一人ひとりが考える必要がある・・・」といいます。「本当の意味で日本の近代を語るのはこのような農民の動きの解明から始めなくてはならない」といいます。

川元は、「部落差別を克服する」ための「新しい人間関係」の模索の中で、「旧穢多」と「旧百姓」の関係の見直しを、「旧穢多」の末裔としての歴史を背負って、「被差別」(「部落民」)を明らかにするために、「被差別」(「部落民」)の側から「差別」(「一般人」)の学的研究として、川元流「部落学」を構築していくのです。川元「部落学」は、「部落と農村が協力して関係をもってきた歴史」の回復を指向しているようです。

筆者の『部落学序説』の、「常民・非常民論」、「新けがれ論」から、川元「部落学」を展望するとき、川元の文章を、そのように解釈せざるを得なくなります。

川元祥一は、筆者にとっては、「学者・研究者・教育者・運動家・・・」の典型です。そのすべての「立場」をあわせもっているひとです。筆者は、そのいずれの要素ももちあわせていない故に、川元祥一が、かえって、無意識的に身につけてきた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」・「愚民論」の「残渣」を確認せざるを得ないのです。

川元は、「美作国血税一揆」の真の原因をどこにもとめるのでしょうか。  

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