2021/10/03

太政官布告の釈義 3.「等」の意味

太政官布告の釈義 3.「等」の意味


石尾芳久著『明治維新と部落解放令』には、明治4年の太政官布告に関する様々な史料が引用されています。その中に、明治4年の太政官布告の原案ともいうべき、民部省案・大蔵省案が紹介されています。明治4年7月27日民部省は廃止されますので、明治4年8月28日の太政官布告第448号と第449号は、廃止された民部省案より大蔵省案の方がより強く反映されたと推定されます。

『明治前期財政経済史料集成』(第3巻編外大蔵省沿革志・戸籍寮)にこのように記されています。

「二十八日穢多・非人ノ称ヲ廃シ共ニ民籍ニ編入スルノ方策ヲ太政官ニ稟議シ、裁可布告ス。太政官布告ニ曰ク、自今穢多・非人ノ称を廃止ス。其ノ身位・職業共ニ平民ト同等タル可シ」。

沖浦和光は、この文章に「民籍編入布告に関する通達」(沖浦和光編『水平人の世に光あれ』社会評論社)という表題を付けています。この「通達」は、太政官布告第448号と第449号とは別に府藩県に配布されたようです。沖浦は、「この通達を受け取った各府県では、近世各藩の賤民対策の歴史的な相違もあって、おそらくかなりの戸惑いがあったと思われる。その年の7月に廃藩治権が決定されたばかりで各府県の統合成立が進行中であったから、この布告をどのように通達するかをめぐってさまざまな意見が出されたであろう。なんらかの社会的な啓発もなされぬまま突如上から指示されたのであるから、それに即応する体勢ができていなかったのである。そういう事情もあって、民衆に布告を通達する形式も内容も日時も各府県で統一されず、独自の趣意を盛り込んでバラバラの形で出されたのであった。」といいます。

太政官布告第448号・第449号に次いで、この「通達」を受け取った各府県がとまどったことがらのひとつに、太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等」という言葉は、「通達」では「等」が削除されて、「穢多非人」という言葉に置き換えられていたことがあげられます。「通達」の「穢多非人」という言葉は、太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等」という言葉の訂正ないし修正として受け止めることができます。その場合、「穢多非人等」は、あくまで「穢多非人」(明治4年3月の民部省案では「穢多の類」と表現される)のことであって、いたずらに拡大解釈されるのは相応しくないということになります。大蔵省原案は、最初から、「穢多非人ノ名称ヲ廃シ、都テ平民同様可為取扱・・・」とうたっていますから、明治4年の太政官布告は、「穢多非人」に限定されたものと推定することは不可能ではありません。

大蔵省案や「通達」を見る限りでは、明治4年8月28日をもって穢多非人の称が廃止されたということになり、太政官布告第448号、第449号に先立って穢多非人の称廃止の布告を想定することは難しくなります。

民部省が廃止され大蔵省の発言力が強まる中にあって、太政官は、なぜ、大蔵省原案を採用せず、太政官布告第448号・第449号の条文を採用することになったのでしょうか。太政官によって、大蔵省原案は、二つの布告に分けられ、「民」に対しては第448号が、「官」(府県)に対しては第449号が公布されることになったのでしょうか。背景に何かありそうです。

もう一度、太政官布告第448号と第449号の共通部分、「穢多非人等ノ称被廃候条」という言葉に戻りますが、太政官は、明治4年8月28日の布告に先立って、それ以前に出した布告との整合性をとったのではないかと思います。他の布告との整合性からの要請として、「穢多非人等ノ称被廃候条」が付加されたのではないかと思われるのです。

『部落学序説』の筆者である私は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」は、明治4年3月の布達によって既に、その近世幕藩体制下の身分から「解放」されていたと思うのです。

近世幕藩体制下の身分は、将軍や藩主に対する忠誠の反対給付として所定の石高を保証されていました。何万石、何十万石という給付を受けることで、藩主に忠誠を誓い、その日常の業務に従事していました。しかし、藩士も時として、藩主から主従の関係を解約される場合がありました。つまり、無給になって、浪人生活を余儀なくされる場合もあったのです。そのとき、浪人となった元藩士は、元藩主に対して、無給のまま、藩主から課せられる「役務」に従事しなければならなかったかというと、決してそうではありません。近世幕藩体制下においても、「給付なければ服従なし」ということが、判例として認められていました。史料の中には、その判例は、「穢多」に対しても適用されています。「穢多・非人」の場合も、「役務」に従事する見返りとしての反対給付(多くの場合、免税による給付)がなくなれば、その「役務」に服従する義務はなくなります。

「穢多・非人」にとって、斃牛馬処理の権は、その反対給付のうちでも最も象徴的なものでした。明治政府は、明治4年の太政官布告代448号・第449号に先立って、「穢多・非人」から斃牛馬処理の権を剥奪しているのです。近世幕藩体制下、司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた「穢多・非人」に容認されていた斃牛馬処理の権は、明治政府によって、一片の「布達」によって否定されていたのです。

その「布達」というのは、明治4年3月に出された「斃牛馬等勝手処置の布達」(岩波近代思想大系『差別の諸相』)のことです。明治政府は、斃牛馬処理にかかる平民に対する経済的負荷の軽減のため、「従前ノ旧弊」を一新し、「向後牛馬其外畜養ノ生類相斃候節ハ、持主ノ随意ニ致サセ可申・・・」というのです。このことは、「穢多」の「重要な生業を奪う結果になる」(ひろたまさき)だけでなく、実質上の「穢多・非人」の身分制度廃止であったと思われるのです。

明治新政府は、朝令暮改と思われるほど、次から次へと法を発行していきます。発行したあと、修正・追加をくりかえすことはよく見られます。

太政官にとって、明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」こそ、「穢多・非人」身分廃止の布告であったのではないでしょうか。太政官は、この明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」を、「穢多非人等ノ称被廃候条」と表現したのではないかと推測されるのです。

つまり、明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」こそ、実質上の「身分解放令」であって、明治4年8月の太政官布告第448号・第449号は、その確認のための二次的法令でしかない・・・、ということになります。

黒川みどりをはじめ、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の多くは、明治4年8月28日の太政官布告(彼らのいう「解放令」・「賤民解放令」・「賤民廃止令」)によって、「もはや独占的に皮革の売買をすることができなくなった」(『地域史のなかの部落問題』解放出版社)といいます。しかし、実際は、8月28日の太政官布告によってそうなったのではなく、その布告の半年前に、既に、皮革は、「穢多」の手から離れていたのです(続く)。

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