2021/10/01

ごんごちの里

ごんごちの里

20年以上前の話ですが、長州藩の支藩である徳山藩の「北穢多村」の系譜をひく被差別部落の隣保館の中で開かれていた、部落解放同盟新南陽支部主催の「解放学級」に参加したことがあります。

そのころは、その部落解放同盟新南陽支部の支部活動の最盛期だったようです。「解放学級」に参加している人々は、その被差別部落の住人だけでなく、小学校・中学校・高校・大学の教師、新聞記者、宗教家と多種多彩な人々が参加していました。

部落解放同盟新南陽支部は、その「解放学級」にあらたに参加される方々のために、『解放学級 参加者のための資料(第1集)』を発行していました。筆者が持っているのは、それ1冊のみで、第2集以下については読んだことはありません。風のうわさでは、部落解放同盟新南陽支部によって、被差別部落の聞き取り調査が継続されていたとお聞きしてきますが、もしかしたら、第2集、第3集、・・・が存在しているかもしれません。

『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は、その被差別部落に身を置いて、明治・大正・昭和を生き抜いてきた「祖母」・「母」・「娘」の女3代に渡る、被差別部落民としての思い出を綴ったものです。「解放学級」での、集団聞き取りでの話ですので、話の内容は多方面に及びますが、筆者にとっては、山口県の被差別部落の生活と闘いを知る上で、貴重な伝承資料です。その被差別部落の歴史は、女性によって担われてきたのかもしれません。

唯一の男性の語り手は、部落解放同盟新南陽支部の支部長をされていた方で、部落差別について、淡々とした口調で、にこやかに語られる姿は、多くの参加者の好感を集めていました。その存在の大きさは、その支部長さんが病気でなくなられたあと、部落解放同盟新南陽支部が急速に失速し、「解放学級」の参加者が激減したことでも知られます。

その『解放学級 参加者のための資料(第1集)』の中に、被差別部落の中に伝わる幽霊の話がでてきます。

被差別部落に伝わる幽霊のひとつに、「ごんごち」というのがあります。支部長さんは、「ごんごち」についてこのように話しています。

「まだ廃れていない言葉。ごんごちは、この辺では、いまだに健在なのよ。徳山では、ごんごちというものを知らない人が最近は多いがね。・・・今日の子は、ごんごちというても何もわからん。「ごんごちって何・・・?」というから、「幽霊のことよ」というと、「わあ、こわい!」って。うちの会社の女の子に、「ごんごち知っているか」、いうたら、「それ何?」って・・・。だめだね・・・」(『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は録音テープからの書き下ろし)。

支部長さんの話を聞いていると、「ごんごち」は、「こわい幽霊」というよりは、「おもしろい幽霊」のイメージが漂ってきます。「解放学級」の参加者の中にも、徳山市在住のひともいたのですが、「ごんごち」について知っているひとはだれもいませんでした。「ごんごち」とは、どんな幽霊なのか・・・、みんな知りたいと思ったのですが、「ごんごち」が、どんな幽霊か、見たひとはだれもいませんでした。

あるとき、支部長さんから、その被差別部落のことを、「調べれるだけ調べてほしい・・・」と頼まれたことがあります。筆者は、被差別部落のことを調べることは「差別行為」であるというイメージを持っていたので、最初、お断りしたのですが、「どうしても・・・」と、頼まれて引き受けることにしました。そのとき、支部長さんから、筆者に対して、そのような依頼がなかったら、筆者がブログ上で書き下ろしをしている『部落学序説』が生まれることは決してなかったことでしょう。

『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は、筆者が、山口県の被差別部落の歴史や伝承、日常の暮らしを調べるうえで、多くのてがかりを与えてくれました。その調査は、いまも継続しています。筆者は、『部落学序説』でも言及しましたが、柳田国男は、「事実を基にして考えてみる学問、どんなに小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出逢うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」の大切さを説いていますが、筆者は、被差別部落を尋ねる以前から、「覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」を身につけるよう努力していました。

筆者は、『解放学級 参加者のための資料(第1集)』のすべてのことを理解しているというわけではありません。理解できた部分もありますし、いまだに理解できない部分もあります。理解できない場合、早急に無理な解釈をほどこすことなく、そのことがらが自らを開示しれくれまで、いつまでもまち続けるという方法で被差別部落の歴史や伝承、日常の暮らしを調べていきました。

「ごんごち」というのも、いまだに解明されていないことがらのひとつです。

「幽霊」を『広辞苑』でひもときますと、「①死んだ人の魂。②死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの」。筆者は、「ごんごち」が、昔生きてはいたけれども、今は死んでしまっている人の「魂」・・・であるとは思えないのです。

支部長さんも、他の幽霊にふれて、このように話しています。「どういうかの、今でいう怪獣じゃないの。みんな、見たことはないわけ。みたことはないけで、みんなこわかった。こどもの頃は・・・」。「ごんごち」も、死者のたましいと何の関係もない「怪獣」・・・、より的確な言葉でいえば、「妖怪」の可能性があります。

「妖怪」を『広辞苑』でひくと、「人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。化け物。」とあります。「幽霊」は、昔は生きていたひとのことですから、調べていけばそのひとに到達することが可能なようですが、「妖怪」は、「人知では解明できない」ところにところに特徴があります。人知で解明できるようになると、それは、もう「妖怪」ではなくなります。これでは、「妖怪」は、永遠に人間には解明できない存在になってしまいます。

「ごんごち」は、「幽霊」ではなく、「妖怪」ではないか・・・、筆者は想像をたくましくします。インターネットを検索しますと、「老人が子供をおどかした時の、「○○がくるよ」・・・教訓妖怪全国一覧」(http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/zatugakuchou/14/)に、山口県・島根県の「妖怪」として「ごんごち」が出てきますから、まんざら間違いではなさそうです。鳥取県うまれの水木しげるの「妖怪リスト」(http://www.japro.com/mizuki/set.html)にはごんごちの名前は出てきません。水木しげるが知らなかったか、「ごんごち」が妖怪の中の妖怪であって、水木しげるでさへ、「ごんごち」がどんな妖怪なのかイメージすることができなかったのではないかと推測されます。

インターネットで、「ごんごち」に関する伝承をあつめて比較検証していて思うのですが、「ごんごち」は、遅くまで起きている幼児を、早く寝かせるために、おとなが、「早くねないと、ごんごちがくるよ・・・」とか、「ごんごちに食べられちゃうよ・・・」とか、おどかすために利用された「妖怪」のようです。

この「ごんごち」、「岡山の方言」(http://www.head-clinic.ne.jp/FA_doc/hohgen.html)によれば、津山地方では、「かっぱ」を意味したそうです。

筆者は、「そうか、ごんごちとは、かっぱのことだったのか・・・」と妙に納得がいきました。「人知では解明できない」はずの「妖怪」が、筆者の目に、少しくその姿をあらわした瞬間でした。

筆者は、岡山県倉敷市児島琴浦の出身です。父は、四国の讃岐、母は、四国の阿波出身です。当然、こどもの頃、「はやくねないと、ごんごちがくるよ・・・」というおどしを耳にしたことは一度もありません。筆者の記憶では、「はやくねないと、海坊主がくるよ・・・」という言葉は繰り返し耳にしたように思います。

「海坊主」とは何なのか・・・。「幻想動物の事典」(http://f61.aaa.livedoor.jp/~toroia/data/monster.html)によると、「海坊主」は、「身体はスッポンで人面、毛髪はない。体長は5、6尺ほど。」だそうだ。筆者には、「海坊主」とは、歳をとった巨大なかっぱのようにイメージされます。

「ごんごち」も「海坊主」も、もしかしたら、先祖は「かっぱ」なのかもしれません。

「ごんごち」が語り伝えられる被差別部落は、大きな川のそばにあります。かっぱが出ても不思議ではありません。「ごんごち」は「かっぱ」の別名であった可能性もあります。「かっぱ」がいつのまにか「ごんごち」になってしまった・・・。概念が、「かっぱ」から「ごんごち」に変わることによって、「ごんごち」はさらに、「人知では解明できない」ものになってしまったのではないか・・・、筆者はそのように考えます。

日本の司法・警察であった「非常・民」としての「衛手」(まもりて・エタ)が、「穢多」、「旧穢多」、「新平民」、「特殊部落民」、「未解放部落民」、「被差別部落民」、「同和地区住民」、「被差別市民」・・・と、次から次へ概念を変えられることによって、「衛手」(まもりて・エタ)は、「人知では解明できない」、永遠に解決不能な存在へと追いやられてしまったのではないか・・・。

部落解放同盟の田所蛙治氏のブログ『蛙独言』(http://aogaeru.txt-nifty.com/kobe/2004/12/index.html)の中に、このような文章がありました。

「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。
芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
高校生の時に読んだのだ。
当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。
 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。
うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。

被差別を突き抜けて生きようとする田所蛙治氏の姿勢がひとことひとことに織り込まれています。田所蛙治氏は、「お前は蛙だッ!」といわれて、絶望して死ぬのではなく、「そうだ、俺は蛙だ!」と宣言して生き続けるたくましさのようなものを感じます。「俺は、蛙になったのだから、河童に関することは、そんなに大した問題ではない・・・」とも言い切ります。

『部落学序説』の筆者は、そのような田所蛙治氏の部落解放運動家としての姿勢に共鳴しつつ、しかし、こうも考えるのです。「あんたは、本当は蛙やない。河童や、河童なんや。蛙を捨てて、河童としていきなはれ!」

部落差別は、「妖怪」の世界の問題ではありません。「人知では解明できない」世界の話ではありません。部落差別は、人間が、政治が、権力者が作り出したものです。人間が、自分の手で作り出したものは、人間の手で解決することができます。政治が作り出した闇は、政治によって闇の世界に光を注ぐことができます。部落差別は、人知によって解決可能な問題なのです。政治が、部落差別を完全に解消する日まで、被差別部落の人々は、政治と妥協したり、政治を過大評価してはいけません。部落差別完全解消の日まで、その部落解放の闘いを続けるべきです。しかし、「同和対策事業」だけが、部落差別完全解消の道ではありません。「蛙」が「河童」に回帰し、「ごんごち」が「河童」に回帰するときにこそ、部落差別完全解消のほんとうの日はやってくるのです。

筆者は、「釈迦に説法」をしている愚をおかしていることを認識しつつ、「ごんごちの里」で展開された、ある同和対策事業の「PLAN・DOS・EE」(計画・実行・評価)を紹介することで、筆者の「同和対策事業」観を明らかにするとともに、日本全国各地で展開された、同和対策事業の評価方法のモデルを提示したいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...