2021/10/03

太政官布告の釈義 2.「穢多非人等」

太政官布告の釈義 2.「穢多非人等」


一般的に「解放令」と呼ばれている太政官布告第488号と第489号・・・。この表現は、部落史研究上で一般的ではなさそうです。

インターネット上で、第488号・第489号を検索しても、該当する文献を見つけることはできませんでした。筆者は、「解放」・「賎民」という概念使用することで、その背後にある日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を暗黙の前提として追認することを避けるため、概念にその内容を内包しない形式的な用語「太政官布告第○○号」という形式的表現を採用することにしました。しかも、この布告が、二つの布告から構成されていることが分かった今は、「太政官布告第61号」と一括して呼ぶよりは、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の二つに分けて取り扱うことがより妥当であると判断しました。

ただ、無学歴・無資格の筆者の弱さでしょうか、「太政官布告61号」という表現と、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」という表現の関連性について、いまだに解明できないでいます。「太政官布告61号」「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」は、まったく異なるものなのか、それとも「太政官布告61号」「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号の合体したものなのか・・・、基礎的なことすら確認することができないでいるのです。

これまで、筆者は、『部落学序説』執筆に際して、歴史資料や学者・研究者の論文を批判検証の対象にして自説を説いてきましたが、それなのに、「太政官布告61号」という表現と、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」という表現の関連性についてほとんど何の情報も入手することができないということは、二つの可能性を想定することができます。ひとつは、両者の関連性について、これまで何の検証もなされてこなかった、もうひとつは、両者の関連性についてはあまりにも一般的で学者や研究者が検証の必要性を認めていない・・・。後者の場合、筆者の勉強不足・研究不足ということになり、多くの人から失笑をかうことになるでしょう。

愚をおかすことを覚悟して、岩波近代思想大系第22巻『差別の諸相』に収録されている「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」を、別々な条文として意識的に比較してみますと、両者の共通点と相違点が明らかになります。

共通点というのは、「太政官布告第488号」「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」「太政官布告第489号」「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という冒頭部分が完全に一致するということです。「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」が同一の条文であるなら、「太政官布告第489号」の冒頭部分で、あらてめて「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という表現を採用する必要性はなかったと思われます。「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という表現を冒頭で繰り返しているところをみると、やはり、『差別の諸相』に収録されている「太政官布告第488号」と「太政官布告第489号」は、別な、それぞれから独立した布告が他にあったのではないかという思いを強くさせられます。

さらに、「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」を、筆者が読むと、「穢多非人等の称が廃されたゆえに・・・」という意味になります。『岩波国語辞典』によると、「条」というのは、「候文に用いる接続の語。よって。ゆえに。とはいえ。「・・・に候条」」とあります。

「ゆえに」というのは「理由」を示す接続語ですから、「太政官布告第488号」「自今身分職業共平民同様タルベキ事。」という条文、「太政官布告第489号」「一般民籍ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤モ地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。」「理由」・「根拠」にもなります。

筆者はそこで推測するのですが、「太政官布告第488号」、「太政官布告第489号」は、それぞれ共通の、別の布告「穢多非人等ノ称ヲ廃ス」という包括的な布告をより具体化するために二次的に出された布告ではないかと。

「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」以外に第3の布告の存在を想定することができるのですが、第3の布告に該当するものとして想定することができるのは、「太政官布告第61号」です。「第61号」というのは、その番号の若さからみて、明治4年の1月から2月の間に出された布告ということになります。それから半年後、明治新政府が、旧幕藩体制を総合的に廃棄し、諸制度を近代国家に相応しい中央集権国家を建設するために実施された廃藩置県のあと、より具体的に、「太政官布告第488号」、「太政官布告第489号」として公布されたのではないかと想定されるのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、この「明治4年の太政官布告」が持っている「あいまいさ」を明らかにしようとしてこなかった・・・と断言することができるのではないでしょうか。明治政府は、一般的に、外交が絡む問題については、国内に対する発言と国外に対する発言を、「国民支配」・「国民統治」を理由に微妙に言い換えるか、隠蔽する傾向があります。しかも、学者・研究者・教育者がそのことについて触れることに罰則を科してきたので、学者・研究者・教育者は、今も、その枠組みの中に置かれている可能性が多分にあります。

「明治は遠くなりにけり」と歌われるようになって時が久しく経過しましたが、明治という時代は今日から遠く隔たったとしても、明治政府がかけた日本の歴史学に対する規制は、戦後60年、「象徴」天皇制の時代になったといっても、「天皇制」が継続された今日においても、その規制が有効に機能しているのではないかと思います。

「明治4年の太政官布告」は、「本原性の批判」(今井登志喜著『歴史学研究法』東京大学出版会)に曝されなければならないと思わされますが、無学歴・無資格の筆者のよくするところではありません。

とりあえず、「明治4年の太政官布告」の持っている問題性を指摘した上で、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の共通部分・「穢多非人等ノ称被廃候条」という条文に注目してみましょう。

【穢多非人】

まず、「穢多非人」についてですが、「穢多非人」は、『部落学序説』がこれまで明らかにしてきたことを前提にしますと、「賎民」ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」になります。「穢多非人」は、地方の小藩においては、「穢多の類」・「穢多」として多種多様なことばでよばれていますが、その「役務」の内容において大差ありません。「穢多」「穢多役」「非人」「非人役」という、司法警察上の「役務」の内容を表現するものであって、「穢多」・「非人」の人間性の本質を定義することばではありません。

【穢多非人等】

しかし、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の両布告は、「穢多非人」のことばの後に「等」を付加しています。穢多非人」の範疇に入らない人々が想定されています。「穢多非人」以外の「穢多非人」に類する人々とはどのような人々のことなのでしょうか。この「穢多非人等」という概念の、構成要素である「外延」をどのように捉えるかによって、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の意味するところが大幅に変わってきます。これまでの、部落研究・部落問題研究・部落史研究は、その研究対象が誰であるのか、それをあいまいにする傾向がありました。学者・研究者・教育者の良心にかけて、その研究対象を解明するというのではなくて、明治政府・学者・教育者・運動家によってむしろ、「穢多非人等」概念、「部落」概念が拡大されてきた可能性があります。明治初期に始まる概念の外延拡大傾向は、「水平社宣言」・「同対審答申」の時代はもちろん、33年間15兆円という膨大な時間と費用をかけた同和対策事業・同和教育事業が終了した今日にあっても、事業継続を説く人々によって、「部落」概念はさらに拡大され、あいまいさの世界に追いやられているのです。「部落差別」は、被差別者の拡大とあいまいさによってのみ達成できるという悪しき「妄想」に立って・・・。それを指向する人々と違って、被差別の対象を限定し、その本質を明らかにすることによって差別の完全解消を訴えようとする『部落学序説』の基本的立場からは、この「穢多非人等」「等」について、あいまいに、適当に処理することは許されません。

この太政官布告はどのような意味を持っていたのか・・・。明治政府の太政官の側の説明に耳を傾けてみましょう。

岩波文庫の中に木下真弘著『維新旧幕比較論』があります。文庫本の表紙に、次のような紹介文があります。「明治維新によって、日本の社会はどのようにかわったのか。当時、太政官官吏として政治の中枢に身をおいていた木下真弘(1824-97)が、明治新政の具体的諸成果を、旧幕府の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした試論。岩倉具視の命を受けて執筆されたもので、維新当時の民衆の実態に接近できる一級資料である。原題「新旧比較表」。

「穢多非人等」の意味を解明するために、著名な学者の研究成果の紹介からはじめるのもいいのですが、ここは、「明治4年の太政官布告」を出した官僚側のことばに耳を傾けてみましょう。

『維新旧幕比較論』の校注者である宮地正人は、『維新旧幕比較論』を、木下真弘が「熊本県士族で儒学者出身の太政官官吏」として、「明治9年末から10年後半にかけ、明治新政の具体的諸成果を、旧幕時の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした史論」であるといいます。また、この書は、単なる太政官官吏である「木下真弘の純個人的な著作ではない」といいます。「三条・岩倉の命をうけてなかば公務として執筆された」ものであるといいます。宮地は、三条・岩倉が、「明治9年後半という物情騒然たる全国的情況のもとで、もう一度政府のやってきた諸政策の意味と意義を回顧し確認する」ために、太政官官吏・木下真弘をして執筆せしめたものであるというのです。

宮地は、『維新旧幕比較論』の特徴として、「政治・行政のすべてが集約される場であった太政官正院(明治10年1月の改革において正院の名称そのものは消滅する)という政治の中枢部に身をおき、政策担当者の思考法に通暁していた明治官僚の木下が、どこに明治新政の成果を見ようとしていたか、そしてどこにその制約と課題があると考えていたかが、きわめて明瞭に判明する」といいます。

宮地は、さらに続けて、このように言います。「明治維新は、ややともすると現在の諸現象の直接的な起源として安易に解釈されがちであるが、我々は、木下の同時代的な考察を媒介することによって、よりその真実と民衆の実態に接近することが可能となるであろう。」といいます。

宮地は、「所謂「解放令」は「穢多非人」の身分的な解放というよりは、・・・排他的な利益集団を打破し解体したのだという強烈な意識のされ方」がなされていたといいます。

「明治4年の太政官布告」は、「部落解放令」・「賎民解放令」等の「解放令」でもなければ、「賎称廃止令」・「賎民廃止令」等の廃止令」でもない、あらたな解釈の可能性もあるのです。

明治以降の日本の歴史学の「禁忌」を受容しそれを踏襲している限り、「明治4年の太政官布告」は、「賎民解放令」・「賎民廃止令」という解釈からのがれることはできません。しかし、明治政府の官僚の残した記録が、日本歴史学の通説・一般説を覆す可能性もなくはないのです(続く)。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...