2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その7 続々々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」

賤民史観と「解放令」 その7 続々々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」 

ここで、「唯物史観」と「皇国史観」が、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告をどのように受け止めていたのか確認しておきましょう。

筆者の手持ちの資料の中には、このことについて、直接言及した論文等はありませんので、筆者の手持ちの資料の中に散在する「唯物史観」と「皇国史観」に関する断片的な資料を批判・検証した結果を、筆者なりに要約したものに過ぎません。

「皇国史観」から見た太政官布告

まず、「皇国史観」が、明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告をどのように認識していたのか、その概略をとりあげていきましょう。尾藤正英によると、「皇国史観」の前提となる「近代日本の国家体制」(国体)が確定・制度化されたのは明治22年(1889)年のことですから、明治元(1868)年から明治22(1889)年は、「皇国史観」の形成期であるといえます。その約20年間、試行錯誤を経ながら「皇国史観」は構築されていったと思われます。明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告がだされた当時は、まだ「皇国史観」構築の過渡期(しかも初期の状態)にありますので、完成された「皇国史観」で、明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を解釈することは、時代錯誤としての歴史学上の過認識を引き起こしてしまいます。

柳瀬勁介の代表作『社会外の社会穢多非人』の執筆を開始したのは、明治26年頃であったといわれます。

この書は、明治20年代の、まだ「唯物史観」に汚染されていない時代の「皇国史観」に基づく、明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告に対する認識を保存しています。

柳瀬勁介は、その「緒言」において、「そもそも明治昭代の今日、復た旧来の陋習あるへからず。明治元年三月至聖なる皇帝陛下は畏くも五条の御誓文を以て天地神祗に誓はせ賜ひ、其一に「古来の陋習を破り天地の公道に基く可し」と宣はせられる。伏して惟んみるに斯の御誓文是れ洵に維新制度の根本にして且つ明治文化の淵源なり・・・。」と、柳瀬勁介が「皇国史観」の受容者であることを綴っています。

柳瀬は、それに続いて、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告についてふれ、このように綴ります。「陛下聖明一視同仁の徳政を布かれ夙に明治4年8月勅して穢多非人の称を廃し更に平民籍に編入せしめ玉ひぬ。思ふに亦元年御誓約に係わる「古来の陋習を破る」聖旨を紹かせられたるに他ならざるべし」。

明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、何だったのか・・・。その問いに対する答えを導き出すだめに、柳瀬は、「五ヶ条の御誓文」の第4項・「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」を、明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告の解釈原理として採用しているのです。

この「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」に使用されている「天下ノ公道」とは、「世界共通の正しい道理。万国公法(国際法)のこと。開国和親の方針。」(詳説『日本史史料集』(山川出版社))を指しています。

そのために「破」らるるべき「陋習」は、「昔からの悪習。ここでは攘夷運動をさす。」(同書)を意味します。本来、明治政府の外交方針をうたった「五ヶ条の御誓文」の第4項・「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」ということばを、柳瀬は、「慣習風俗」にまで波及させて使用しています。

その結果、柳瀬は、明治4年8月の太政官布告の中に、「穢多非人等ノ称廃止」だけでなく、明治天による「一視同仁の徳政」と「元年御誓約」の聖旨の実現を読み込むのです。天皇のことばによって天皇のことばを理解する・・・。柳瀬の主張は、まさに、「皇国史観」に則った主張なのです。柳瀬は、それにも係わらず「穢多非人等」が、「社会の階級の最下層」に閉じ込められ「賤侮軽蔑」にさらされているのは、「仏教迷信の餘弊にして我邦上古よりの遺風にはあらさるなり。」と断言するのです。

明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を、明治天皇の聖旨に基づくものと解釈した上は、その太政官布告は布告として完結したものでなければならなくなります。「皇国史観」の一般的傾向としては、「天皇の聖旨」に瑕疵を認めることはありません。明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告は、それ自身で完結したものであると解釈されていたと思われます。

それ以降の「天皇の聖旨」に違う事態の責任は天皇にあるのではなく、「仏教迷信」に起因するというのです。「仏教迷信」の「陋習」は、「明治革新の美果」をそこなうというのです。柳瀬の『社会外の社会』は、近代天皇制の「国体」と「国家神道」のイデオロギーである「皇国史観」の忠実な継承と普遍化を特徴としています。

「皇国史観」から見た太政官布告の特質を箇条書きにしますと、次のようになります。

1.近世幕藩体制を天皇の聖旨の反映していない「変則的な政治形態」とみなす
2.近世から近代への移行を「夜」から「昼」への移行ととらえる
3.近世身分制度の解体は天皇の「一視同仁」のあらわれとみなす
4.法的には「臣民」にほかならない
5.明治4年の太政官布告はそれ自体完結したものである
6.旧穢多に対する差別は天皇治世の「遺風」ではない
7.旧穢多に対する差別は「旧来の陋習」(仏教迷信による穢多の人外視)が原因である
8.旧穢多に対する差別を取り除くためには政治の関与が必要である

「唯物史観」から見た太政官布告の特質を箇条書きにします。

1.歴史は「解放の過程」である
2.近世幕藩体制は「特殊部落民」にとって「暗黒時代」(残虐な時代)である
3.「特殊部落民」は、天皇制に隷属化された被征服者の末裔・「賤民」である
4.明治4年の太政官布告は「賤民解放令」である
5.明治4年の太政官布告は欠陥法である(政治的解決はしたが社会的解決には達していない)
6.天皇制は「特殊部落民」を「特殊部落」という牢獄に繋ぎ残忍・残虐を尽くした
7.特殊部落の原因は多岐に渡る(政治起源・宗教起源・職業起源・人種起源等)
8.「賤民解放令」が出されたあとも「旧穢多」に対する差別が続いたのは、「賤民解放令」にみあう具体的な政治的施策をとらなかった明治政府の失策に起因する

「皇国史観」と「唯物史観」の属性は、『部落学序説』の筆者である私が、手元にある資料から分析して得たものに過ぎませんが、両者は、思考の「パラダイム」という点では非常に似通ってものを以ています。近世幕藩体制を「夜」(皇国史観)とみなしたり、「暗黒」(唯物史観)とみなしたりします。その「暗黒」の中で、「旧穢多」・「特殊部落民」は差別と抑圧の対象とされていたが、明治4年の太政官布告によって、「旧穢多」はその桎梏から解放される、しかし、明治政府は、一片の法令を出すだけでなくそれを有効にするためになんらかの施策が必要であった・・・。思考の枠組みは、極めて類似したものがあります。

戦後、「皇国史観」は影をうすめ、「唯物史観」のみが、戦後の日本の歴史学の覇者として、さまざまな歴史研究に影をおとしていきます。「唯物史観」こ「科学的」(学問的)歴史であるとして、「非科学的」(非学問的)歴史であるとみなされた「皇国史観」は限りなく貶められていきます。その結果、日本の歴史学はどのような結果に陥ってしまったのでしょうか。

「部落史」分野に限って言及しますと、戦後60年の部落史研究の歩みの中で、「皇国史観」は、「唯物史観」によって「非科学的」(非学問的)歴史観として否定・駆逐されてきたのではなく、「唯物史観」の中に取り込まれ、「皇国史観」と「唯物史観」を、ミソそクソを一緒にするような仕方で、ごちゃまぜにされ、なんとも表現しがたいような恐るべき独自の歴史観に組み換えられていったのではないかと思われます。

その典型的な部落史研究者として、「部落解放研究所研究員」である渡辺俊雄があげられます。

渡辺俊雄は、前にものべたように、『いま、部落史がおもしろい』の著者ですが、『部落学序説』の執筆計画段階で接していた山口県の学者・研究者・教育者・運動家によって、筆者の「部落学」構築のための諸見解の批判の根拠として採用されていた論文です。筆者の記憶では、彼らから持ち出された、筆者の「部落学」に対する批判の唯一の文献ですが、無学歴・無資格の筆者は、有学歴・有資格の山口県の学者・研究者・教育者・運動家の批判に「誠実」に対処してきました。渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』の精読と批判検証もそのひとつです。

その結果、現代の部落史研究の見直しの主体の代表的な人物・渡辺俊雄の中に、なんとも表現しがたいような精神世界、「皇国史観」と「唯物史観」をごちゃまぜにしたような「非論理的」・「非科学的」・「非学問的」な「賤民史観」的側面があることを確信するようになったのです。

渡辺俊雄によると、明治4年の「解放令」は、「明らかに歴史の前進」なのです。明治4年は、「被差別部落」の人々にとって、ふるい時代とあたらしい時代を区別するひとつの「画線」(『特殊部落一千年史』)なのです。渡辺は、ふるい時代とあたらしい時代を明らかにするには、「同じ物差し」ではなく、それぞれ異なる「物差し」が必要であるというのです。

渡辺は、このように綴ります。

「「解放令」をもって封建的な身分差別はなくなり、同じ「平民」または「臣民」つまり天皇の臣下として、建前あるいは法的には差別はない社会になりました。建前にせよ、「臣民」として差別なく生きていく可能性が生まれたことは、大きな前進でした。にもかかわらず、現実には社会的に差別がある、という時代になりました。今日、私たちが問題にしているのは、そうした部落差別であり、部落問題なのです。そうしたあり方は近世からではなく、近代から、「解放令」をきっかけに始まった新しい差別のあり方です。それは、建前としても身分差別があった社会とは決定的に違います。ですから、近世も近代も同じ「部落差別」ということばで表現しても、その現われ方は必ずしも同じではありません」。

「皇国史観」と「唯物史観」とが、融合され、一体化されて、「皇国史観」でもなければ、「唯物史観」でもない、独特の「部落史観」が形成されているのがおわかりでしょうか・・・。「部落差別」の政治起源を否定し、権力の責任を限りなく否定し、「部落差別」の淵源を、「日本の文化」に求め、「部落差別」の責任を「国民」に押しつける・・・「皇国史観」的見方をしていますが、その理論的根拠は「唯物史観」の見る太政官布告の見解を採用しています。政治的差別はなくなったが、社会的差別はある・・・と。

「自由主義史観」に立つ「教科書」の「明治4年太政官布告」に関する記述とほとんどかわりません。「自由主義史観」が「皇国史観」を、どちらかいうと言明を避け、背後の潜ませていることを考慮すると、部落解放研究所の研究員が、「皇国史観」を前面に打ち出し、「唯物史観」との融合を図っていることを如実にしめす渡辺俊雄の論説は、一種異様なものがあります。その異様さを気づかなくさせている論理が、『部落学序説』の筆者である私が「賤民史観」と呼んでいるものなのです。「被差別部落」を「賤民的実体」とする「賤民史観」は、「皇国史観」・「唯物史観」の双方に通底している、それこそ、日本の歴史学に内在する差別思想なのです。

渡辺俊雄は『いま、部落史がおもしろい』を出版した2年後、『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)に収録された論文《部落史学習について、改めて考える》の中でこのように語ります。

「このような考え方は、必ずしも私一人のものではあるまい。特に、いわゆる自由主義史観への批判、論争の中で、歴史教育のあり方がさまざまに議論なっている内容には、部落史学習に関しても学ぶべきことは多い。たとえば・・・自由主義史観なるものがこれまでの歴史教育のあり方への批判として登場し、残念ながらそれなりの支持を得ている現実を考えれば、ことは自由主義史観による事実誤認あるいは捏造を批判して済むのではなく、歴史教育全体が問い直さなければならないだろう・・・」。

渡辺俊雄は、なぜ、「自由主義史観」に賛同し、傾斜していくのでしょうか・・・。

渡辺俊雄も「自由主義史観」の藤岡信勝も、その歴史理解の根底において「皇国史観」を受容し、その担い手となっているためではないか・・・、『部落学序説』の筆者にはそのように思われるのです。「被差別部落」の人々を「賤民」として把握する「賤民史観」を、日本の歴史研究の中から取り除くのではなく、「皇国史観」の導入でさらにそれを補強しようとしている・・・。

渡辺俊雄は、「どのような部落史像を描くかは個人の歴史観に関わることであり、それは誰からも強制されるものではないし、また強制すべきものでもない」と主張しますが、「自由主義史観」が教科書として、「公教育」の現場に持ち込まれるとき、同じことを主張できるのでしょうか・・・。

筆者の経験では、学校の教師と生徒の関係は、何を教え、何を学習するか・・・、それを自由に決定できる環境にはないのです。「教育」という現場においては、「教師」は「生徒」に対して「指導」という名の強制力をもっています。教師の指導内容の消化の程度を数字であらわす「成績」において、いい成績を修めようとすればするほど、「生徒」は「教師」の「指導」内容を無条件に受け入れなければならなくなります。「教師」の「指導」に反する解答をすれば「成績」が下がることを考えると、「生徒」には、「教師」の「指導内容」(中学校社会科であれば歴史教育の内容)について、自由な選択は最初から与えられていないのです。想定すら、されていないのです。

「教育現場」は、宮台真司が、その著『権力の予期理論』の中で、「権力装置」と呼ぶ、「人々が一定の枠内で自由であることを基礎にして選択圧力をかけ・・・」る場でもあるのです。

東京大学教育学部教授・藤岡信勝や、部落解放研究所研究員・渡辺俊雄の「自由主義史観」の「自由」は、「必ず権力を招き寄せる」(宮台)ものでしかありません。しかも、最も悪しき仕方で・・・。

渡辺俊雄は、森脇健夫著《歴史教育学の確立のために》(奈良歴史研究会編『戦後歴史学と「自由主義史観」』)に賛同して、「私なりの理解によれば・・・学校の歴史教育は子ども自身が自らの「史観」を形成することができるように援助することを第一の任務とするべきで、特定の歴史観を押しつけるべきでない・・・」といいます。学校教育という、それが私立であれ公立であれ、本質的に「権力装置」でしかない教育の現場で、生徒に選択の自由を保障した、まともな「史観」の教育などできるのでしょうか。

『部落学序説』の筆者である私が指摘する日本の歴史学に内在する「賤民史観」は、「皇国史観」や「唯物史観」だけでなく、「自由主義史観」においても先鋭化された形で「通底」されているのです。

渡辺は、その論文の最後で、このように綴ります。

「ファッショ的宣伝と言われれば無視するほかはない」。

渡辺俊雄は、おのれの思想や「自由主義史観」の思想が、あらゆる「史観」からひとびとを解放する・・・とうたいながら、実は、特定の「史観」(「ファシズム史観」・「軍国主義史観」)へひとびとを駆り立てていくものであることを、充分認識していたのでしょう。渡辺は、「秘められた」意図に触れられた場合は、「無視する他はない」といいきるのです。

「自由に部落史を議論していい」といいつつ、渡辺(部落解放研究所)に対する批判は「無視するほかはない」と言い切る姿勢は、現代の部落史研究や、「自由主義史観」に基づく歴史研究が、自由と選択を唱えるのは、実は形ばかりで、実際は、その背後に悪しき政治的意図を隠し持っているのではないでしょうか・・・。

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