2021/10/03

太政官布告の釈義 4.「穢多非人等ノ称被廃候条」

太政官布告の釈義 4.「穢多非人等ノ称被廃候条」


【穢多非人等ノ称被廃候条】

大蔵省原案では、明治4年の太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等ノ称被廃候条」という表現は、「穢多非人ノ名称ヲ廃シ」という表現になっています。

明治政府は、近代天皇制国家の理念・「一君万民」のもと、近世幕藩体制下のすべての身分をその桎梏から「解放」します。

長州藩は、藩主以外の人民を「武士」と「百姓(町人を含む)」に分けました。長州藩の「穢多村」の在所や産業が克明に記されている『防長風土注進案』によると、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の「穢多・非人」は、「百姓」の末尾ではなく、「武士」の末尾に記述されている事例が多く見られます。

『部落学序説』は、柳田国男民俗学の用語、「常民」・「非常民」という概念を流用し、再定義して、『部落学序説』の固有の概念として使用してきました。「非常民」に属する人々は、近世幕藩体制下の軍事・警察に携わった人々のことで、特に、「穢多・非人」は、司法・警察の本体として「特化」された存在です。司法・警察に関与した身分には、奉行・与力等(現代的な意味のキャリア)だけでなく同心・目明し・穢多・非人・村方役人等(ノンキャリア)がいました。

明治新政府は、ただひとり、「穢多・非人」を、近世幕藩体制下の身分から「解放」したのではなく、すべての「非常民」を近世幕藩体制下の身分から「解放」したのです。

「穢多非人ノ名称ヲ廃ス」という布告がいつ出されたのかは、今のところ定かではありません。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「明治3年迄は殆ど旧幕時代と同様な地方政治体制をとっていたのが、4年4月に旧来の名主・庄屋等の称が廃止され、戸長・副戸長に改められ・・・」たといいます。庄屋の名称廃止は、ただ単なる名称廃止にとどまらず、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の身分・村方役人という身分の剥奪・・・という意味が含まれています。しかし、「平民」の間で、明治政府の意図が伝わっていないことを知った政府は、さらに布告を出して、庄屋の名称廃止は、旧幕時代の「権力行使」の廃止であることを周知徹底させようとします。

近世幕藩体制下の「非常民」の中で、最初に、その身分から「解放」されたのが、どの身分なのか、今のところ確言できません。一般説・通説に従うと、「解放」が最終的に確定された順序は、「村方役人」、「穢多非人」(「隠亡」・「目明し」を含む)、「同心」の順になります。「同心」の場合、明治2年6月、旧幕時代の「士雇」(中間足軽以下の身分)の各称は廃止され、あらたに「卒」身分に組み込まれますが、明治5年1月、「世襲の卒は士族身分に編入され、一代限りの卒は平民身分におとされることになり、卒なる身分が消滅する」(水林彪著《新律綱領と改定律令の世界》)のです。

明治4年の太政官布告を「解放令」と呼ぶならば、近世幕藩体制下の「穢多非人」に対する身分「解放」は、明治政府の「一君万民」政策による、近世幕藩体制下のすべての身分の「解放」、特に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」身分の「解放」・・・という文脈の中で、「穢多非人」身分の「解放」が論じられなければなりません。ことさら、明治4年8月28日の太政官布告のみを「解放令」とするのは問題があります。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」身分の中で、司法・警察の最大組織(警察の本体)であった「穢多非人」は、『明治天皇紀』によると、「穢多・非人等の称を廃して之を民籍に編入し・・・」云々の記載のあと、「当時全国に於ける穢多二十八万三百十一人・非人二万三千四百八十人・皮作等の雑種七千九百九十七人にして、総計三十八万二千八百八十八人なり」と記されています。もちろんこの数字には、子供や老人も含まれていますから、直接司法・警察に従事した人の数はこれより少なくなります。しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としては大人数で目立ったため、解体され、リストラされた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に、「新平民」(平民身分に落とされた人々)という蔑称が投げかけられたと想定することができます。

しかし、近世幕藩体制下の身分制度からの「解放」は、司法・警察である「非常民」だけでなく、すべての「非常民」に及びます。

明治2年、明治政府は、「公卿の称を廃し」します。「華族」に組み替えられた「元公卿」には、「平民」同様の「職業」の自由が保障されます。同じく明治2年、明治政府は、「諸侯の称を廃し・・・華族」に組み替えます。そして明治4年、元藩主に対しても、「平民」同様の職業の自由を保障するのです。明治3年には、「元公卿」・「元藩主」に使えていた「官人」・「藩士」の「名称」・「等級」が廃され、士族・卒族に組み替えられ、これまた、「平民」同様の「農工商業を営する」を許可されます。旧武士階級は、「従前の束縛を解放し自由自在の身となる」といいます(木下真弘著『維新旧幕比較論』)。

神主と僧侶は、華族・士族・卒族に振り分けられます。明治5年・6年の布告で、「僧尼、従前の束縛を解放し、自今、破戒の罰を受るの憂いなく一身を処する、甚だ自由にして、天理人道に戻るの苛法を脱することを得たり。」といいます。

木下真弘は、「穢多非人の称を廃・・・」され、「職業」が、「平民」同様に自由がゆるされたことによって、「穢多非人」の「解放」につながったという記述は一切していません。武士や僧侶が、「従前の束縛」から解放されたと了解している時代に、「穢多非人」については、「従前の束縛」から解放されたという記述は一切なされていないのです。「僕婢娼妓」の「解放」がうたわれているのに、「穢多非人」の「解放」については一切評価・言及されることはないのです。

筆者は、「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」ではじまる、明治4年8月28日の太政官布告は、「半解半縛」の布告であったと認識していますが、「半解」とは、近世幕藩体制下の身分(役務+家業)のうち「家業」(職業)のみ自由が保障されて、「役務」からの解放は「留保」された(「半縛」)ことを意味します。

近世の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」は、政治・行政の表舞台から裏舞台へ追いやられ、影の警察権力としてその存在を余儀なくされていきます。その過程の中で、「穢多」と「娼妓」の関係が緊密化させられていきます。しかし、「穢多」は「穢多」であって、決して「娼妓」ではありません。「娼妓」は「娼妓」であって、決して、「穢多」ではないのです。部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の中には、両者を混同する向きもみられますが、近世幕藩体制下、「娼妓」は、決して「穢多の類」ではありませんでした。一部の芸能人を除いて(「穢多」の探索活動としての芸能を除いて)、殆どの芸能人も「穢多の類」ではなかったのです。(続)

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